バスタブの人魚とならず者の俺
「あなたが助けてくださったのですか?」
彼女は部屋の中央に置かれたバスタブの中から俺にそう問いかけた。
整った顔立ちに腰まで届くセピア色の髪。真珠のように白い肌に身に着けているものは何もなく、美しい肢体が無造作にさらされている。
これだけだとただの全裸の美女だが、彼女は普通の人間とは違って腰から下がイルカのような尾ビレになっている。
そう彼女は人魚なのだ。
「ああ、まあな」
俺はとりあえず話を合わせておいた。勘違いしていてくれるならそれでいい。その方が安全だし、逃げはしないだろうが暴れて怪我されると商品価値が下がる。
俺はこれから彼女を売る。
人魚の肉を食べると不老不死になるという。俺はそんな眉唾話は信じていないが、人より金を稼ぐのがうまい奴ほどこういう話に弱い。俺は知り合いの知り合いに人魚の肉を求めているという侯爵を知っていて、その人に伝書鳩を飛ばしたら、人魚を買うのに凄まじい金額のお金を出すといったのだ。侯爵はすぐに荷物をまとめて迎えに行くといっていたので数日中に俺の家に来るだろう。
「ありがとうございます。湖で泳いでいたらすごい爆発音が聞こえてきて、目が覚めたらここに……もしあなたが助けてくれなければ溺れ死んでいました。本当に感謝しています」
人魚は胸に手をあて首を垂れた。バカなやつめ。俺が違法な爆発物漁をしていたら網にかかっただけだというのに。しかもこれからまな板の上に乗せられる運命なのだ。バカは自分がバカだと気付かないまま死んでいく。殺した相手を憎むこともできないのだ。
「その、私の名前はメイルといいます。あなたの名前をうかがってもよろしいですか」
「ラルスだ」
俺はぶっきらぼうにそう答えた。別に名前を知られたところで問題はない。どうせこれから死ぬのだから。人魚は真剣な表情で俺の目を見た。
「ラルスさん。一つお願いがあります。あなたにお礼をさせてください。海のことならば私はなんでもわかります。いつ嵐が来るのか。どこに行けば大量の魚が来るのか。どの地域に船幽霊や共潜が現れるのか。それを利用すれば大金持ちになれますよ!」
人魚は目を輝かせてそう提案してきた。しかし俺はそんなものには興味がなかった。
情報を金に出来るのは資本家だけだ。海上保険の経営にも、漁船の運用と漁師を雇うことも、幽霊や妖怪の噂を役立たせるにも、それなりの信用と元手がいる。すっからかんの人間にはギャンブルはできない。そしてその元手を人魚を売って手に入れようとしているのだ。
それに俺が港町にいるのは漁に人手がいる時期だけで、普段は金持ちの便利屋として駆けずり回っていた。海の情報なんていらない。人魚が逃げさえしなければいいのである。
「別に礼なんていらないよ。君がここにいてくれたら」
そう答えると人魚は頬を赤らめてバスタブに沈んだ。
「そ、そうですか。わかりました。不束者ですがよろしくお願いします」
人魚は致命的な勘違いをしていたが、どうせすぐに死にゆく身なので放っておいた。
※※※※※
金持ちの侯爵の名前はマクリントック侯爵という。武器商人で戦争に多大な貢献をしたことで相当成り上がったらしいが、それは父親のことで、人魚を欲しがっているジュニアにはあまりいい噂は聞かない。しかしバカな金持ちほど良いカモはいない。人魚をどう運ぶか考える必要がなくなったおかげで、俺は有意義な時間を過ごせていた。
「おかえりなさい。あなた」
メイルがバスタブの中から出迎える。彼女のバスタブにキャスターをつけたため、家の中を自由に動き回るようになっていた。また服を買ってやったので白いブラウスを着ている。
別に働かなくていいと言っても彼女は何かしていないと気が済まない質らしく、いつも掃除をしたり洗濯をしたりとせわしなく働いている。俺が出かける日には必ずお守りと弁当を持たせ、帰ると温かいご飯が待っていた。また彼女のお守りを持って出かけると必ず大漁になり、漁船ではありがたがられた。
しかし、今まで何も持ってこなかった俺が急に弁当やお守りを持ってきだしたせいで、仲間内で俺に妻ができたと噂になった。そして俺が家を出るときにメイルの顔を見た漁師たちから、やれどこで出会っただの、お前にはもったいないだのやっかみを言われるようになった。俺は面倒だからあいまいに流していた。
ある日、俺は漁ではなく本職の仕事、つまり殺しをやって家に帰ると、出迎えるなりメイルが血相を変えて駆け寄ってきた。バスタブを倒してまで這いずってきたのである。そしてすぐに俺を風呂に入れて洗い清め、ひたすらに海の神だの、空の神だのに祈り始めた。俺は引き渡しの日が近かったので無視して眠りこんだ。
その翌日、メイルは海に行きたいと言い出した。逃げる気かもしれないと断る口実を考えていると、メイルの方から逃げる気はないと決心したような表情で言ってきた。俺は仕方なく、メイルを抱きかかえて海に向かった。
彼女はひとしきり泳いだ後、海の中から貝殻を持ってお守りだと言って渡してきた。そして、縋りつくように俺に抱き着いてきた。
「後生ですから昨日のようなことはやめてください」
彼女は涙声になっていた。流石の俺も罪悪感を揺さぶられたが、
「俺はこの仕事をして長いんだ。俺はならず者で地獄に行くのは変わらないだろうから、君が気にすることはない」
と答えた。すると、彼女は
「なら、次からは海に落としてください。私がやります」
と返してきた。俺は返す言葉が無く黙った。
俺は彼女を売る。今更契約を反故にすれば便利屋としての人生は終わりだ。それに人魚が生きているなら奴らはいつまでも追ってくる。
彼女が死ぬのは惜しいが人生はそうやって続いていくものなのだ。
俺は沈黙のまま彼女を抱きかかえて再び家に帰った。
次の日、例の侯爵が家に来た。
※※※※※
マクリントック侯爵ジュニアは顔は下ぶくれなら体は全ぶくれという出で立ちで、明らかに甘やかされたデブだった。護衛を大勢引き連れ、ろくに動いてもないのにかいた汗を高そうなハンカチで拭いていた。握手した時、俺は侯爵が見ていないところで手をズボンで拭った。
侯爵はメイルの下半身が異形のものだと確認すると後はどうでもいいとばかりに、部下にメイルのバスタブを運ばせた。メイルの乗る馬車には囚人のように鉄格子がついている。その上暴れないように睡眠薬まで与えられた。メイルはずっと、悟ったような表情でなにも言わずに指示に従った。
俺は侯爵に誘われ、侯爵と一緒の馬車に乗った。金持ちとバカは他人にくだらない長話をするのが好きなのだ。俺は金払いをよくするために諦めて聞くことにした。
デブは最新式の六連装回転式拳銃をクルクル回して俺に手渡した。デブが食っていた揚げ物のお菓子の油で濡れていて気持ち悪かった。
「これからの時代、こういったものの価値はなくなっていくよ」
デブは得意げに語りだした。俺は余計なことは言わずに聞いておいた。
「僕は人魚の肉を量産する。武器で人が死なない世の中になれば醜い争いは終わるはずさ」
「どうやって量産するのですか?」
「そりゃもちろんアレに子供を産ませるのさ。当然だろ。一匹残しときゃ後は食っても増やせる」
デブが鼻息を荒くする。俺は寒気がした。俺は会話を始めて二言目にはこいつが気色悪くて馬車を飛び降りたくなった。
「全く、僕の父さんはバカだよ。人殺しの武器なんて売りさばいてさ。世界のことを何もわかってない。頭が足りてないんだろうね。これからは君みたいな用心棒もいらなくなるだろう。
人を殴る価値が無くなるんだからね。これからは誰も死なない。誰も傷つかない。暴力は全くの意味をなくして戦争も無くなるんだ。
まあ、君は功労者だから僕のところで雇ってやってもいいよ。ああいや、みんなが不老不死になれば労働なんてものに意味がなくなるか。やっぱいらないや。これからは暴力なんてくだらないことはやめて芸術を学んだ方がいいよ。人生がいつまでも続くんだからね。そうだ、その拳銃はあげるよ。もう役立たずだし」
デブは悦に浸るように語り続けた。俺は撃鉄を起こした。
「そうですか、なら役に立つうちに使わないとですね」
引き金を引いた。
※※※※※
頭から垂れる血を拭う。べたつく血は不快だが、気分は爽快だった。
俺は左手で煙草に火をつけようとした。馬車を運転している上に、手が血で濡れているのでなかなか火がつけられない。
「うう……ここは?」
メイルがバスタブの中で目を覚ました。動物の檻のような馬車の屋根は吹き飛び、運転席から彼女の顔が見える。
「海に向かう道だよ」
「………………どうして?」
「言っただろ? 俺はならず者だって」
俺はようやく点いた煙草を吸い、煙を吐いた。
「ならず者は契約相手を騙して金だけ奪うことくらい平気でするのさ」
メイルの入っているバスタブには大量の札束が入っていた。