第百十一話 THE DAY BEFORE
仲間はいない。もう持たない。
紫煙が己を慰めてくれれば、それでいい。
一人、そっと陰に隠れて誰かを助けられるならば。消防士としてやってきたように、町の安寧を保てるのならば。そう考えて、彼は再び動き出した。術式の行使により曲がり切ってしまった、昔の熱さを完全に失った性格で、それでも足掻いている。
『ダンジョンシーカーズ』に登録された後、彼はひたすら渦の間引きにつとめ、侵犯妖異を陰ながら討ち取り、”ヒーロー”登場以前の街の治安を守った。
立身出世は望まない。
陰ながらの活動のみに留め、誰かを巻き込まぬよう、目立たぬように、一人戦っている。
『ダンジョンシーカーズ』のプレイヤーとなり、空閑の庇護下に入ったため、”赤穂の妖異殺し”とやらに絡まれることはなくなったが、それでも、同時多発的な襲撃がDS上位プレイヤーにあった際は、赤穂の者たちと交戦した。
DSの正式リリース以降。”ヒーロー”という侵犯妖異を専門的に相手取り、街を守るものたちが現れてからは、より一層、己の存在を隠蔽しながら、戦いを続けている。
『ダンジョンシーカーズ』リリース時点の、上位プレイヤー八名を集めた昼食会。それに出席した彼は、他の参加者たちとつるむ気がない。妖異殺しの家の者ともなれば、いくら他家の者とはいえ、なおさらだった。
ましてや、中にはガキが混じっている。一目見ただけで猛者だと分かるし、かなり苦労をしてきたのだろうということは察せたが、それでも彼は、苛立ちを隠すことができなかった。
一人縁側に立ち、柵にもたれ掛かりながら、桜吹雪を眺め煙草を吸っている。
桜鳥と桜の錦鯉を眺めながら黄昏れ、風情を感じていた。
「あ、こんにちはですの。五番目の城戸さんですわね。改めましてわたくし、柏木澄子と申しますの。ヤニ休憩、御供させてもらっても?」
彼は無視して、煙草に口をつける。
それを何故か同意したと受け取った澄子が、ヤニ補給を開始した。
「…………ふーっ。はぁああああああああああああっ。いやぁああああこの令和の時代、喫煙者には肩身が狭いですの。人を八人集めて二人しかいないんですから、もうマイノリティですわよねぇわたくしたち。え、てか城戸さん。ニコチンとタールえげつないやつ吸ってますわね。わたくしにも、そういう時代がありましたわ……」
「…………」
「どうやらそこまで積極的に交流するつもりがない様ですが、わたくしたち、ダンジョンヤニカスズの仲ですわ。いつでもご連絡を」
では、と別れ言葉を残した澄子が、円を作っている参加者たちの元まで行く。
そうして、一人になってからしばらく。ずっと外を眺め続けていると、宴もたけなわということで、一部参加者が帰宅し始めた。
人も減り、ちらほらと片付けの準備も始まったところで、眼鏡を掛けた男が、彼に話しかける。
「ハハハ。城戸さん。調子はどうでしょうか。やはり、私の眼は間違っていなかった。ここに来れるほどの人材となってくれたのですから」
「…………」
「しかし、赤穂家の件ですが……しつこいですねえ。重家探題や他の重家に術式の流出がバレれば、妖異殺しとして誹りを免れない、強烈な罰則をつけられかねないですから。彼らも本当に必死ですよ」
「…………だから、仕方ないとでも言えと?」
「いえ、そういうわけではないですよ。城戸さん。貴方の能力……それを考えると、貴方はこの中でTOP3に入る実力の持ち主です。にもかかわらずこのような状況に陥っているのは、貴方が舐められているからですよ? 組織の強さを手に入れれば、決してあのような悲劇は起きません」
「……」
胡乱げな視線で、彼は空閑の方を見た。
「と、いうことで。どうでしょうか。私たちダンジョンシーカーズ運営に、参加するというの」
「断る」
「早いですねえ。泣いちゃいますよ。私」
苛立ちを覚えながらも、掴み切れない横の男のことを、彼はじっと見ている。
「勝手に泣いていろ」
「ま、しかし、貴方がデバイスランナーとして活動してくれているということ自体が、私の得ですから。よしとしましょう」
鋭い目つきを一瞬だけ見せた空閑が、城戸に微笑みかけながら、今後ともご贔屓に、と言い残して場を去った。
……これが、彼の物語。同僚を失うという悲劇に遭うだけでなく、両親と祖父母の来歴から更に苦しめられ、以前の生き方をすることが許されなくなった。
行先は見えず、自らの願いの残滓を抱きながら、生きている。
夏風を浴びる歩道。彼は滔々と、ガードレールの狭間に足を置いて、しゃがみ込むように座る彼女に語り終えた。
目を瞑りながら、じっと考え込んでいる思春期の少女は、等身大の感性とともに、その身の丈に合わない、割り切った妖異殺しとしての判断を持つことができる。
「…………私たち妖異殺しは、妖異殺しの術を、表側に流しちゃいけない。何故なら妖異殺しの術は、人を狂わせるから」
俯きがちの少女は、城戸という男に、彼女が守らなければならないはずの表側の民に、同情している。
「決して、あの戦国のような地獄を招いてはいけないって、爺様が言ってたんです。”いくさびと”が蔓延ったあの時代は、人が人であることが許されなかったって。爺様は何人もの”いくさびと”と戦ったことがあるそうですけど、その全員が狂気に満ちていて、時代を動かす力を持っていたんだってさ。そしてそんな人たちが出てきちゃったのは、妖異殺しの術が、この島の隅々までに行き渡ってしまったから」
「でも……妖異殺しの術を持ってしまった人と、持っていた人。どっちが狂ってるのか、もうわからないや」
儚い笑みを浮かべて、彼女は城戸を見上げる。
確かに、妖異殺しは嫌いだ。
でも彼は決して、無垢な少女を追い詰めて、罪悪感を覚えさせその正義に浸りたいわけではない。彼は彼で、割り切ることができる。
煙草を吸う代わりに。
噛み締めるように、彼は歯を食いしばっていた。
「……こんな話を聞かせて、ごめんね」
「ううん。いいの。でもなんか城戸さんが、私たちのところに来れないっていう理由、分かった気がする。城戸さんはきっと……怖いんだね」
「…………だから、情けないんだよ」
それを彼女は決して、バカにしない。
澄み切った夏空を見上げて、雲間には何があるんだろうって、眺めてみる。
「……きっと、時間が解決してくれるんじゃないかな。私も、色々妖異殺しって何だろうって……悩んだことあるんだ。これ、秘密にしてほしいけど。でも時間が経って、私の中に変化があって……そうやって私たちは、答えを出して進んでいく」
瞳を閉じて、思い返すように。
「城戸さん。私、城戸さんは頑張ったと思うんだ。だって、精一杯精一杯今まで、ずっとずっと誰かを助けようとしてきたんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、初維ちゃんはもういいと思う」
ガードレールから彼女は跳び上がって、歩道に着地した。満面の笑みを見せながら、彼女は城戸に言う。
「だって、城戸さんは表側の人だから。妖異を狩り、表側の安寧を保つのは、私たち妖異殺しの役目。私たち妖異殺しの誇り。だから……私が守るよ。全部」
「ぁ━━━━」
「じゃ、わたし、行くね」
初維が、あ、と呟いて、伝え忘れていたことがあったのを思い出す。
「城戸さん。あの、緑色のしゅわしゅわした……メロンフロート。初めてああいうの食べれて、すっごく美味しかったし楽しかった。あ、もちろん、あのブラウニーってのもね。表側には、色んな楽しい、私が知らないことが沢山あるや」
「だから、私たちが守らないと」
彼女は手を振って、駆けだした。
「ありがとうっ!!」
満足げな笑みを浮かべて、彼女は決意を新たに走り去る。
小さくなっていくその後ろ姿と、揺れるポニーテール。
城戸は無意識の内に、空を掴むように手を伸ばして、彼女を止めようとした。
ああ。彼女の根本の、決定的な部分が間違っている。
俺は決して、彼女にそんなことを考えてほしくて、あんな場を設けたわけじゃない。
甘くて優しいんだ。無償の好意は。愛情は。人の善性は。
世界を憎む己にはそれが、涙が出てしまうほどに嬉しくて、甘えたくなってしまう。
自身にとって、ただただ都合の良い存在。
けれどそれだけは、絶対に許してはならない。
燻り続けていた火種が、再び燃え上がるための風を欲している。
そこは、摩訶不思議な空間だった。
そこにある物品の全てが、この世界のものとは思えない、人の価値観を以てすれば、不条理なもので満たされている。唯一、壁面に取り付けられているモニター群のみが、理解することのできる物となっていた。
その中央。もたれ掛かることのできるオフィスチェアに座る、眼鏡を掛けた男を中心に、ライトグリーンの輝きが、ぼんやりと天井を照らしている。
輝きのそれぞれは、見たこともない文様をしていて。
縦書きに流れていくそれは、まるで。
何かの言語のようだった。
……”プログラムコードの魔力”を展開する空閑肇が、ピクリと、視界の隅に展開される、コードの一部へ視線を送った。
彼はその全てが意味するところを、理解することができる。
「……とうとう、来るか」
右拳で左の手のひらを叩いて、ここからが本番だ、と彼は独り言つ。これは第一フェーズ。彼の真の目的の達成のためには、ありとあらゆる条件を満たさねばならない。
それは千切れてしまいそうな細糸を、手繰り寄せていくような繊細な作業だ。
そしてそれは力の限り目いっぱいに、重い鋼鉄の扉を押し開けようとするような、大胆な作業でもある。
そしてそれを彼は一人で、やり遂げなければいけない。
「なあ、俺はやるよ。俺は絶対に、俺たちの夢を叶えてみせる。君と俺の願いのために、俺はこの決戦術式を作り上げた」
彼の夢を邪魔する存在が、海の向こう側にいる。
しかし今回は、世界の向こう側にいる奴らが相手だ。
彼はポケットから、スマートフォンを取り出す。そして彼はどこかへ、電話をかけ始めた。
「もしもし……」
その時。部屋の扉が、無造作に開け放たれる。そこにいたのは、魚のマークがついたキャップを被る、長髪で長身の女性の姿だった。
「もしもーし。今目の前にいるよ。空閑さん」
「…………あぁ。楠さん。始まります。今すぐ、戦闘の準備をしてください」
「あら。やっと来るのね。餌やりの手間が省けるわ」
「……舐めないでください。”魔海の捕食者”の開放を許可します。今までとは全く違いますよ」
既に装備変更を終え、武装を取り付けたウェットスーツ姿になった楠が、腕を伸ばす。
「滾るわぁ~!! いくさ、いくさよ! 倉瀬くん、残念ねぇ~!!」
日本国。重家の峰々の活躍により、未だ大きな被害を受けていない平和な国で。
東京。千葉。神奈川の湾岸部を中心とした、戦国時代以来、歴史上類を見ない規模での、裏世界による世界侵犯が始まる。






