第百十二話 情報整理
ぬるい、生暖かい風が頬を撫でた。
あちこちには雨の匂いがしていて、これから降るのではないだろうか、という湿気を感じる。
空を泳ぐ黒雲は、青を埋め尽くすように広がっていて、辺りは薄暗くなっている。
……朝日が昇ってから、数刻の時が経っていた。
天気が良かろうが悪かろうが、いつも通り、人々は外に出て経済活動を始める。
侵犯妖異が、いつやってくるか分からない。
独自の情報網を持ち、数分で救助を送ることのできるヒーローも存在していたが、彼らだけに任すわけにはいかないと、重家の者たちも精力的に活動していた。
渦の破壊を止める様調停され、戦闘は行っていない雨宮家の実働部隊、雨竜隊は、今現在、街のパトロールを行っている。
十五の分隊の内、偶数番の隊を動かして、東京の各地に展開させていた。
「……今日は、降りそうだな」
差し出した手のひらを、雨粒は撃たなかったが、いつ落ちてきてもおかしくないような気が、雨竜隊副隊長である村将にはしている。
彼の周辺には、彼が率いる第二分隊の妖異殺したちが広域に展開しており、侵犯妖異の出現を確認次第、援護に駆け付けられるような距離をお互い保っている。
彼の部下の一人が血相を変えて、村将の元へやってきた。彼は今、新たに製作された、雨竜隊の制式装備を身に纏っている。黒を基調とし金の意匠が施され、体に似合わぬ大きさをした外套の中には、市民を脅かさぬように武器が隠されており、妖異殺しとしていつでも戦闘が可能な状態にある。
妖異の素材や龍の宝物殿にあった反物を利用しており、非常に高性能な代物だった。
「隊長! 今、参謀本部から……御庭さんから連絡がありました! 大変です!」
「どうした!? 何があった!」
「房総半島の山間部に、突如として伝承種を中心とした妖異の混成群体が現れたそうです! 加えて、横浜にも妖異侵犯が! このため、一度外に出ていた分隊を重世界に集結させ、再編せよとの知らせが……」
確かに、その判断は間違いない。しかし、それをするには、余りにも時間が足りなかった。
その情報が入ってきてから動き出すのは、余りにも遅い。
「バカ者! 房総と横浜に特攻まがいの戦いを仕掛けに来たのなら、あとは一つだろうが!」
薙刀を振るい、燃え盛るような焔の魔力を村将が展開する。
瞬間。土砂崩れが起きる直前のような、轟音が世界に鳴り響く。
雨宮の妖異殺しは、音の鳴る方を見上げてみて、瞠目する。
東京の空が割れていた。
その罅は雲を吸い込み、陽光を差し込ませ、まるで、その降臨を称えるようにしながら。
世界が、ひび割れていく音がする。
空から、黒き妖異が降ってくる。
その数、質を一目見て察した村将は、判断を迫られていた。
思考は数瞬。躊躇いなどない。今こそ、妖異殺しの力を見せる時だ。
「あの先鋒隊と激突して、奴らの出鼻を挫くっ! お前はこの現場にやってきた雨竜隊、他の重家と交信し、連携を呼びかけろ。前哨戦で、この規模。重家の峰々の力を糾合せねば、致命傷となる!」
町中に、妖異侵犯を知らせるアラートが響く。
外に決して出ない様、機械的に知らせる言葉が、今では明るくなった空に木霊した。
燦々と太陽が輝く雨宮の重世界にて。
裏世界からの超規模侵犯。情報が錯綜し、人々は大混乱に陥っている。
あちこちが異様な雰囲気に飲みこまれていて、誰もが不安を抱えていた。
広場を走り回る、文官は避難民の受け入れ準備に奔走しているようだ。交信の術式が使える重術師は各地に連絡をして、雨宮との連携を希望するものを集め、戦力を集結させている。御庭を中心とした術式屋は、作製した魔道具の類を倉庫から運び出していて、実働部隊のメンバーとなる里葉や妖異殺しの者たちは、広場にて装備の点検を開始し、体を温め、精神と魔力を研ぎ澄まさせて、出撃の準備をしていた。
「ヒロ……」
青時雨を手にして、引き締まった表情を見せる里葉が、彼女の婚約者のことを思う。
これからの雨宮の動きは、上層部である彼と彼女の姉、そして参謀本部の者たちに委ねられていた。
重術によって空調設備が整っているはずの参謀本部の空気は何処か、重く、暑苦しい。ねっとりとしたものが背に張り付いてくるような、そんな気持ち悪い感覚が、俺を苛ませた。
与太話だろうと思われていた、戦国時代の大規模侵犯の記録と類似する規模の妖異侵犯が起きていると思われ、各地の重家は大混乱に陥っている。政府も、頼りがいのあるはずだった重家が動揺する姿を見て、事の大きさを感じてきたようだ。
SNSを開いてみれば、空を割り降り注いでくる妖異の映像が。買い物帰りの主婦がいきなり頭から噛みつかれ、即死している映像が。民衆を守るため、急行した妖異殺しが衆目があることも厭わず、術式を全力で行使する映像が。惨事を伝えてくる情報が、氾濫する川のように迫って来る。
少数を相手にすることに慣れていた”ヒーロー”は、大軍勢を相手にするノウハウがなく、敗走を繰り返しているようだ。妖異殺しの者たちは目の前の民衆を救おうと、戦力の逐次投入を繰り替えし、被害を拡大させている。
しかし、市民を救おうと犠牲となった彼らのおかげで、俺たちは情報と時間を得ることが出来ていた。
「……一分一秒でも早く、方針を打ち出さなければなりません」
努めて冷静な表情を浮かべようとする義姉さんが、俺たちの方をじっと見ている。参謀たちはゴクリと固唾を飲み、あの冷静沈着な片倉でさえも汗を浮かべていて、当の俺は、今動くことのできない自分の立場を憎んでいた。
「まず、情報を整理したいと思います。片倉さん?」
「はい。では、順を追って説明したいと思います。まず最初に起きたのは、千葉県南部……房総半島、山間部での展開を狙った、大規模侵犯です。とうとうこの時が来たかと、即応した周辺の駐屯地から、妖異との交戦を目的とし、設立された妖異科を中心とした部隊が出撃しました。地の利もあって、山間部での戦いを上手く進めていたのですが……一部で防衛線を突破され、今、木更津市で混戦、激戦が行われています」
ボードに、関東地方の地図が貼られる。重術の光によってピンを刺したそこには、妖異の群勢を示すピン。自衛隊を示すピン。重家を示すピンと、多くの情報で彩られていた。
「この事態を受けて、政府は即座に緊急事態宣言を発令し、関東地方の各駐屯地から、部隊を出撃させました。また、空閑肇の『ダンジョンシーカーズ』麾下の、特殊執行群も派遣され、戦いを有利に進めるかと思われました。重家の峰々も協力的な姿勢を見せ、特に房総半島を拠点とする蓬家が獅子奮迅の活躍を見せています」
「が、しかし」
話の転換を示した彼に合わせて、地図上にまた光が浮かび上がった。
「山間部での展開を目的とした房総半島の群勢とは違う、都市部に対する第二の大規模侵犯が、神奈川県横浜市で起きました。しかし幸いなことに、過去に何度もこの場所への侵犯があったことから、ここに来るだろうと踏んだ重家が事前に展開しており、市民が避難するまでの時間を稼ごうとしています」
「展開している重家は?」
「佐伯家を中心とした中庸の重家、および保守派の重家です。戦力比は、3:7といったところでしょうか。しかし、佐伯家の方には大老と呼ばれる傑物がいますので、こちらが中心となっているようです。秘蔵っ子の初維は、東京にいるようですが……」
「……その面々でも、時間を稼ぐことしかできないのか」
今、保守派の重家と、雨宮家の関係はあいまいなところがある。
白川事変の際、彼らが敵に回ることを考えて、戦力評価を緻密に行ったが、彼らは相当の強さだ。しかしそれでも、妖異侵犯を止めきれぬという。援軍も続々集まっているとはいえ、まだ裏世界からも妖異が投入されている。数的有利は持てていない。
「都市部の方に、止めきれなかった妖異が続々と雪崩れ込んでいて、被害が拡大しています。今、民間人の被害が最も多いのは、ここです。はっきり言って、地獄一歩手前です」
「……クソ、が」
この前彼と読んだ、あの資料の写真たちが頭に浮かぶ。あれと全く同じ悲劇が、今ここで起きているというのか。
(「アプリ『ダンジョンシーカーズ』は裏世界の侵攻に対抗し、重世界産のアイテムを収集するために開発された官民連携のアプリです」)
初めてこの世界に触れた、里葉の言葉を思い出していた。
俺たちは本当に、戦争をやっているのだと、自覚させられる。
重苦しい沈黙が、場を満たす。
普段、あんなにおちゃらけている澄子さんは笑み一つ浮かべないし。
重家の常識に未だ慣れぬ、アシダファクトリーのザックと芦田は、目を白黒させている。
「狼狽えるな」
黒漆の魔力を立ち昇らせ、黒甲冑と陣羽織を纏う。
口元には面頬を付け、腰に竜喰を差し、右肩の辺りから銀雪を呼んだ。
銀雪の白銀の魔力が、降り注ぐ淡雪のように宙を揺蕩って、部屋が冷気に包まれる。
「……片倉。続けろ」
「はい。そして、たった今起きたのが、東京に対する第三の大規模侵犯です。パトロールに出ていた村将を中心とする雨竜隊の面々も既に敵の本隊と当たっているようで、その勢いを削ごうと必死に遊撃戦を仕掛けています」
「敵の戦力は」
「諜報部に情報を集めさせていますが、おそらく……東京、横浜、千葉の順で大きいです。首都に大打撃を与え、国家機能を麻痺させるのがこの侵攻の目的かと思われます。それぞれの群れには、伝承種が十数体、いや、それ以上混ざっているようで、現地の妖異殺したちは、絶望的な戦いに挑んでいます」
義姉さんが、俺の方をじっと見た。
参謀総長という肩書きを得た日のことを、静かに思い出す。そうだ。俺には、こういう戦い方もできるはずだ。その片鱗を、白川事変で俺は見せただろう。やってみせろ。今ここで。
竜の言葉には、誰だって耳を貸す。その言葉を信じて、勇気づけられて、戦ってみせるはずだ。
「みんなの意見を聞きたい。一人ずつ。時間がないから、簡潔にだ」
竜の右目を、ギョロリと動かした。






