”おえええっ”
・夏のホラー2020企画投稿作品。
【注意書き】
・食事中の方、これから食事をしようという方は絶対に読まないでください。保障いたしかねます。
「あーあ……、まーたかよ、ハハ……、……ちくしょうが!」
俺は怒りに任せるまま、地下通路トンネルの壁を蹴りつけた。頑丈なコンクリの壁は、運動部経験のない俺の蹴りではビクともしない。例え俺の不満が、とうに限界に達していても、だ。漫画とは違う。現実は、怒りで身体能力が向上する訳がない。
私鉄の某駅――上り線と下り線を行き来するための、地下通路の陰気なトンネル。
そこは、俺の職場だった。
駅の清掃員としてパートで働く俺は、終電のあと、ひとりで構内の掃除を始める。駅舎、ホーム、そしてこのトンネル――とにかく全てだ。
仕事内容自体は不満ではなかった。人と関わることが苦手な俺は、清掃や工場が性に合っている。深夜から明け方までの勤務で、35%の深夜割増手当がつくのもありがたかった。
だが――最近になって、呑気なことも言えなくなった。
皆さんご存知のとおりのこのご時世だ。
盤石と思われた鉄道業界、航空業界でさえ大赤字の状態で、社員の首すら危ぶまれているという。そんな状況で、駅構内の清掃なんて、本当は誰がやってもいい、わざわざパートを雇わなくても、駅員がやればいいのではないか――仮に上層部がそう判断を下せば、俺は来月にもクビにされてしまうだろう。
俺に出来ることと行ったら、必死に仕事をすることだけだった。そうすることでしか、自分がいかにこの駅に、会社にとって必要であるかアピールできないから。――しかし。
俺は目の前の惨状に、口を覆った。
口元のマスクをしっかりとかけ直し、特に鼻回りを隙間なく覆い隠す。
だが、その匂いは薄っぺらいマスクを貫通し、俺の鼻の奥まで届いていた。
下り線ホームから階段を降りてすぐ、最初のコーナーに、吐瀉物が掃き散らかされていたのだ。
“それ”は、金曜日に多かった。終電間際になったサラリーマン様の、ありがたい置き土産という訳か。花の金曜日、週末で明日も明後日も休み、仲間たちとバカ騒ぎして終電まで楽しく飲んだのだろう。吐くまで。――そう!
「――吐くまでな! ちくしょう! バカ野郎が!」
俺は最大限の侮蔑を込めて、吐瀉物に叫び、あたり散らす。真夜中のトンネル内に、俺の声がカラオケボックスより良く反響したが、俺の苛立ちがそれだけでは収まるはずもなかった。
嘔吐なんて最低の行為だ。小学生のとき、遠足のバスで吐いたときのことを、俺は思い出していた。
胸の上のあたりが少しずつ浮き上がってくるような感触。胃の中で裏拍子を取るような一定の嫌なリズム。そのうち視界がくらみ、口の中に苦いものが染みるように広がってくる。吐く、と思った次の瞬間には、トイレの便器と向かい合わなくてはいけない。何故なら、その時点でもう間に合う確率は低いから。
間に合わなかったらどうなる? ――コンプライアンス違反の私刑、つまり、美意識の高い日本人から、嫌悪され陰口を叩かれ、袋叩きが確定する。
しかし、運が悪いことに――俺がそのとき居たのは、遠足のバスの車内だった。律儀にクラスごとにバスが列を為し、高速道路を呑気に走っている真っ最中。目的地も休憩所も、まだまだ遠い。
吐き気をこらえる俺にとって、のんびりとしたバスガイドの喋り方も、同級生たちの談笑も、焦りと吐き気を誘発する材料だった。さらに隣の奴がリュックからお菓子を取り出したとき――俺は戦慄し、自分のこの後の運命を悟った。
この匂い――梅干しだ! 梅干しのグミだ! よりによってこんなときに、胃にくる酸っぱい匂いを――!
思った瞬間、俺は口を手で抑えた。迫ってくる。“それ”はもう、逆流している。胃、食道、喉、口、そして、
懸命に抑えようとしたが、無駄だった。
ぶおえっ、と子供らしからぬしゃがれた自分の声が、いまも耳に残っている。口を抑えても、濁流のようにこみあげる吐瀉物を抑えるすべはなく、口から溢れ、ついでに鼻からもゲロをこぼした。
あの、ツンとくるとんでもない嫌な臭い――胃液の臭いが、嗅覚器官である鼻を支配したのである。地獄だったが、惨劇はそれから始まった。
隣のグミ野郎が俺に気づき、悲鳴をあげて逃げだした。
「うわあああ! せんせーこいつ吐いてる!」
俺は、「お前のせいだ!」と言いたかったが、口を開いた瞬間、バスの通路にゲロを盛大にまき散らした。それはそれは広い範囲に――まるでホースに親指をかけて水を散らしたみたいに。
女子は泣き、慌てふためいた先生は「どうしようどうしよう」と言っているうちに吐いた。阿鼻叫喚のゲロのデュエットだ。
ガイドさんがマイクで「窓開けて!」と指示し、クラスメイトたちが一斉に窓を開けた。誰かが叫んだ、「ともちゃんのスカートについてるよぉ!」「うそぉやだとってよー!」「むりむり! こっち来ないで!」「うわっ、俺のリュックにもだ!」「うえええ、キモぉい!」
まるでパニック映画だった。ただし、子供たちに襲いかかっているのは、モンスターでもゾンビでもなく、俺と担任のゲロということだけで。
その後、俺は“ゲロ野郎”“歩くラクーンシティ”とあだ名をつけられ、友達を失くし、高校にも進学しなかった。
俺はその事件によって、嘔吐というのは社会的信用を失う行為だということを痛切に学び、また軽率に嘔吐する奴を激しく嫌悪するようになった。
嘔吐――不快にして最低最悪、軽蔑に値する行為だ。
人から出る音とは思えない、カエルのような異音を喉から鳴らし、食ったモンを未消化のまま口から戻す。周囲をさんざんに汚し、悪臭や菌までまき散らす。
体調不良ならまだ許せる。
だが、この日本社会の企業戦士であるサラリーマンたちが、だらしなく道路や公共の場に吐瀉物を吐き散らすことが、俺にとって何より我慢できないことだった。
しかも吐いた奴らは、悪びれなく吐瀉物を残していく。片づけられたことなんて一度もない。
連中は、自分が掃いたゲロを誰が片づけるかなんて考えたことがないのだろう。そう、たとえ年収がお前たちの三分の一もない、底辺の時給非正規、つまり俺だとしても。
こんなのを片付ける仕事、誰だってやりたくないに決まっている。だから、駅員はゲロの掃除を俺に命じる。パートで、立場の弱い俺が。
「あぁ――臭い、汚ぇ! 汚ぇ! 吐くまで呑むんじゃねぇよ! クソっ! 汚ねェなぁ! ちくしょう!」
俺はぶつぶつ言いながら、それでも社会人として立派に掃除をはじめた。
ドロドロの吐瀉物をモップで拭き取り――おえっ――ゴミがまとわりついたところで一度バケツにぶちこむ。水でモップの汚れを落とそうにも、浮き上がってくる吐瀉物はしつこくまとわりつく。何度も何度もモップを洗っては水を替えた。ホースを使って一気に排水溝に流したいところだが、地下トンネルの排水溝は苔むし、雑草が生えていて、ゴミを流すには向いていない。雑に掃除をしようモンなら、ネズミやゴキブリを寄せつけてしまうだろう。俺の清掃員のプライドが、それを許さなかった。
汚れたバケツの水をトイレに流し、水を汲み、まだ地下トンネルに戻る。モップで吐瀉物を拭き取り、バケツで洗って、まだトイレに流す。その工程を四回ほど繰り返した。
「ああ……くせぇ! ちくしょう。くせえよ! くせぇんだよ!」
ぶつくさ文句を言いながらも片づけ終わって、俺はホームのベンチに腰を下ろした。汗と匂いがこびりついたマスクをゴミ箱に捨てる。一枚70円、やっとの思いで買ったマスクを、俺は一度で捨てることになった。自分で買ったマスクを。並んでまで買ったマスクを。
――俺は、顔を上げた。
墨をこぼしたような闇に、夜はとっぷりと浸かっている。時計を見ると、まだ深夜二時。仕事も労働時間も、まだまだ残っている。
誰もいないホームで、ぐったりと文句を言う俺は、社会にとってどんな存在なのだろう。
「……なにやってんだ、俺……」
モップの柄に額をつけて、俺は呻いた。
吐瀉物の掃除しかしてないのに、心も身体もクタクタだった。
次の金曜日。
それを見た瞬間、俺の手元から、箒がパタリと落ちた。
また、ゲロだ。
しかも、先週と同じ場所に。また、あの角、下り線ホームの角に吐かれていた。
――なんだ? 連中には「もよおしたらここで掃け」というルールでもあるのか? それとも、ここは吐きたいサラリーマンにとって聖地なのか?
俺はせいいっぱいユーモアを考えて頭を切り替えようと思ったが、いくら明るいことを考えても、目の前の光景を見た途端に現実に引き戻された。
吐瀉物は、明らかに前回より多くなっていた。先週はコーナーと壁の一部を汚しているだけだったが、今回はもっとひどい。
吐瀉物は地下通路の半分ほどにまで侵食し、階段の下まで流れ広がっている。排水溝の下まで落ちているのもあった。「靴底を汚さずに上り線までたどりつけ」なんてミッションが仮にあったとして、俺はつま先立ちでも向こう側に渡れないだろう。
「ひでぇ……どうしたらこんなふうになるんだよ……」
俺はモップを持って、立ち尽くした。悪臭で視界がクラクラする。
先週でもうギリギリだったのに、今日も――しかも前よりひどく? なんの冗談だよ、おい。
テキパキ片づけようなんて気力は微塵も湧いてこない。このまま朝までここにいて、出勤した駅員に見せたい気分だった。それとも、今すぐスマホを取ってきて、インスタにあげてやろうか。ゲロ日記。案外バズるかもな。BANされるな。
「ハハ……」
もはや笑えてきた。
しかし、俺には掃除するしか選択肢はない。俺は取り憑かれたように背を丸めて、モップを使って片づけにかかった。まずは階段下、それから通路。排水溝は最後だ。
「は―――……、……は―――ぁ」
モップを動かしながら、俺は何度目かわからないため息をついていた。
なんで俺はこんなことをしているんだろう。
いじめか? 嫌がらせ? 何もこんな駅で吐かなくてもいいだろう。毎週毎週。よりによってこの惨めな俺が働くこのチンケな駅で。
通路を掃除して、モップを洗う。汚れたバケツを持って通路とトイレとを往復し、水を替える。五体無事に掃除し終えることなんて到底不可能で、気づかないうちに俺の手袋にまで未消化の食べ物がへばりついた。なんだこれ、ローストビーフか? はは、いいもん食ってやるじゃねぇか。そのクセ吐いてんの。
「ハハ……ハハハ……」
また笑えてきた。俺は壊れたようにひとりで笑いながら掃除を続けた。
排水溝の中まで雑巾で綺麗に掃除し終えたとき、勤務時間の半分以上が経過していた。いつもは長く感じるのに、今日はずいぶんあっという間に終わった気がした。
俺は酷使しすぎた膝やふくらはぎをトントン叩きながら、トンネルを見下ろした。俺の努力の甲斐あって、吐瀉物は影も匂いも残っていない。
来週、ゲロがなかったらラッキーだ。もしそうだったら、俺は気晴らしに宝くじを買おうと思った。ちなみに一度も当たったことはない。
次の週。
「ハハハ……ハハハ……」
俺はあまりの非現実的な光景に、まず、笑った。発狂するときは、人間笑ってしまうのだろうと、俺は他人事のように思った。
嫌な予感はしていた。
まず、地下通路の入り口に近づいたときから、すえた悪臭がしていた。そして、ぴちゃ、ぴちゃ、と滴る音が、たえずトンネルで反響している。
マスクでしっかり鼻先をガードして、覚悟を持ってトンネルに近づいた俺は――真面目にそこへ向かったことをすぐさま後悔した。
毎週金曜日恒例、当駅名物の吐瀉物だ。もう、それについては今さら驚かない。
だが、今日に関しては量が問題だった。
――いったい、何人吐いたらこんな量になるんだ。
先々週、先週とトンネルの角に広がっていたそれは、今日は明らかに一人分ではなくなっていた。複数――もはやゲロ慣れした俺が計測するに、五人分以上はある。
吐瀉物には、様々な色が混ざっていた。トンコツスープみたいな色や、担々スープみたいな色。なかには、血らしきものが混ざっていた。
しかも、コーナーや通路だけではなく、今日は階段にまで吐瀉物があった。踊り場の数段下から、吐瀉物が流れ落ちるように広がっている。
――いや、冷静に考えれば、それはおかしい。重力の法則を考えたら、階段で吐いて、そこから角に滴り落ちて、通路まで広がっているのが正解なのだろう。だが、広がり方の量を見るに、それはコーナーで吐かれ、そこから階段のステップに上がったように見えた。――そんなことがあり得るのか? それとも、正解を求めるのがおかしいのか? この異常な光景のなかで?
なにより――俺はマスクごと鼻先を手で覆ったが、無駄だった。消化しきれなかった食い物、飲み物、胃液が混じった吐瀉物の凄まじい匂いが、地下トンネルに充満していた。地下トンネルは換気が出来ない。地獄だ。
でも、俺は掃除するしかない。ここからトンズラして職を失くすか、それとも黙って掃除するか選べと言われたら、俺は否応なしに掃除をするしかないのだ。わかりきったことだった。
「ちくしょう、なんでこんな……」
俺はべそをかいていた。仕事だとしても、非正規だとしても。誰とも知らないヤツのゲロを毎週毎週掃除しなくてはならないみじめな自分が、たまらなく悔しかった。
「ちくしょう、ちくしょう……」
まごついて泣いているうちに、俺は胃が突き上げるような感覚に見舞われた。
遠足。梅干しのグミ、阿鼻叫喚のバス――俺は瞬時に理解した。
ついにもらったのだ。
俺はモップを置いて、その場にうずくまった。走ってトイレにいけば間に合う、そんな楽観視は全く出来なかった。
もう遅い――俺は脂汗を垂らし、なんとかマスクを外した。それが、俺がこのわずかな時間の間に出来る、唯一の抵抗だった。
「おえええええっ! ぉえ、ぶええええええ」
びしゃびしゃびしゃびしゃ。激しい雨粒が叩き付けるような音がトンネルに響く。
夜、出勤前に食ったインスタントラーメンが、見事に床にまき散っていった。奮発して買った200円の袋麺が、まさか胃袋で消化することなく吐き出されて終わるとは、食事中には夢にも思わなかった。
口だけでは吐き足らず、鼻からも吐いた。とんでもない悪臭がまた吐き気を呼ぶ。地獄の連鎖だった。
「……ひぃ、ひ……」
喘鳴しながらようやく吐き収めたとき、俺はやっと“呼吸すること”を思いだした。
口の中が猛烈に酸っぱい。喉の奥が張り付くような感触がして、息を吸うたびに激辛の酸辣湯麺を突っ込んでいるような感触がする。ねばっこい欠片が喉に残っている。
「うっ……うう……ううー……う……」
胃の中を空っぽにした俺は、泣いた。ばあちゃんが死んだとき以来の、嗚咽をあげて泣いた。
鼻水を垂らしたら、鼻水に混じってインスタント麺が出てきた。鼻ゲロに混じっていたのだ。汚い。惨めで、情けない。
「っざけんなよ……なんで、なんで俺がこんな目に合わなきゃならないんだよぉ……。吐くんじゃねぇよ……。吐いたら片づけろよぉ……」
俺はしゃくりあげて泣いていた。もはや仕事どころではなかった。モップも、バケツも、全て階段の踊り場に放り投げた。給与も、職も、どうでもよくなっていた。
三週連続のゲロ掃除に、俺はぽっきり心が折れていた。泣いて、鼻をすすると、またあの酸っぱい匂いがやってくる。まだ吐いた。もう胃液しか残っていなかった。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……」
やり場のない怒りを、俺はひたすら、コンクリートに呟く。
そのときだった。
ごぼっ、と音がした。
俺は、ゲロまみれの顔をゆっくりと上げる。
ごぼ、ごぼ、ごぼごぼ、
吐瀉物が、マンホールから逆流するかのように、コーナーで波打っていた。
奔放に無残に広がるだけのゲロの波の中心部が、そこから泉が湧くみたいに山状に盛り上がって、広がっていく。
――は? と俺は声を上げた。意味がわからなかった。
――増えてる?
俺はたくさんの疑問符を頭に浮かべながら、その光景から目を離せずにいた、そのとき。
ごぼおっ、とひときわ大きな音がして、沸き立つ中心部から、黒い髪の毛が出てきた。
はじめは、一本、二本。
吐瀉物まみれのつんつんの太い髪の毛が、どんどん床から浮き上がってくる。
次第に、一本、二本だった髪の毛が、どんどん増えていき――やがて、人間の頭部が現れた。
俺は、言葉もなく、呆然とその光景を眺めていた。
黒い髪の毛――それは思いのほか短い――が現れ、黄土色の頭から下、額が、ゆっくりと突き出してきた。律儀に“順番”を守るみたいに。
額、太い眉、そして二つの目玉までが現れたとき、俺は察した。
それは、顔だった。
嘔吐物から、男の顔が出現していた。
それは鼻先まで現れたとき、黄ばんだ目が、ぎょろぎょろと虚空を動き、俺を捉えた。
目が、合う。
“それ”の目は、ぱち、ぱちと瞬きをした。
そして挨拶でもするように、そいつの口ががば、っと開かれると、
―――おえええええええええ。
叫びとも拒絶ともつかない声が、トンネル中に響き渡った。
そいつが大きく開けた口のなかに周囲の吐瀉物が流れ込む。ごぼごぼごぼごぼ。
人が、男が、ゲロのなかで溺れている。
男は―――。
俺は、そいつに、見覚えがあった。
だって、そいつは、その顔は。
「うわああああああああああああああああ」
俺は悲鳴をあげた。
足をバタバタと動かし、なんとか立ち上がると、手すりに掴まって階段を上へと逃げた。声にならない叫びを上げながら、俺はへっぴり腰のまま、ロープをたどって山の斜面を登るように階段をあがっていく。
階段を上がりきり、ホームを抜ける。俺は仕事着のまま駅を飛び出して走った。
うっとうしい作業帽をぶん投げて、懸命に走った。
走って、走って、走りまくった。
後ろから、おえええ、おえええ、とあの異音が絶えずついてくる気がした。
汗を切らしながらひたすら走ったとき、俺は「ああっ」と声を上げてつんのめり、転んだ。俺は派手にスッ転び倒れた。
「いてぇ、いてぇ」
俺は足首を抱えて悶絶した。
「ひぃ、ひぃ……」
俺は這う這うの体でなんとか立ちあがり、腕で顔の汗を拭いながら、空を見上げた。
いつの間にか、空が白んでいる。夜が明けようとしていた。どうやら俺は走り続けている間に、隣駅の商店街まで来てしまったらしい。
汗を拭った手を見る。顔や額が、すっかり吐瀉物で汚れているのがわかった。俺は嫌悪で顔をしかめる、と同時に、急に冷静になっていった。
万が一人とすれ違ったら、俺は侮蔑の目で見られるに違いない。それは非常にマズい。遠足の教訓を生かさなくてはいけない。
俺は急いでセルフレジがあるコンビニに入っていった。店員に見つからないように、セルフレジでこっそりミネラルウォーターを買って、顔と服を洗わなければ。
「いらっしゃいませえ」
店内に入ると、レジの前で、若い女の店員が甲高い声を上げた。
明け方のコンビニには、店員の他には誰もいなかった。俺はこそこそと雑誌コーナーを沿うように歩いて、二リットルのミネラルウォーターを手に取り、セルフレジへ向かった。
ふいに、びちゃびちゃ、という音が聞こえ、俺は何気なく音の方向へ目を向けた。
「いらっしゃいませぇええぉえええええ」
レジに立つバイトのお姉ちゃんが、俺に笑顔を向けながら嘔吐していた。
俺は、財布を落とした。
お姉ちゃんから目を離さないまま、ぶるぶる震える手で、なんとか財布を回収する。財布を作業着の後ろポケットに突っ込んで、ミネラルウォーターを持たないままコンビニをゆっくり飛び出した。
自動ドアをくぐると、入退店を示す軽快なメロディが鳴る。その几帳面な音が、俺が現実にいることを証明している。きっと、たぶん――。
震えながら、俺はコンビニから一歩、踏み出した。
ぴしゃん、と、靴が水に着地する音を立てた。俺の靴底から酸っぱい匂いがした。すっかりお馴染みになった匂いだった。
俺は何気なく、下を見る。
道一面に、水が広がっていた。
いや、それは水じゃない。ところどころに混じる肉の破片、米粒、砕かれた麺の残骸。
道に広がっているのは、透明なゲロだった。
まるで、町が浸水したかのように、町が吐瀉物に溢れていた。
――ぉええええ。
――おえええええ。
固まる俺の前を、人が通り過ぎる。俺は身を震わせながら、すがるような気持ちで彼らを見上げた。
通勤途中と思われるサラリーマンがいた。嘔吐し、スーツを汚しながら歩いていた。
女子高生がいた。手櫛で茶髪を整えながら、口から吐いていた。
ママチャリに乗った主婦と幼稚園児、パチンコ屋に並ぶ年寄り、みんな虚ろな目をして、吐いていた。
俺と行き交う通行人みんなが、吐きながら歩いていた。
俺はぶるぶると震えながら、自分の顔に触れた。
どろり、と頬を流れた。
俺は指先を見る。
俺の顔には黄色い――吐瀉物が、こびりついていた。
自分が吐いたものだ。俺はそう自分に言い聞かせる。さっき、駅で吐いたもの。そうだろう? そうだよな?
「俺は、俺は、俺は、」
朝の光が差す。泊まっていた車のミラーに俺の顔が映る。
俺は全身、頭からつま足まで、吐瀉物に染まっていた。
鏡の向こうで、真っ白な目玉が、ぎょろぎょろと俺を見つめ返した。
俺は叫んだ。鏡の向こうの男も、俺の真似をするように、口を縦に大きく開いて叫んだ。
あああああああああああああ。
―――おえええええええええ。
どことも知れない駅前で、それは咆哮した。