終:嵐の前の静けさ
クラリス達を聖王国に残して、私はオロチの転移魔術で一足先に神殿に戻ることにした。
戻って早々に、クロヴィスから通信の魔具で、リベラグロ王国とモンフォスリウム王国の王族に連絡を取り、太古の魔物を封じている場所の警護を強化するよう伝えたと報告があった。
両国とも、太古の魔物についての情報は王族内のみの秘匿情報となっていたが、封印場所やその経緯についての認知はされており、国王は事情を聞くと二つ返事で了承したそうだ。
つまり状況を整理すると、帝国だけが、二百年前からこの封印に関する責任を放棄していたということ。
「……私がその時代にいたら、ぶん殴ってでもパオ王国への侵略を止めたのに……」
当時の皇帝ベンジャミンの愚行を無かったことにはできない。だが、どうしても「もしも」「こうだったら」と考えずにはいられなかった。
しかし、今それをどうこう言っても過去は変えられない。
それよりも、何としてもビュートの封印を守る方法を考えなくては。
と、その時、部屋にクロヴィスの魔力が顕現した。
つい先程通信の魔具で報告を聞いたばかりなのに、どうしたのだろうか。
「クロヴィス? 何か……」
あったのかと尋ねようとした声を呑み込んだ。
現れたクロヴィスが、私に向けて片膝をつき、跪いたからだ。
「……ど、どうしたの?」
「アリス、これを受け取って欲しい」
差し出されたそれは、大きな碧い宝石の填め込まれた指輪だった。
「指輪……?」
「順番が違っていてすまない。本当は結婚を申し込んだ時に渡すべきだったんだが……どうしてもアリスの瞳と同じ色の宝石で指輪を作りたくて……」
「……もしかして、一人で聖王国にいたのは、宝石を探すため……?」
私が尋ねると、クロヴィスは照れたように頬を紅くして、小さく頷いた。
「本当は、全部秘密のうちに用意したかったんだけどな……まさか聖王国の聖女選定でアリスが呼びつけられるとは予想外だった」
「何でわざわざ……皇族の婚姻に婚約指輪は不要なはずなのに……」
驚きすぎて我ながら可愛くない言葉を吐いてしまう。
そう、一般市民や貴族間であれば、プロポーズする際に指輪を用意しておくのが一般的なのだが、皇族の場合は婚約式でティアラを送る風習があるため指輪は必ずしも必要ではない。
「皇族の男が婚約者にティアラを送るのはあくまで婚約式という儀式のためだ。だから、そういう義務的なものじゃなくて、俺が、俺の意思で選んだ相手と結婚するんだっていう、決意表明みたいな感じで、俺がアリスに指輪を送りたかったんだ」
そう言って頬を掻くクロヴィスに、胸の奥がきゅんとなる。
「……どうか、受け取ってほしい」
じっと、青い瞳が、一抹の不安を孕んで私を見上げてくる。
指輪なんて、欲しいと思ったことなどなかった。
厳密には、前世の記憶を取り戻すまでは、それなりに恋愛結婚や婚約指輪というものに憧れがあったが、前世の記憶を取り戻してから、そういった宝飾品に一切の興味が無くなった。
それでも、クロヴィスが自ら探し出した私の瞳と同じ色の宝石が填め込まれた指輪を差し出されて、嬉しいと素直に思った。
「……ありがとう。クロヴィスは私に沢山のものをくれるのに、何も返せなくてごめんね」
「何を言っているんだ? アリスは俺の隣にいてくれるだけで充分だ」
「……そういう恥ずかしいこと、よく言えるわね」
照れ隠しに憎まれ口を叩くと、クロヴィスは少しだけおかしそうに笑った。
それから私の左手を取ってそっと指輪を填めてくれる。
「……結婚式まで、あと三ヶ月か」
「きっとあっという間よ……できれば結婚式までに全部片づけて、清々しい気持ちで臨みたいんだけどね」
「そうだな……行方不明になったビュートの胴体が気がかりだな」
クロヴィスの言葉に、私は頷きつつ窓の外に視線を投じた。
陽が沈み始め、空はオレンジ色に染まっている。
今の平穏が、嵐の前の静けさであることはわかっている。
それでも、だからこそ、この美しい空が、明日もそのまた明日も、ずっと続いていますようにと、祈らずにはいられない。
「……力を尽くそう。俺もできる限りのことをする」
「ええ。何があっても、クロヴィスは私が守るから安心してね」
「それは俺の台詞だと思うんだが……」
クロヴィスは僅かに苦笑して、私のことを優しく抱き締めた。
安心する温もりに包まれながら、私は彼の背に回した手を重ねて、そっと指輪をなぞるのだった。




