救いの手
40)
「あああああーっ!」
親方が無情にも鎖を持つ手を離し、わたしの身体は、黒い涎を垂らして待ちかまえる土蝗の前に、落下していく——。
わたしはかたく目を閉じました。
脳裏に浮かぶのは、わたしを待つアスーリとエセの顔。
すまん、わたしがふがいないばかりに、お前たちを。
しかし。
親方の驚愕する声が。
「うおっ?! なんだお前?」
「ほらよ、あんたにもぶっかけてやるよ」
ザバリ!
「なにをするっ」
「あんたも下に、行ってこい」
ドガッ!
そして、ドサリと、ものが落ちる音。
ギィエエエエエエエエ!
土蝗の雄叫び。
「うわっ、うわっ? やめろっ、お前の餌は向こうだーっ」
親方が叫びます。うろたえた声色で。
なにが、いったい?
わたしがおそるおそるまぶたを開けると、まず目に入ったのは、向きを変えて、こちらに背を向けている土蝗の、てらてらと黒光りする甲殻。とがって伸びた尾の先からは、不気味な触手が出たり入ったりしています。
そして、土蝗の足の隙間からのぞいてみえるのは、顔をひきつらせ、向こう側の壁にぴったり張り付いている親方の姿でした。
いったいこれは、どうなっているでしょうか?
わけがわからないでいるうちに、鎖がぴんとはり、わたしの身体はするすると持ち上げられていったのです。
「やっ、やめろ! 来るなっ! おいっ、たすけろっ! たすけてくれっ!」
下では必死で叫ぶ親方。
山刀をふりまわし、迫る土蝗を近づけまいとしますが、そんなものが通用する化け物ではありません。
「あっ、あっ、あっ、ぎゃああああああああっ!」
絶叫する親方は土蝗の下敷きとなり、そして、あげ続ける悲鳴に、ばりばりと肉や骨を噛み砕く音が重なっていったのです。
41)
「なあ、あんた、なんでこんなことになってるんだよ」
手枷を解かれ、地面にへたりこんでいるわたしの足の傷に軟膏を塗り、手当てをしながら、わたしを救ってくれた男が、あきれたようにいいました。
この男は何者なのでしょうか。
こんな場所にいるなんて、この男もまた、猟人の一人なのでしょうか?
しかし、どう見てもそうは思えません。
猟人どころか、どんな職業もしっくりこない。
中背の、なにか特徴のない容貌の男でした。
その目はしかし、親方の、笑っていても酷薄そうだった目とは違い、優しげでした。
着ている服は、もともとはそれなりのものだったようですが、今、その服はずたぼろになって、あちこちに泥や血の痕もつき、まるで拷問でも受けたあとのようなありさまです。
破れた服のすきまから、男の首にのぞいて見える赤いものは首輪なのでしょうか。
とすると、この、得体のしれない男は、もしかしたら、逃亡奴隷なのかもしれません。
しかし、だからといってなんなのでしょうか。
親方の企みによって土蝗の餌となるところだった、わたしの命を、すんでのところで救ってくれたのですから。
感謝しかありません。
わたしは男にお礼を言い、名前を聞かせて欲しいとたのみました。
いまは無理だけれども、いつかこの恩を返さなければ。
「あ……おれの名か?」
男は、シャスカ、と名乗りました。
「で、あんたはここでなにをしてるんだ? あいつに——」
といって、あごで壺の底を示します。
わたしもそちらに視線を向けましたが、そこにはもう、親方といえるようなものは残っておらず、ただ、骨のかけらと、山刀が転がっているだけでした。親方を食らい、満足した土蝗は、また溝の中にもどっていったようです。
「自分から手をつきだして、あんなことするなんて。あんた、バカなのか?」
どうも、最初からわたしたちのことを見ていたようです。
「死にたかったのか? それにしては、たすけてくれって叫んでたしなあ……」
「いえっ、それは——だまされて」
そして、わたしは、シャスカというこの人に、わたしの事情を説明したのでした。
「ふうん……」
話をききおえた彼は、言いました。
「あいつもまあひどい奴ではあるが……あんた、やっぱりバカだな。人が良すぎる」
返す言葉もありません。
「で」
と、続けます。
「あんたの娘の、エセだったか、その子は、かわいいんだな」
「それはもう。自慢の娘です」
「なるほど……立てるか?」
わたしは、よろけながら立ち上がりました。
「うぐっ」
手当てはしてもらったものの、親方に斬られた足の傷はやはり、ずきずきと痛みます。
でも、まったく歩けないほどではありませんでした。
「なんとか……」
「ほう、あいつから分捕った軟膏、なかなか効くじゃないか。よかったな」
そういってシャスカはにやりと笑うのでした。
「じゃあ、行くか、ついて来な」
歩き出そうとするその人に、わたしはおずおずと声をかけました。
「あの……」
「ん? なんだい?」
「あの、土蝗の涎を、集めてもいいですか? 親方はあれが魔涎香だと」
「あ?」
シャスカは、呆気にとられた顔をして、ついでげらげら笑いだしました。
「はあ? あれが魔涎香だって?」
「親方は言ってましたよ、儂の見立てではまちがいないって。あれを少しでも持って帰れば、娘を——」
「ないない」
シャスカは、手をひらひらと振って言います。
「んなわけないだろ、あれはただの、化け物のよだれ。あんなものに効能があるわけないだろうよ」
「そ、そんなあ……」
力が抜け、がっくりとひざを突くわたしに
「心配するな、おれがなんとかしてやるから。さあ、ついて来なって」
そういって、手を差し出したのでした。
読んでくださってありがとうございます。とりあえず助かりましたが、あいかわらず警戒心低い男ですね。これは、今後もなおらないでしょうね。
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