第百十九話 海の向こう側の敵
ライトグリーンの光だけが、その部屋を埋め尽くしている。
滝のように上から下へと流れていくその文字列は、視界を埋め尽くしてしまうほどの密度で、どの字がどの列に属しているのかも、判別しづらくなっている。
オフィスチェアに寄りかかるように座る、眼鏡を掛けた男は、一度体を前傾させて、静かに呟いた。
「……私自ら出るか? いやしかし、こちらの手の内を晒すわけにはいかない……私の術式は観測のできない閉鎖的な空間で、かつ少数を相手にし、全員を殺して情報を漏らさずに済むときのみ使われるべきだ……今は俺自ら戦うときじゃない……」
瞳にプログラムコードの魔力を灯した空閑肇は、滔々と、思考を言語化してまとめていくように語っていく。
「やはり、楠晴海を味方に出来たのは大きい……彼女は私が持つ現時点で最強の駒であり、能力を隠したい私の代行者たりえる……彼女の術式の性質からしても、完璧だ」
彼が動かせる手駒は、協力的なDSプレイヤー。そしてDS運営が有する特殊部隊である〝特殊執行群〟だ。後者はDS運営のために使われるという都合上、彼個人の目的のためには動かしにくいところがある。しかし、楠晴海はそういった枷に囚われない。
ふと、思索に没入していた彼が起き上がり、後ろの方を見た。瞠目する彼が、重世界へ突入してくる存在を感知する。
渦巻く様な桜の花びらとともに、そこへ、黒髪ツインテールの美少女が現れた。
「童。息災であったか」
「ああ……老桜さま。やっと戻ってきたのですね」
あくびをしながら空閑の下へカツカツと歩いてくる彼女は、五体満足であり、その魔力の質を切り取って見てみても、万全と言えよう。彼は彼女の帰還に驚くこともなく、じっと、空に流れるプログラムコードを眺めていた。
「全く。災難であったわ」
「あの後、どうしていたんです?」
「どうしていたもなにも、あの竜が作った重世界の流れに取り込まれかけて、裏世界側へ落ちそうになっておったわ。妾の全力クロールを以てしても、その場に留まるのが限界だったのじゃよ」
「はぁ……なるほど……」
裏世界に取り込まれそうになるほどの流れを想像し、そこでクロールを続ける彼女の姿を、空閑は想像した。
「しかしな、クロールを続けて一月ほど経ったときのことよ。妾は気づいたのじゃ。全力バタフライであれば、その流れを脱することができるのではないかと」
「は、はぁ……」
「バタフライを続けて……どれくらいの時だったかは分からんな。まあ、とにかく、何とか流れから脱して、戻ってきたわけよ。ま、帰りのついでに世界の最果てをつついてみたりしてみたがの」
「……老桜さま。貴方、魂だけ飛ばして体を放棄すれば、すぐに脱出できたでしょう。何故そうしなかったのです?」
「だって、妾はこのぷりちーぼでぃーを気に入ってるもん。嫌じゃ。捨てるの」
「…………」
ガラクタだらけのその部屋の中で、ちょうどよい居場所を見つけた彼女は、長方形の謎の黒い物体の上に乗り、胡坐をかいた。
「しかしなぁ……また、面白うことになっておるのう」
「……動かれるおつもりですか?」
「いや、妾は満足じゃ。始まりの妖異殺しとの約束もあるし、現世に介入しかき乱すことは好まん……というか、草場の陰から奴が怒っているような気もする。それに、童が用意した晴れ舞台は、非常に心躍るものであった。もう数十年は動かんでもよい。まあ、妾の方から動くことはもうない」
バランスブレイカーとなりうる、最強の手駒としての彼女。それと同時に混沌を招きかねない性質。それを意識した空閑は、もう彼女を動かせなくなったとしても、惜しくはないと結論を出した。
「ハハハ。良かったですよ。随分と、あの竜との戦いがお気に召したようで」
それとなく口にした言葉を聞いて、老桜が心底不思議そうな、きょとんとした顔で言い放つ。
「……? もしやお主、妾がたかだか竜と戦うことができたから、あそこまで歓喜したと思っているのか?」
「……そうではないのですか? 半人半竜。それに付き従う二匹の空想種など、なかなかいないでしょう。ましてや、没落した雨宮の姫を助けようとする。実に面白いではありませんか」
老桜は、深い笑みを浮かべ、哄笑する。
彼女は、認識の違いが生まれていたことを確信した。
「戦国の世では、珍しい話でもない。今風に言うのであれば、空想種のバーゲンセールみたいなもんじゃったぞ。あの時代は」
懐かしむような表情になった彼女は、普段の彼女では見られない声色で、静かに語る。
「……覇者となった波旬などは、蝮を喰らい大猿やら平蜘蛛やらを連れておったしな。北に龍は二匹ほどおるし、虎もおったし、南の方へ向けば蝙蝠やらなんやら。あぁ、それと、〝戦塵〟などもおったな。童と三回タイマンして生きてるのは、奴くらいしかおらんぞ。あの、〝重獄〟に囚われておる」
「……はぁ。なるほど」
「そもそも龍なんぞ、世界の最果てまで行けば腐るほどおるわ。戦いたかったらかの地へ行けばいい」
ポリポリと頬を掻く彼女は、明らかにこの状況を楽しんでいる。
空閑が、確信を突く質問をした。
「では……何故? 空想種と戦うこと。それを喜んだわけではないのであれば、何故満足されたのですか?」
「ククク。因縁じゃよ因縁。あの竜……あの若い男に、妾はある因縁があった。お主。さては、お主の明確な敵となりうる、海の向こう側にいるモノが誰か、まだ分かっていないな?」
「…………」
「カカカ。まあ、仕方あるまい。どれ、昔話をしよう。妾は……そうさなぁ……あれは、二十年ほど前の出来事だったかな。ある男と、戦ったことがある」
それは、そうさな。何重もの攪乱術式を発動しているのにもかかわず、妾のいる重世界の座標を突き止めた何者かに誘われ、暗い、北の街の夜道に出たときの話だった。
「……貴方が、始まりの妖異殺しから時代の行く末を見届けるよう、願いを受け取ったという、古き妖異殺しか」
「何者じゃ。童。名を名乗れ」
「━━━━だ」
そう名乗る男は、明らかに、妾が会ったモノの誰よりも、異質であった。戦国の世で出会ったどの武者よりも、益荒男よりも、妖異殺しよりも、異質も異質。一応、人の身も残す妾が、拒絶したくなるような。
風を起点とした術式を纏い、自然と暴風を放つ男は、そうさな。
強いて言うならば、お前と同じ類の力を身に着けていたよ。空閑肇。
拒絶したくなる力。重ならないはずの力。妾は、お主が持つ力の本質に、気づいているぞえ?
まあ、話が逸れた。奴はあのとき、妾も知らんような話を、一方的に聞いてきたのじゃよ。その、細かい内容までは覚えとらん。
彼は言った。
「では貴方は、裏側を訪れたことはないのか」
「……遥か昔、妾が完全に人の身であり、妖異殺しというものが成立する前。一度始まりの彼とともに、彼奴らの技術を奪い去るため、概念を確立するために、侵犯したことはある」
「そうか」
「しかし貴様、目上の者に対する敬意がないのう。先ほどから、老体をいたわることもなく、質問責めにして。貴様は何なんじゃ? 貴様が妾と会話することが出来ているのは、妾がその不可思議な術式……〝魔術〟を楽しんでいるが故にと、理解せよ」
「……」
だんだんイライラしてきた妾は、一応街を気遣って、〝侵蝕〟の術式を用い、戦う為の結界を展開した。それをいくさの合図と受け取った男は、どこからともなく槍を取り出して、妾と刃を交えることになったのよ。
「貴様ァ!! なんじゃその術式!? 見たこともない!」
「ッ……!!」
男の槍捌きは、文字通り、世界一のものであった。しかし、妾が槍を相手取るに有利な剣を用いるとみれば、なんの執着もなく槍を放棄し、突如として世界一の大魔術を行使して、妾を消し炭にしてこようとしてきたのよ。
そして魔力が切れたところを狙い殺そうと思えば、今度は大魔術を発動しなくなった代わりに、突如として無尽蔵の魔力を持ち始めた。そうかと思えば、妖異殺ししか持たぬはずの術式を大量行使し始めたり、妾が言うのもなんじゃが、そやつは何でもアリじゃったのよ。マジで。
そうして、血沸き肉躍る、戦国の世でもなかなかいないほどの武者を相手に戦っている最中。
「━━くん!」
いきなり現れた二人目の魔術師……謎の魔女に、氷結の大魔術を行使され、不意打ちを喰らった。氷漬けにされる中、氷に歪む視界の中で、男が何故か女を労りながら、撤退していったのを覚えている。
氷を割り、すぐに追跡をしようと思ったが……
痕跡という痕跡が一つもなく、魔力は消え、なんと〝八咫烏〟を持つ妾でさえ追跡が不可能な状態となっておった。
妾も本気を出して戦ったわけではないが、おそらく、本気の妾を相手取れるほどの相手。それであることは明白だった。
しかし、そんな不思議な一夜の後。奴と会うことはついぞ、一度もなかった。
そう。言わんとすることは、わかるじゃろ?
それが、おそらくお主の敵。
空閑肇。お主の掲げる正義と、相反する正義を掲げる奴は、妾でさえ手こずる猛者であり、お主が隠し持っている力次第ではあるが、勝機は薄かろう。それに、あのときから年も食っているじゃろうから、お主より老練じゃ。
故に、妾はこの話をした。そうすればお主はきっとそれが誰かに気づくであろうし……そちらの方が、面白いからな♪
彼女の話を聞き終えた空閑は、静かに、されど目を爛々と肉食獣のように輝かせて、更なる思索を開始した。宙を行くプログラムコードを眺めた老桜が、彼に警告をする。
「童。上総の方の妖異が動き出したようだぞ。やっと奴らの狙いが分かったわ」
「……戦力を配しました」
「それと……ククク、死刑囚どもが出てきたようだ。重家探題が浮足立っておる。あの竜をぶつけるつもりのようじゃな」
「……何?」
ぽきぽきと首を鳴らす空閑が、それは許容できないと一度立ち上がる。