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叙述トリ憑ク  作者: 御法 度
1/4

鬼 ――キ――

本作はホラーです。しかし、ある特定のジャンルを好まれる方なら、タイトルを見た瞬間に、思わず口元が緩むのではないでしょうか。そして、その時に「もしかして」と思われた方には、こう申し上げましょう。「その通りです」と。

あなたは本作に仕掛けられた罠を、見破ることができますか?

――作者より


 

 1 もりのおに


 昔々、ある雨の夜のこと。一人の娘が森を彷徨っていました。鬼が出る、と噂される森です。

 雨粒で着物を濡らしながら、不安な心地で暗闇の中を進んでいると、不意に懐かしい香りが漂っていました。開けたその空間には、人家があったのです。

 娘は呼び鈴を探り当てると、縋るような気持ちで鳴らしました。もし誰も出て来なかったらどうしよう。さっきの香りが、怯えた心が醸し出した幻だったとしたら。そんなのは嫌。どうか、この恐ろしい場所から私を救い出してください。

 祈りは通じました。扉は開き、低い声が娘を出迎えたのです。

 そのしゃがれ声は、美しさとはかけ離れた、恐ろしいとさえ言える響きの声でしたが、不思議と娘の心を落ち着かせました。どこか懐かしい気持ちを抱きながら、娘は事情を説明しました。それを聞いた家の主は、快く娘を泊めてくれることになりました。娘はほっと、胸を撫で下ろしたのでした。




 2 洋館


 その夜も私はお気に入りの椅子に身を委ね、原稿用紙にふでを走らせていた。ひさしを叩く雨の音色は、どんな名演奏にも劣らない調べを奏で、私の仕事をはかどらせた。

 年に何度も全国へ実地調査に出かける生活の中で、人里離れたこの森での日々こそが、心の依りどころだった。両親が遺した莫大な財でもって、山奥の村のそのまた外れ、人が寄りつかない森の洋館へ居を構えたのは、もう十年以上も前のこと。研究の過程で蒐集した品々に囲まれながら、長旅の疲れを癒す数ヶ月間の、なんと心安らいだことか。

 麓の村との煩わしい交流といったものは存在しなかった。初めは物珍しい人間に対する好奇の目が遠慮なく向けられた。が、彼らの干渉を断つのに必要な金銭など、微々たるものだった。毎日の生活の品は、懇意にしている業者から届けられた。こちらは少々値が張るが、使い切れないほどの遺産のおかげで、問題なく暮らしていけると思われた。便利な世の中になったものだ。業者は、私みたいな道楽者を主な顧客としており、私が洋館を空ける間の管理なども請け負ってくれた。

 昼に降り始めた雨は、止むことなく森を潤し続けていた。ここの周りでも、あちこちで水の流れが生まれ、離合集散を繰り返していた。その無作為な線の集合体は世にも幻想的な光景だった。木綿の生地をすり抜けて肌を撫でる空気は、微かな湿りを含みながらも、纏わり付くような不快さはなかった。窓ガラスを柔らかく打つ雨音は、私の耳朶を心地よくまさぐり、鼻腔びくうをくすぐる独特の匂いが、静謐な夜を演出していた。

 玄関チャイムが鳴った。

 出し抜けの合図によって、私は現実世界へと帰還し、湿った匂いをより強く自覚した。気付かぬうちに、雨の勢いは増していたらしかった。

 注文していた書籍が届いたのかと、最初は思った。スカーフを手に取り、首にふわりと巻きつけた。思いのほか凝り固まっていた肩や首をほぐした。過酷な使役に不満を唱える身体をなだめ、すかしながら、私は玄関へ向かった。もちろん判子も忘れずに。

 しかし、途中で異変に気が付いた。窓の外はすでに真っ暗だった。そこで始めて柱時計を確認すると、居眠りを咎められた学生のように、慌てて1時の鐘を鳴らし始めた。

 こんな時間に、配達などあるはずがなかった。ましてやいつもの業者なら、こんな無礼は働かない。だとしたら、客人が尋ねてきたというのか。深夜、雨の中を? それとも――。私は腹の底で警戒心を固め、玄関扉と相対した。この向こう側で呼び鈴を鳴らした人間は、いや、()()は、果たして。私は重い取っ手を引いた。

 若い娘がたたずんでいた。落ち着いた藍色の着物はしっとりと濡れていた。白い帯の前で組み合わせた手に傘の類いはなかった。雨に打たれながら、ここまで歩いてきたらしい彼女は、小さな肩を縮こめ、俯いていた。

 しかし私が目を奪われたのは、濡れた着物でも綺麗な指でもなかった。

 黒髪。

 長い、みどりの黒髪。頭の上で纏められてはいない。重力に逆らわず、綺麗に下へ流れている。それはまるで清流のようで。私は息をするのも忘れ、まるで一つの生き物の如き精彩を放つ髪に、心を奪われた。濡れたことでいっそう艶やかな芳香を発しているようであり、私を捉えて放さなかった。


「おやおや、珍しい」


 なんとか、動揺を悟られぬように喉を振動させた。髪ばかりに注意が逸れてしまったが、その間から覗く容貌も、はっとするほど整っていた。俯きがちであっても、気品ある睫や鼻は、娘の出自の良さを証明していた。少なくとも村の女などではなかった。


「夜更けにお客人、それも若いお嬢さんと来ている」


 すると小さくした肩が、いっそう縮こまってしまったように見えた。醜い、ひび割れた声は、幼さの残る娘には、恐怖以外の何物でもなかったかもしれない。私は短慮を悔いた。同時に、そんな風に分析できるくらいには、理性が保たれていたことに、私は安堵した。

 やがて娘はゆっくりと顔を上げた。初めて真正面から認めた、その幼い顔立ちは、少女と言っても通用するほどだった。もうであった。黒目の中心部が白く濁っていた。その瞳はなにも反射してはいなかった。娘はこの年にして、世界に光を剥奪されていたのだった。

 しかし、その白濁した瞳は、彼女の美しさを微塵も損なってはいなかった。むしろ侵しがたい神聖ささえ、身に纏わせているかのように感じられた。


「じっと見つめられると、お恥ずかしいわ」


 沈黙から察したのか、娘がそんな言葉を発した。控えめな外見に似合わぬ、堂々とした口調であった。すると途端に、先ほどまでは怯えているようにも見えた幼い体躯が、数多の経験を重ねた妙齢の女性のようにも思えてきて、不思議だった。


「瞳が――失礼。やはり、視線は感じますか」

「はい。ですが慣れております。

 生まれつき、白底翳しろそこひなんです。私がまだお腹にいた頃、母が流行り病にかかりまして」


 私は、近頃も風疹の流行があったのを思い出し、同時に、目の前の少女に出自の話をさせてしまったことを恥じた。


「すみません。しかし、本当にどうなさったのですか?」


 目が見えないのなら、なおさら。どうして一人で夜の森にいるのだろう。娘は恐縮するように、拳にわずかな力を込めた。


「何年か振りに故郷に帰る途中なのです。この山も迷ったことなどないのですが……雨を侮ってしまったようです。道を失ってしまいました」

「なるほど、それは大変でした。

 もしかするとそれは、貴女にとって幸運だったかもしれませんが、ね」

「え?」


 後半の囁きも盲の彼女には聞き取れていたらしい。その話は後のお楽しみにとっておくことに決め、私は声の調子を変えた。


「兎にも角にも、よくぞここまでたどり着きました。さぞやお疲れのことでしょう。さあさ、入っていらっしゃい。私の家でよければ一晩お貸ししましょう」


 彼女はほっとしたように頬を緩め、頭を下げた。


「では、お世話になります。フデと申します」


 私は娘を迎え入れた。胸の内では、激しい鼓動が心の発揚を主張していた。この鼓動までもが、耳の鋭い盲の彼女に聞き取られやしまいかと、気が気ではなかった。しかし今夜、また一つ念願が叶うかもしれないと、否が応でも期待は高まるのだった。

 居間まで案内した時、彼女はぽつりと呟いた。


「墨のいい匂い――」

「ほう、分かりますか」


 古来より人は感覚の一部を奪われると、他の感覚が鋭くなると言うが、本当らしい。彼女の優れた嗅覚は、私が書き物をしていたことを敏く感じ取ったようだった。


「研究内容をまとめていたんです」

「お邪魔してしまいましたか」

「いえ、とんでもない。筆先の調子が悪いのか、いまいち気分が乗りませんでしたから。貴女のような方がいらっしゃってくれて、嬉しいんです」


 私は娘の手を取り、先ほどまで自分が座っていた椅子へと、優しく導いた。その頬は微かに赤らんでいるようだった。


「熱いコーヒーをお淹れしましょう。の用意もあります」

「すみません、なにからなにまで」


 私は茶菓子を出した後、近辺に伝わる噂話を持ち出した。


「貴女は、運が良かったかもしれません。この辺りにはね、鬼が出るんですよ」

「鬼……耳にしたことがあります」

「そうですか」

「ですが、詳しくは知らないのです」

「それはそれは。恐ろしい話ですよ。夜な夜なうら若き乙女の生き血を求め、殺戮を繰り返す吸血鬼――ふふ、驚かしてしまいましたかね。心配ですか?」


 娘が表情を曇らせたのを見て、私は優しく微笑みかけた。表情は伝わらずとも、それは声に現れると思ったからだ。実際、彼女も微笑み返してくれた。


「そのような森にお一人で、恐ろしくはないのですか」

「なに、慣れてしまえばいい所ですよ。それに、奴ばらがこの屋敷に無理矢理入ることはできませんから。吸血鬼の習性でね。主の許可がないと家には立ち入れないのです」

「なるほど」

「加えて、流水を嫌うという性質も、貴女にとっては幸いしたかもしれませんね。こんな雨の日には、この辺りは鬼にとって苦痛でしかありません。大小の水の流れが生じるようになっているのです」


 娘が私の軽口を、好意的な様子で聞いてくれるのが嬉しかった。


「あなたは学者様なのですか?」

「そんなたいそうなものでもありませんがね。民俗学者の真似事のようなことをしています。行く先々で人に話を聞くのが癖になってしまったせいか、口数が多くなってしまっていけません。お嫌ではありませんか?」

「いえ。楽しくて、ずっと聞いていられそう」


 私はすっかり気分が良くなって、つい口数を多くしてしまった。






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