零:甦った記憶
それは突然だった。
脳裏を過った、膨大な記憶。
飛び散る血飛沫、染まる両手。
肉を切る感触、骨が砕ける音。
引き金の重さ、火薬の臭い。
その光景は前世の私の記憶だと、何故かすぐに腑に落ちた。
今の自分が生きる世界とは次元を異にする場所で、前世の私は、血濡れの乙女と呼ばれる、プロの殺し屋だった。
あらゆる武器を使いこなす特殊能力に加え、幼い頃から鍛え抜いた強靭な身体で熊をも素手で倒す事から、最強の女だと謳われていた。
しかし、そんな人を殺めるだけの人生を悲観して、自らの脚に重りを付けて海に飛び込み、二十五歳で人生の幕を引いた。
そんな凄惨な前世の記憶が鮮明に蘇った瞬間、私はこの世界で自分のやるべき事を理解した。
☆
後頭部に走った痛みより、唐突に蘇った前世の記憶の方が、私には衝撃だった。
今いるこの世界とは、おそらく次元の異なる世界での人生。
一瞬で駆け巡った膨大過ぎる記憶と感情に、頭が付いていけずただ呆然とした。
ずるずると座り込んで放心する私に、数秒前に私を突き飛ばした張本人が、しまったという顔をしたが、しかしすぐさまヒステリックに叫び出した。
「あっ、アンタが悪いのよ! アンタが私を差し置いて、聖女になったりするから!」
金髪に褐色の瞳の彼女は、デボラ・キューブ。
神殿に仕える神官見習いの一人で、私の同期だ。
今の私、アリス・ロードスターは、三十人程いる神官見習いの一人だった。今朝までは。
この神殿は、ファブリカティオ帝国の中の聖域と呼ばれる場所で、聖女を筆頭に、神官長、三人の大神官、六人の神官、多数の神官見習いによって国内の神事を取り仕切っている。
聖女は、浄化魔術を扱える清き乙女のみがその座に就く事を許されており、一代につき一名のみが神官長によって選出される。神官見習いの少女達にとっては憧れの存在である。
先日、先代の聖女が病によって急死したため、次代聖女の選別が行われた。
それに、私が選ばれたのだ。
しかしその直後、私は神官長に呼び出されて、衝撃の事実を知らされた。
本来、聖女とは、『完璧な浄化魔術を扱える女性』を指す名称であると。
しかし完璧に穢れを祓う浄化魔術はかなり高度で、それが扱える者は一代につき一人しか存在しないと言われている。
当然、崩御してすぐ次が見つかるものではない。
そのため、聖女の不在によって民衆の不安を煽らぬように、数十年前から、神殿は『お飾りの聖女』を擁立する事にした。
つまり、本物の聖女が現れるまでの繋ぎである。
ちなみに、私から数えて三代前の聖女が、最後の本物だそうだ。
彼女が崩御して以来の十七年間で、二人のお飾り聖女が民衆の不安を和らげるために尽力したという。
だから私も、本物の聖女が現れるまで、民衆のために力を尽くせと言われた。
そして、万が一私の在位中に本物の聖女が現れたら、聖女が二人存在したという矛盾を生じさせないために、秘密裏に死んでもらうと。
この事を知っているのは、神官長と三人の大神官のみで、六人の神官たちでさえ知らないという。
そう聞かされて、動揺しながら自室に戻るために廊下を歩いていたところ、突然デボラに突き飛ばされて今に至る。
「……代わってもらえるなら、代わってほしいんだけどねぇ」
私は、やれやれと溜め息を吐きながら立ち上がった。
前世の記憶が蘇る前、つまり数分前までの私は、気弱で流されやすい性格だった。
そのせいで、周りに合わせているうちに、あれよあれよと聖女になってしまった。運が良いんだか悪いんだか。
おそらく、神官長達の事情で、ある程度の浄化魔術が使えるうち、本物の聖女が現れた場合に大人しく死んでくれそうな、気の弱い性格の少女を選出しているのではないだろうか。
だから私が選ばれた。記憶が戻る前、数分前までの私は、間違いなく『気弱で流されやすい少女』だったから。
私は生まれてからずっと、何かが足りないと感じていた。心の中の、大事な部分が欠けているような、大事な何かを忘れているような気がしていたのだ。
それが、前世の記憶だったのだと、今なら確信できる。
今の自分が前世の自分と完全に溶け合った。
最強を自負する自分になったのだ。そうなれば、もう怖いものなど何もない。
「何ですって! アリスのくせに、この私にそんな言い方してただで済むと……!」
気が弱かった私をずっと虐めていたデボラは、強気な私の態度が予想外だったようで返す言葉に詰まっている。
彼女の父は大神官のガスパル・キューブで、溺愛されて育った彼女は物語に出て来る意地悪令嬢のような性格だ。神官見習いの中には彼女の取り巻きも何人かいる。
「煩いな。私とアンタ、これまでだって立場は同じ神官見習いだったでしょ? しかも今は私が聖女に決まったんだから、アンタは私にひれ伏して然るべきなのに、まさか突き飛ばすなんて……ゴーチエ様に報告すべき事案だけど、まぁ、おかげで取り戻せたものもあるから、今回だけは見逃してあげるよ」
彼女に突き飛ばされたおかげで、数分前までお飾り聖女の宿命に怯えていた私が、前世の記憶を取り戻してやるべきことを見い出せたのだ。
神殿の硬い石柱に頭を強か打ち付けたのは恨めしいが、今回だけは大目に見てやることにする。
私の言葉に、デボラは怒りで顔を真っ赤にしつつ、驚きで口をパクパクとさせて二の句が継げないでいる。
私はそんな彼女を鼻で笑って、その場を後にした。
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