第百十話 ASH
空を切り裂き、城戸は冬空の下に立った。あんなにたっぷり寝たというのに、体に残るのは、徹夜明けのような感覚だった。
おぼつかない足取りで、彼はただ家を目指す。
『重世界』という異空間から元の世界へ飛び出る、という経験は、既に感覚が麻痺した彼には驚くに値しない出来事となっていた。いきなり訪れた非日常の連続に、彼はただ日常を求め、渇望している。
地理情報を確認し、家を目指す。道中、スマホでここからどうすれば最短距離で家に帰れるかを調べようとしたが、ダウンロードされた『ダンジョンシーカーズ』の存在を思い出して、開くことが億劫になった。
職業柄、他人よりは道に詳しい。外に出かけることが嫌いな人間ではなかったので、どの電車を使えば家に辿り着けるかもわかる。
ここは東京都。
飛び出た場所から最寄り駅に彼は辿り着き、電車に揺られて、横浜を目指す。
一時間弱。うたた寝をしながら電車に乗って、彼はやっとの思いで家に着いた。賃貸アパートに一人暮らしをする彼が、自分の家のドアを前にして、非日常に気づく。
どうやら、鍵が開いている。几帳面な彼が鍵を閉め忘れることなんて、人生でただの一度もなかったというのに。
ゆっくりと扉を開け、視界に飛び込んできたのは、誰かに荒らしまわられたかのようになっている自分の部屋の姿だった。無趣味の身のため、何か特徴的な物品が家にあるわけではないが、棚は全て開けられ、ありとあらゆる収納の中身がぶちまけられたような状態になっている。
床に散らばる書類たちは全て確認されたかのように表側を見せていて、まるで家宅捜索にあった家のようだった。
玄関口で、唖然とした表情で突っ立っていたとき。
カツカツと、追いかけてくるような足音が、複数、外の渡り廊下から聞こえてきた。
命のやり取りを経験した身体が、警鐘を鳴らす。
己はもはや、いつも通りの日常には戻れぬということを━━━━
憎たらしい、あの眼鏡をかけた男の言葉を思い出す。
(『貴方に時間はありませんよ?』)
あの言葉はきっと、今の状況のことを指していたんだ。
だんだんと、両親が少しずつ語っていた、祖父母の物語を思い出す。
決して許されない駆け落ちに奔った二人はずっと追われ続けていて。やっと辿り着いた安寧の地で、子をもうけることができた。
苦難と苦悩の連続を、彼は追憶する。
足音は、どんどん近づいてきている。逃げるか、戦うか。何もしないという選択肢は、鼻から存在していない。
(複数人! それも足取りからして、確実に俺がいるということに気づいている!)
今の彼が使えるのは、戦闘用の妖異殺しの術式のみ。
相手は戦いのプロで、自分はまだ能力の使い方を知らない。
ならば、逃げるしかないだろう。しかしどうやって?
「チッ……クソ……」
スマートフォンを開き、ダンジョンシーカーズを開く。そこに表示されている、己だけが扱えるという術式の説明文を彼は速読した。余りにも自分らしすぎるその能力の概要を読んでみて、思わず苦笑する。
その存在にさえ気づいてしまえば、あとは簡単だ。
呼吸をすることと、何ら変わらない。
「設定━━━━”逃避行”!」
瞬間。本来の使い方ではない術式行使の代償として、心身に凄まじい負荷がかかる。吐き気を催して、胃から吐瀉物がせり上がってくるような感覚がした。喉を焼くような胃液が口元から漏れ出ていて、酷く気持ち悪い。
それでも、その能力によって、彼は逃げるための”物語”を見出した。
術式が、この状況を切り抜けるためにはどうすればよいか知らせてくる。
靴を履いたまま家に上がった彼は、鍵が開けっ放しの窓へ向かう。そこからベランダに出て、追跡されないだけの、最低限の紅迅の魔力を纏い、彼は駆け出した。
しかし、どこへ向かえばいい?
物語の先を、魂は教えない。舞台の結末を導くのは、彼の役目だ。
逃避行の物語に身を置いてから、既に五日が経っている。
服を購入し着替えて変装を試みたが、魔力とやらの質で追いかけられているようで、効果は見込めなかった。汗まみれの体はべたべたとしていて、水浴びをすることすら出来ていない。
妖異殺しというのは、どこまでもしつこい。何十人という人員と、重術という特殊な技術を用いて、あの手この手で彼を探してくる。
彼の携帯に来ていた通知の半数以上が、彼を心配するものではなく、その妖異殺しについてのものだったようだ。職場にも和装の集団が訪れたらしく、署員を恫喝、武力による脅迫を行ったようで、同僚から送られてきた文面を見たところ、その怒りの矛先が城戸に向いているような状態だった。
それに、この事件に直接関わる人間だけではない。どんなに情報を隠蔽しようとしても、綻びは生まれる。
(『消防隊員の隠蔽された変死。鍵を握るのは、唯一生き残った男?』)
(『死神消防士K』)
(『Kを探す謎の和装の男たち』)
小さな小さなゴシップ記事でさえ、当事者の疑心を煽るには、十分すぎた。
(『おい、城戸。何なんだあいつら。お前のことを探してるって言って……何かお前、危ないことでもしてたのか?』)
(『殉職した消防隊の奴ら……なんでニュースにもならないんだ? 緘口令が敷かれているようだし……城戸。お前何か知っているんだろう』)
(『お前、人殺しなのか?』)
「ハァハァハァ……!」
手持ちの資金も尽き欠けている。逃げ切ることは難しく、匿ってくれる人もいない。
信頼し合って、共に人を救おうと戦ってきたのに。
誰もが彼のことを、目の敵にしている。
携帯の通知は全て切った。しかしそれでも、ありとあらゆる連絡先から、何かが届いてきている。それは、彼の妄想を掻き立てるのには十分だった。
「ちくしょうちくしょうちくしょう……!」
これは、救えなかった命に対する、報いなのだろうか。
携帯を付け、ずっとずっと昔にダウンロードしてから、触りもしていないゲームアプリから通知が来ていることに気づく。
ああ。そういえば、こんなものをダウンロードしたのは、昔、中高時代の親友からやりたいと言われたからだったっけ。
『おい。ユーダイ。お前、なんかすごく大変なことになっているらしいじゃん。大丈夫か?』
『大丈夫』
『迎えに行くから、場所教えてくれ』
職務を忠実にこなすようになってから、友人というものに恵まれたことはない。しかし、同僚からの信頼は失った。
重世界や裏世界の話を聞かされ続け、信用できず、消防士になってからほぼ連絡の取っていない両親は、今どこに住んでいるかさえ知らない。どんな顔をして会えばよいのかわからない。
縋れるのは、旧縁しかなかった。
夢に全てを捧げる前の、彼との日々を思い出す。
車のキーチェーンをくるくると回しながら、深夜。街灯の光だけが降り注ぐそこで、彼らは数年ぶりに再会した。城戸の記憶にある木村は、もう少し細身の男だったが、長年のサラリーマン生活で食生活が変わったのか、中年太りするような恰好になっている。
加えてどうやら、煙草を吸い始めたようだ。胸ポケットにわざわざライターと一緒に突っ込んでいて、時の流れを感じてしまう。
「おいおいユーダイ。マジで臭いぞお前。本当に何してきたんだ」
「…………木村。本当に、ごめん」
「何言ってんだよ。気にすんな。向こうに止めてるから、行こう。話は車で聞かせてくれ」
ごくごく普通のコンパクトカーに乗り込んだ木村は、城戸を助手席に座らせる。余りにも親友が疲労困憊しているので、木村は思わず笑ってしまっていた。
「さあ、行くぞユーダイ。高速すっ飛ばして、とりあえず遠くまで行こうぜ」
「おい……木村。数年会ってないのに、お前、どうして」
信じられない、という声色と眼差しで、城戸は目の前の親友に問う。
「馬鹿野郎、親友ってのはな、数年会ってなくても昨日会ったみたいに会える奴のことを言うんだよ。地元でも色んな噂になってるし、お前のことを血眼になって探しているやつを何人も見たが、どいつもこいつもお前のことを分かってない。お前は、ただの助けたいバカだ。そんなお前が、んなことやらかすわけないだろタコ」
法定速度を超える速度で、彼は車を走らせていく。普段は絶対に言わないような照れくさいことを言ったからか、彼はわざわざ煙草を一本器用に胸ポケットから取り出し、口に咥えて、城戸に火を点けるようねだった。
「あぁ、ライターはまずいから、マッチにしてくれ。ほら、そん中あるから」
「……おう」
マッチに火を点けて、彼の煙草に火を点ける。
「ふー…………城戸、少し寝てろ。臭いも酷いが、顔がげっそりしてて隈も酷い。寝てないだろ。お前」
そういえば。
彼はいつもこうやって自分のことを小馬鹿にしながら、見守ってくれていたっけ。
「……わり、木村。寝る」
「おう」
彼は数日ぶりに、睡眠を取る。背もたれに体を預け、彼は深い深い、眠りの狭間に落ちていった。
瞼を開け、目を覚ます。どうやら安心して、随分と眠っていたようだ。
車は動いておらず、彼も休憩を取っているらしい。
「木村。すまん。今起き━━」
重い瞼を擦りながら、彼が見たのは。
撃ち抜かれた額から血を流し。
口を開けながら、目を虚ろにさせて、絶命している親友の姿だった。
糞尿を垂れ流していて、異臭が車内には漂っている。
ガキンと、自分の中の何かが切り替わるような音がする。
「目覚めたか。城戸雄大」
割れた車窓から吹き抜ける風が、現実であることを知らせてきた。
後部座席には和装の男が二人座っており、一人は指に赤色の魔力を。もう一人はナイフを自分の首に当てている。車窓からもまた、脳髄に刀の切っ先を向け構えている男がいて、フロントガラスの向こう側には、他の妖異殺しが控えていた。
「貴様には、我らが赤穂の固有術式を持っている疑いがある。貴様を本家まで連行する。神妙にお縄につけ」
「は……?」
言っていることの割には、既に手足は拘束されているようで、身動きが取れない。そもそも、怪しい動きをすれば、すぐに殺される。
「……あの売女が生きていて、子をこさえていたとは。許しがたき愚行であり、貴様の存在は高祖に対する侮辱である」
「然り」
「あ……ァ……あ……」
彼の瞳から、ぼたぼたと、涙が流れていく。
「……売女の孫とはいえ、仮にも赤穂の血を継ぐ者が涙を流すとは」
なくにきまってんだろ。こんなの。
ゆるせない。ゆるしちゃいけない。でもぼくは、たすけるためにいきていたのに。
つぶやくように、ちいさく口にした。
こんなストーリー、ゆるしちゃいけない。
「設定━━━━”復讐”」
怒りが紅迅の奔流となって、世界を満たす。
こんなつかいかたをすれば、もうもどってこれなかった。
ぼろぼろになった車を出て、一人、星空の下に佇んだ。
血の斑点が付いた煙草を手に取ってみて、彼のライターで火を点け、なんとなしに吸ってみる。
ゲホゲホとせき込んでみて、同じ煙でも、火災現場のものとは全く味が違うな、と感じた。
頭がクラクラして、指先が少し痺れる。
そういえば、煙草を試してみよう、なんて言って、学生時代、彼と一緒に吸ってみたことがあったのを思い出した。
携帯でダンジョンシーカーズを開きながら、空閑が用意したという資料に目を通す。どうやら彼のためだけに用意されたようなものなようで、彼の状況を推測し用意された対応策が、書き連ねられていた。
咳き込むことすらできずに、あっという間に吸い終わる。
墓標に供え物をするように、煙草の吸殻を、奴らの灰の山へ投げ捨てた。
ポケットから携帯を取り出し、あの男へ電話を掛ける。
『あら。こんな遅くに、お疲れ様です。城戸さん。生きていたんですね』
『……ああ。空閑さん。一つ、お願いがある』
『はい』
『ダンジョンシーカーズへの正式登録、並びに、保護を頼みたい。妖異殺しからの襲撃を受けて、今、田舎の高速道路で立ち往生している』
『了解しました。今すぐ運営から人員を派遣しましょう。ようこそ。ダンジョンシーカーズへ』
電話を切って、空を見上げた。彼の言う通りマッチを使って火を点けてみて、もう一本、吸ってみる。夜空に浮かび上がっていく紫煙は、新たな自分を示す、狼煙のようだった。
一人で、ずっと苦しんでいる。
誰かを助けたいという願いは死灰に塗れ、もう、かつての輝きを保てていない。
誰かと共に居たいとは、もう、思わない。
一人で怠惰に、全てとの別れを慰めてくれた、ニコチンの味だけが、俺を支えてくれているんだって、彼は気づいていた。
ダンジョンシーカーズ 1 本日発売です✒️
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活動報告からの再掲という形になりますが、書き下ろしSSがありますので、既存の読者様で気になるというものがあれば是非。
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また、三章もここからギア上がってきます。
よろしくお願いします!






