第百八話 FIREMAN(1)
彼が覚えている一番最初の記憶は、赤に染められた白の世界だった。
肌を突き刺す熱気に、己を死へと誘う、黒煙の香り。
熱に膨張する空気は光を乱反射させて、幻想的な光景すらも映し出している。
今ではもう大人の彼が、まだ小学生のころ。やんちゃな彼は、一人で訪れた古い地元のショッピングモールで、火事に遭った。どうやら、テナントとして入っている飲食店の厨房で、火災が発生したらしい。パニックに陥った従業員や客のせいで早期の対応が行えず、炎は二階まで延焼し、救急車や消防車が出動する事態となった。
「う、あ、あ……」
保護者がおらずどうすれば良いか分からないまま、避難ができずに、真っ赤な世界の中で泣きながら、一人取り残されている。
壁から炎が伝い、天井が燃え上がる。
バチバチと燃える音を聞きながら、遠のく意識を抱いていた。
涙で滲んだ視界の端。
何かを蹴破るような音ともに、誰かが駆け込んできた。
マスクを被り、黒と蛍光色の防火衣を身に纏う男が、彼を抱きかかえる。
その日、彼は。
命を救われたことをキッカケに。
彼のように人を救おうと思って、消防士を目指すこととした。
消防士を目指し、自分が助けられたように誰かを助けるため、一心不乱に努力を重ねる彼。
そんなある日、彼は父親から自身の祖父母の話を聞いた。
曰く、彼の祖父母は、魔術師と、妖異殺しと呼ばれるものであるという。
この世界は、三つの世界で構成されていて。
別の世界から、異なる生物が攻め込んでくるらしい。
陰謀論か何かに傾倒しているのかと、彼はそれを嫌悪した。
「雄大。この世界は、非常に不安定な均衡の上に立っているんだ」
「……なあ、やめろよ。親父。いきなり、わけわかんないことを言い出して……」
父親から自らの祖父母の話を聞いても彼は自分の夢を曲げなかったし、取り合わなかった。両親から懇願され、祖父が持っていたという魔術と、祖母が持っていたという術式を受け継ぐことは承諾したが、ただの与太話だと考えていて、使い捨ての魔道具を利用して”魂に刻んだ”と両親からは言われたが、何も信じていない。
彼はあの日見た、憧憬を追いかけ続けている。
大学を卒業し、彼は消防学校へ入校して、厳しい訓練を重ね技術を磨き、あの日助けてくれた彼と、同じ消防士となった。横浜の消防署に所属する、消防吏員として、彼は町の安寧を守る。
両親の話なんて忘れて、その業務に勤しんでいた頃。
彼が消防士として消防署に着任してから、数年の時が経った。
火の用心。空気が乾燥して、火災の多い真冬の頃。
三十路を迎える新年。消防士から二度昇進し、消防士長となった彼は、現場で頼りがいのある隊員の一人として、周りの仲間から認識されていた。
訓練は毎日欠かさず、若手の模範となるように行動する。
ベテランと若手の潤滑油となり、コミュニケーションを円滑にできるよう工夫する。
今日もまた、勤務交代後の朝の点検に入り、彼は所有する防火衣、ヘルメット、手袋などの装具を確認して、機械装備の点検に入った。その後、消防車へ乗り込んで、また、中の機材の点検もする。
「城戸先輩。お疲れ様です。今度、飲みに行きませんか?」
青にオレンジ色のラインが入った、活動服を着る彼の部下の一人が、城戸に声をかける。
「いいぞー。だが、酒はほどほどにな。お前弱いだろう」
「強くなりたいんですよ、先輩」
点検を終え消防車から降り、帽子を深く被り直した城戸が、笑みを浮かべた。
昼間。事務作業を行った後、訓練を行い、その後シャワーを浴びて、他の隊員が作った料理を喰らう。出動のない間は、訓練や点検整備、事務作業に時間を費やす。その日は、消防隊である彼らに日中の間の出動はなく、城戸と彼の隊の者たちは、交代での仮眠に入った。
街を守るための、浅い眠りに彼はつく。
微睡み始めてから、しばらく経ったときのことだった。
深夜。予告指令の音が鳴る。
布団を剥ぎ、すぐに飛び起きた彼は、出動準備に移った。先ほどまで仮眠を取っていたとは思えぬ速度で、ロッカーへ向かう。堅牢な、防火衣を着始めたところで、遅れて、若手の隊員が入ってきた。
「早くしろ! 出動だぞ!」
「すみません!」
防火衣を着終わった城戸は、印刷された指令書を見て、場所を確認する。
運転を行うベテランの機関員、隊の仲間を連れて、消防車に乗り込んだ彼らは、出動した。
「……住宅街か。延焼の恐れがある。急ぐぞ」
サイレンを鳴らし、消防車を走らせ、彼らは向かう。
オレンジ色の光が、空を照らしている。雲の輪郭が光彩に染め上げられて、はっきりと見えていた。
火災現場へ訪れて彼らが発見したのは、普段の現場とは似ても似つかぬ、変わった光景だった。
新築の二世帯住宅が燃えている。そこまでは良い。しかしながら、燃え盛る家の二階部分、玄関側の壁が、何かに突き破られたかのように崩れていた。
消防車にホースを接続し、消火用水の位置を確認して、消火活動の準備をする。
放水ホースを持ち運び、火の勢いが強い箇所へ、放水長がホースの先を向けた時。
足元に転がる、何かの存在に気づいた。
「あ……?」
真っ黒になり焼け焦げた、球体の輪郭を放水長は視認する。
それは、住人であろうか。
ミイラのようにやつれてしまって、顔を歪ませた、人間の生首であると彼は気づいた。
「わぁああ!?」
「ど、どうした!?」
「ひ、人の頭が落ちている! た、ただの火災現場じゃないぞここは! すぐに本部へ連絡を━━」
無線を用い、すぐに本部への連絡を取る彼。後着の隊へ情報の共有を行うようだ。即応できたのは彼の隊だけだったようだが、すぐに他の署からも消防隊がやってくる。
その報告を聞いて、現場の指揮権を持つ隊長が、指示を出した。
「城戸。すぐに検索活動を行うぞ。通報では、この家には六人住んでいると聞くが━━━━」
声を掛けられ、隊長の方へ振り向いた城戸。
瞬間。彼は信じられぬものを見て、目を見開いた。
彼の尊敬する上司の背に、煌々と燃え盛る、炎そのものが乗り移っている。
それは白く輝く炎の目と口を持ち、創作物の中で出てくる、炎の精のようだった。
「は?」
ジジジ、と焼け焦げるような音に続いて、赤熱した光が、一線。隊長の首元に走る。
「き、ど?」
ボトリ、と地に堕ちる音だけを鳴らして、ホースから水を撒くように、血が吹き出ていた。黒塗りの防火衣に赤の斑点が付き、焼け焦げた匂いに紛れて、内臓の匂いがする。
刹那。彼の全身は炎に巻かれ、黒焦げになった。
火災現場で頼りになる防火衣が、肉体と混ざり合って、灰塵となっている。
「たい、ちょう?」
その存在を直視した放水長が、ホースを向け、異次元の存在へ向け咄嗟に水をかけようとする━━!
「うわぁああああああああああああああああああああ!!!!」
揺らめく炎の怪物は、その動きに目敏く気づき。
鞭のような炎を、幾条、彼に向けて振るう。
防火衣と体はバラバラになり、途中で真っ二つに切られた眼球はべちゃりと地に付いて。
また、彼の仲間の命が、一つ失われる。
「あ、あ……」
中高生のいつしか。両親に言われ、冗談だと撥ねのけた、彼らの言っていた存在と思わしき敵が、目の前にいる。
炎に巻かれる家の中。目を凝らして見てみれば、この炎の精が、他に何体もいた。
背筋を駆け抜けるようにして、闘争本能が、術式の存在を知らせてくる。
あの日魂に刻んだと言われた、ナニカの存在を知覚する。
仲間の死を目の当たりにする彼は、幼少期からの記憶を遡り、走馬灯のような状態に陥った。
蘇る、今は隠居した祖父母との記憶。目の前で、もう一人仲間が噛みつくようにした炎に食われた。
祖父母のここまでの苦労を知っていた、両親の言葉。立ち尽くす自分を助けようと、駆け寄ってきた可愛がる後輩が、苦悶の声を上げて焼死した。
「嘘、だ、こんな、こ、んなことがある、なんて」
仲間を虐殺した炎の精は、勝利の雄叫びを上げるようにしている。
更なる炎の精が、城戸を見つめるように、燃え盛る家から顔を出していた。
立ち竦むような戦慄。
殺される。殺されてしまう。自分は今から、同じように焼け焦げて、痛みに泣き叫びながら、死んでしまうなんて。
そんな、生物が本能的に感じる根源的な恐怖を置き去りにして。
彼はまず真っ先に。
これからこの化け物に襲われるかもしれない、市民のことを案じた━━━━
祖父から渡されたという技術は、余りにも複雑だ。両親から説明を受けたが、その詳細は覚えていない。
直感的に行使するのであれば、祖母から受け継いだ、”妖異殺し”と呼ばれるものたちの力を使うべきだろう。彼の心臓に眠る術式は確かに、奴らを相手にするならば私たちしかないと、その存在を強く主張していた。
思い出すようにしながら、その名を口にする。
「……赤穂、固有術式、”燎原”」
開けてはいけなかった扉が開く。
踏み入れてはいけなかった領域に、世界に、彼は足を踏み入れた。
消防士として訓練を続けた彼の精悍な肉体は、妖異殺しの術式の行使に耐える。
魔力を強制的に発露させ、鼓動を魔力の波に刻み、広がっていく彼だけの色を、彼は知覚した。
振るえ。その力を。
握り拳を作って。我武者羅に、不格好に、彼は妖異へ立ち向かう。
他の消防隊が、応援として到着したとき。
火災現場に訪れた彼らが見つけたのは、何故かバラバラになった消防吏員の死体と、あり得ない短さで倒壊した、建造物に。
煤に肌を汚し、一人気絶している男の姿だった。






