(5)
平面的な『思い出』のなかを、さまよう。
「可愛い子。あなたの名前はマリアよ」
「おいで、マリア」
うそつき。
「マリアちゃん。あそぼ?」
うそつき。
「なにしてんの、マリア」
うそつき。
「あの、さ……マリア。俺――」
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
覚えてないの。私はなにも知らないの。
それでいいの。それでよかったの。
「ひとつだけ約束してほしい」
だまって。
「頼むから、俺を」
もういいわ、だまって。
「忘れないでくれ――」
いい加減に、だまってよ!
私はだれ?
――私はだれでもない。
私はだれ?
――私は人ですらない。
じゃあ、私はなに?
「いらっしゃい。マリアさん。ずっと、あなたをお招きしたかったの」
うそつき。
「いいえ? ほんとうよ。私は、あなたに会いたかった。私にはあなたが必要だもの」
うそつき。
「昔のことなんて気にしなくていいわ。思い出せなくても。私はあなたの味方よ、マリアさん」
うそつき――。
だから、言ったじゃない。
ホントウノコトなんてどこにもない。
ぜんぶ、空っぽな嘘。
奥行きのない絵空事。
私は、私以前のだれでもない。
私に過去なんて存在しない。
『思い出』はぜんぶ嘘。
交わした言葉も約束も、なにもかも、ぜんぶ。
そうでしょう?
答えなさいよ、どうせ知ってるんでしょう。
――ゲーデ。
「お前に設定された『心』の原型が人であったか否かなど、俺の知ったことではないが」
いいから答えなさい。
もっとも賢いもの、なんて言われながら、そんなこともわからないの?
「心あたりが無い。ゆえに、死人でないのはたしかだろうな。もっとも生きた原型がわかったところで、中途に自我を持った模造品に居場所はあるまい」
……そう。
知ってたけど、やっぱり私に選択肢なんてないんだ。
「過去も未来も、真実も嘘も、お前はまとめて俺に売った。いまさら分類する必要はない」
そうね。嘘のなかに多少の真実がまざっていたところで、それはタチの悪い嘘だもの。明晰夢だって、目覚めなければ現と変わらない。
これは夢?
「お前が夢と呼ぶならば」
これは現?
「お前が現と呼ぶならば」
答えになってないわよ、ゲーデ。
「俺に答える義務はない」
そうだったわね。あんまり律儀に答えてくれるものだから、忘れてたわ。
あんたは神様。私は、……ねぇ、私は、なんなの?
「人が勝手に呼びわけた呼称が正しいとも思わんが、憑代、と呼ぶものもいる」
ふぅん。そう。
「どうでもいいわね」
目を開けた。
夢から覚めた先の夢。
ここが、私の戦うべき舞台。
――だけど、なにと戦うの?
学園を一望する物見塔の屋根の上で、ひとり仰向けに寝転がる。物語はまだつづいている。世界はまだ動いている。
ヒナも双子も、どこかで生きている。けれど、彼らを殺したいという気持ちはなくなってしまった。
だって、私はなにも持ってない。
ここにくる前も、ここにきた後も。
壊れかけた世界を壊しても、壊さなくても、私に取り返せるものなどないのだから。
「ゲーデ……」
死神は答えない。
それでもわかる。
私たちはすでに鎖でつながれた。
赤い糸なんて儚い幻想的なものじゃなくて、赤黒い血の色をした堅固な鎖で。
私を操る糸はない。あるのはただ、黄泉路に向かうことさえも許さない強欲な枷だけだ。
上半身を起こすと、ふわり、と宙に浮いた金の髪が、まるで切れた糸のように風に泳いだ。
遠く眼下に崖が見える。底のみえない渓谷が。
ここは断崖に立つ学園。絶壁の半島。おかしいじゃないの、こんなところに、どうして闇に包まれた渓谷があるの?
深い深い裂け谷が、ぽっかりと黒い穴を開けている。学園の裏手で、その穴がすこしずつすこしずつ広がっている。
壊れかけた世界は、長く持たない。
壊したいの?
保ちたいの?
直したいの?
わからない。
だって私は部外者だから。
「ねぇ、ゲーデ」
ひとりごとのように、くりかえす。奴は聞いている。すべてを聞いている。
「双子はどうしてここにきたの?」
風が耳もとで唸っていた。
「ヒナが喚んだの? もともとここにいたの?」
疲れた様子で羽を動かす飛竜と目があった。
背中にはだれも乗っていない。
陽を反射する鱗には、灼けたような跡と、裂かれて盛り上がった肉と、それから血痕。
「奈路愛は死んだの?」
死神は答えない。聞こえているくせに、答えない。
飛竜が歯列を剥き出しにして、私を威嚇する。気が立っているのだ。以前なら震えあがっただろうけど、いまの私はなんとも思わなかった。
つまらない、とふと思う。
これが退屈か。ゲーデが、そして《不死人》が囚われた、まさしく不死の病。
塵芥を見つめるような目でくすんだ巨体を眺めると、飛竜はビクリと身を震わせた。
なにかを確かめるように、なにかに怯えるように、縦に長い爬虫類の瞳孔を限界まで広げて、威嚇していた顎を力なく垂らして、ジィ――と私を、その奥に眠るものを、見つめている。
瞳のなかに映り込んだ私の姿は、波打つ癖のついたブロンドと、それから、碧い――え? 碧い瞳を縛りつけるようにまとわりついた、紫色の虹彩が重なって見える。
フッと、意識が途切れた。
また『思い出』に沈むのか、と嫌気が差す。
いらない。ぜんぶいらない。欲しいなら、あんたにあげる。私には必要ない。
「なぜ? 人は過程をもってして初めて己を確立するというのに」
そこにあるのは私じゃないもの。
私に向けられた肯定はひとつもないもの。
だからいらないの。
ぜんぶいらないの――――。
「なるほど、つまらんな」
自分の口から、するりと出てきた声に戸惑う。
気づけば『主演:私』の三流恋愛映画は消え去って、目の前にはまた学園の空。
飛竜がいない、とふと気づいた。
どこに行ったのかはしらないけれど、きっと興味をなくしてどこかへ――いいえ、ちがう。
あれは死んだ。もともと長くはなかったけれど、黒い亀裂に呑まれて消えた。私はそれを見ていた。いまのプログラムはバグの温床。なにがきっかけで、どんな不具合が起こるかわからない。
……ここはゲームなの?
こんなに壊れた、いまでも?
それとも。
規則性の崩れ落ちたその先では、製作者の思いもよらない、どんな世界が待っているのだろう。
ひとりでに身体が立ち上がる。
変な感じ。
空中に踏みだすと、そのまま自然に身体は浮いていた。私が歩いているのか、ゲーデが歩いているのか、わからなくなる。空中散歩を気取って、見えない階段を登るように、より高みへと上がっていく。
目的地はとくにない。強いて言うなら見物席。
地上数百メートルで、終わりかけた物語を高みの見物しようとしている。
あれほど嫌いだったのに、いまは下の渦中へ飛び込んでいく気になれない。理由がないのもそうだけど、……なんだろう。つまらない。
確信しているからだ、と気づいた。己の介入で、世界の行方が大きく変わると。変える意志もないくせに、指先で弾くように狂わせてしまうと。それでは、つまらない。
だから、私は、ゲーデは、高みの見物をきめこむ。いまさらこいつの思考回路がわかるなんて、変な気分。だからといって気に入らないのは変わらないけど。
徐々に徐々に、なじみだす。
変な感じ。
混ざり合わないまま、混ざっていく。
変な感じ。
代わる代わる照らされていたスポットライトが、いまは二箇所をせわしなく行き来していて、まるで見かけ上、ふたつのものが同じ場所に存在しているみたい。
てっきり、私は私じゃなくなるものと思っていたのに。
なんか嫌。憑代だかなんだかしらないけど、現人神なんてやってられない。面倒なことにはつきあいたくない。器にするなら全部もってけばいいのに。そしたら私はきれいさっぱり――
「許すと思うのか?」
また、声が。勝手に口からこぼれだす。私の声なのに私じゃない。ああ、そもそも私なんていないんだっけ。面倒くさいな、どうでもいいや。
「ゲーデ、あんたどこ見てる?」
自分の声で自分と会話。頭おかしくなりそう。
半分を変態に侵食されてるんだから、もうおかしくなってるようなものか。
ていうか、不平等じゃない?
私の思考には口出しするくせに、奴の思考は覗けないなんて。
「やめておけ。気が狂うのがオチだ」
人の身に収まる容量じゃないって? ふぅん、ああそう。べつに、あんたの変態的な思考回路なんて覗きたくないっての。たとえ知恵の泉だとしても無理。生理的に嫌。
……そんなことより、なに見てんのよ。
「ふむ。これはこれで悪くないが、思念の罵倒だけというのはもの足りんな」
「だまれ変態。自傷なんてしたら許さないから」
「俺に自傷癖はない」
「はあ? 笑わせんじゃないっての、変態。蹴られても殴られても恍惚としてたじゃない」
「言っておくが、肉体的被虐性欲は≪不死人≫の嗜好だ」
……ちょっと。不死人生楽しそうじゃない、話がちがうわ。
「おい、いますぐ鏡を覗け。蔑んだ眼差しを――」
「それ以上言ったら舌噛むわよ。ほんと気持ちわるい。精神的のがむしろタチワルイわ」
私の声で、なんて発言してくれんのよ、好色ドМ死神が。
ため息を漏らしながら、ほかの転入生たちについて、思いを巡らせる。
ミツキはどうするのかな。『美月』の記憶をとりかえすの?
鳴神ハルはまだ淫魔に囚われてるんだろうか。
浜屋さりは……、え、なに? そんな面白そうな裏事情、さっさと教えなさいよ。死者とは一通り面識あるんでしょ? 興味関心は私が決めるの。あんたにとってどうでもいいかどうかはどうでもいいの。はあ? 不満漏らしながら興奮してんじゃないわよ、ド変態。
……そう。雪女は世界の核を壊しにいったんだ。
核、か。
核ってなんだろう。
手に入れれば世界が思うまま。じゃあ壊したら?
どうなるんでしょうね。この世界がゲームなら。その核すらもプログラムにすぎないのなら。内側をどれだけ削ったところで、物理的な崩壊はしないんじゃないの、もしかして。
暁御影。
いるり。
ルディ。
中池御南樹。
双子が招いた転入生たちは、それぞれに生き残っている。
みんなの怒りの矛先は、最終的にどこに向かうんだろうね。
どんな終幕が待っていようが、どうせゲーデが飽きるまで死なせてもらえやしないんだから、私には関係ない。
だけど、――そういえば借りがあるんだったっけ。
「私はだれの味方でもないわ」
美月。ルディ。シャノン。
数少ない『お友達』の不利になることは、やらずにいたいな、――なんて、この期におよんで、甘いのかもね。
「ところで、ゲーデ。あんた≪不死人≫どうしたのよ」
「死んではいない」
「それ、精神面が瀕死ってことよね」
「捨てろと言ったのはお前だろう? 殺してやってもよかったが、対価なく望みを叶えるほど俺は暇ではない」
「よく言うわ。退屈に殺されかかってるくせに」
なんとなく気づいてたけど。ゲーデなら、≪不死人≫の再生能力なんて無関係に命を狩りとれるだろう。傷つかないわけじゃないんだから、一瞬で全細胞を死滅させてしまえば確実に死ぬ。そういう意味で、≪不死人≫の不死は不完全だ。
「だいたい、対価もなにも、家主じゃないの。借りならあるでしょ」
「すでに終わった取引だ。あれは俺に『生きていたくない』と望んだ。『殺してくれ』と願われた覚えはない」
「ほんとうにサイテーね、あんた」




