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人だ。隙間なんて無いんじゃないだろうかというほどの人、人、人。3日前も多いと思っていたが、それを軽く凌ぐ人の数。子供の姿でいる私の目線では人の波がもはや壁にしか見えないし、舞い降る花弁も上乗せされて余計に視界が悪い。出店の数も増え、賑わいも倍増。流れる音楽を聞いている余裕なんてどう足掻いても持てそうにない。城の敷地から城下の区画に入った瞬間に、こうも環境が激変するとは。
「…いや、これは無理だろ」
動くのもそうだし、渡されたお金を落としたり無くしたりしないというのも難しい気がする。もういっそ革袋に魔法をかけて、宙に浮かせておこうか。…そんなことしたらまた妙に目立つな。
これは気を引き締めないと、と革袋を握る手に力を込める。意を決して、人波に乗ろうと一歩踏み出すけれど。
「ぅ、わ…っ」
それこそ波に溺れるように、いっぱいいっぱいで進行方向を確認することもままならない。この状況に慣れているのであろう城下の子供達がするすると人波をくぐっていくのが時折見えるけれど、自分にそんな真似ができるとは思えない。というか、もしこの人混みで意図せず人間に怪我でもさせたら…。
「やっぱり無理…っ」
押し流されるようにして横道に逸れ、早々にメインストリートから離脱する。自分がちゃんと革袋を握っていることを確認してから、3日前と同じように路地裏へ向かい歩き始めた。さすがに今日は祭当日ということもあってか、頭上に洗濯物は干されていないし所々花提灯も飾ってある。そして私の他にも、出店で買った料理やお菓子をゆっくり食べている人や休憩している人もいた。…人間もあの人混みにずっといるのは疲れるのか。
「さて」
これからどうするか。実はまだ食べたことのない菓子や料理を見つけたら買おうと思っていたし、夜までいて初めての花火でも観てみようと思ってたんだが……すでに心折れたな。
とりあえず賑わいだけでも味わえばいいかと、音楽と雑踏を聞きながら路地裏の奥へ向かっていく。今日は視察しろと言われたわけでもないし、どこに行こうが私の自由だ。
歩きながら、北のヘルマン達とのやりとりを思い返す。私は『災厄の魔女』で、だからこそ私のもとで“試練”を受けた連中が大切だ。あの3人の…他の魔女や魔法使い達のためにも、私は早く腹を括らなければならない。人間の生活を知るための拠点をアゼリアから移す気は無いが、やはり慣れてきたら他国にも足を運ぶべきだろう。
まだ城下しか見たことはないが、大国というだけあってアゼリアはきっと治安がいい。だからここよりも、南の国のほうが…。
「魔女様!城下にいらしてたんですね!」
明るく声をかけられて、思考が唐突に現実へ焦点を当てる。視線を上げた先にいたのは、小麦色の髪を纏め花を飾り、満開の花のように笑う女性。彼女は確か…時計台の事故の時、私に旦那を助けてもらったと言っていたな。
「ああ、せっかくだからな。お前……あー、名前は、ええと…」
「エマと申します」
「エマはメインストリートには出ないのか?髪も綺麗に飾っているのに」
髪に飾った薄桃色の花に指先で触れ、彼女はふふっと愛らしく笑う。私より少し年上だと思うが、仕草といい表情といいなんとも可愛らしい人だ。
「実は2日前に妊娠してることが分かったんです。メインストリートは人が多すぎて転んでしまうと大変なので、ここで雰囲気だけ味わってます」
「確かにメインストリートは危険だな。私もそれで路地裏に入ってきたんだ。にしても、妊娠か…」
妊娠しているという、エマの腹部をじっと見る。けれど子供1人がその中にいるようにはとても見えない。すると私の視線に気付いたエマが、また小さく笑いながら愛しむようにお腹へ両手を添えた。
「まだ全然わからないでしょう?いま3ヶ月なので、産まれてくるのは秋になります。お腹が大きくなるのはこれからですね」
「なるほど。聞いてはいたが、やはり長い間お腹の中にいるんだな」
秋か。私が森に帰るのが先か、エマの子供が産まれてくるのが先か…。お産は命懸けとも聞いたが、魔法よりも不可思議なものだな。
「…触れてみますか?」
「ぅえっ!?」
「ふふっ、魔女様があまりに熱心に見つめていらっしゃるので。今はまだ動きを感じたりはできませんが、よかったら」
思えば、自分の意思で人間に触れるということはしたことがない。シリウス・レイノルズやフィズ・シャノン、飴がけの店主…状況は違えど勝手に触れられただけだ。初めて自ら触れるのが妊娠した女性のお腹だというのは、いっそ尊さまで感じる、けれど。
「…いや、やめておこう。その子には健やかに育ってほしいからな。魔女が触れて何かあっても困る」
ただの魔女ならいざ知らず、のちのち『災厄の魔女』に触れられたと万が一にでも知る時がきたら、エマも子供も気の毒だ。それに、触れても何も無いとは本当に言い切れないからな。
「無事に産まれてきたら、祝福だけさせてくれ」
「魔女様…」
気遣いかある種の哀憐か、エマはどこか寂しげに眉尻を下げる。きっと私の外見が子供だから、それが余計に彼女を“そう”させるんだろう。…つくづく計算された外見だ。
妊娠の話を聞いたせいか、なんとなく気が重くなる。現実逃避でもするみたいに視線を落とせば、1000ぺリン入りの布袋が真っ先に目に映った。
「そういえば、エマに聞きたいことがあるんだが」
パッと顔を上げて、話題変更も兼ね少し声音を高くする。そうすれば、再び顔に柔らかい笑みを載せたエマも「はい、なんでしょう」と空気を変えるように明るく頷いた。
「できるだけ正直に答えてくれ」
「はい」
「シリウス・レイノルズとは…、どういう男だ?」
「国王陛下、ですか…?」
予想外の質問だったのか、エマはぱちくりと目を見開く。そして言葉を呑み込むために数秒の間を開けたあと、困ったように笑ってみせた。
「私のような庶民が陛下について知るようなことは何も…。お城にお住まいの魔女様のほうがお詳しいはずです」
「確かに接点は多少あるが、私が知りたいのはこう、なんというか…」
別にシリウス・レイノルズの個人的なことが知りたいわけじゃない。むしろ興味が無い。私に迷惑をかけないのであれば、どう生きてどう死のうが一向に構わないが…。
「あれだ、国民の間ではどういう印象なんだ?アイツは『非道の王』と呼ばれてるだろう」
帰らずの森に住む私の耳にまで届く、なんとも不穏な噂の数々。所詮噂は噂といえど、仮にも自国の王が『非道』などと呼ばれてるのはどうなんだ。
「国民の間で、ですか…」
「ああ。安心しろ、もちろん聞いたことをシリウス・レイノルズに伝えたりしない。仮に知られたところで手出しもさせない。私はあの男が嫌いだからな」
「お嫌いなんですか?」
「ああ、嫌いだな!本人に直接伝えるくらいには嫌いだ!」
胸を張ってきっぱりと言い切れば、エマはくすくすと控えめに笑う。彼女は一度周囲を見回したあと、声を低くして「そうですね」と思案げに口を開いた。
「確かに陛下についてのお話はよく耳にします。先王陛下…、現陛下の兄王様を、現陛下が…というお話もどうやら事実のようです。現陛下が王位を継承されたとき、お城に仕えていた者がそう言っていたと」
兄王を殺し、その玉座を奪ったシリウス・レイノルズ。始まりから血に染まっている王位に、いったいどれだけの価値があるというのか。
「先王は悪いヤツだったのか?」
「いいえ、とてもお優しい方でした。城下へもよく視察に来られて、私達にも声をかけてくださるような…」
シリウス・レイノルズとは間逆だな…。アイツが優しく城下の人間に声をかける姿なんて、想像するのも難しい。
「それはさぞかし不満も多いだろう」
「………」
「…エマ?」
「…いえ、魔女様のお考えより、不満の声は少ないはずです」
路地裏に入り込んだ花弁が、隙間風に吹かれてくるくると石畳の上を踊る。ひどく不規則に、曖昧に。
「先王陛下は確かにお優しい方でしたが、それが近隣諸国を勢いづかせる要因でもありました。けれど現陛下が王位を継承されてからは治安も安定し、行商人の入国も増え経済的にも潤ってきたと」
「………」
「先王陛下を亡くし確かに国民は皆哀しみましたが、生活が楽になったのも事実です。 近隣諸国に攻め入られる恐怖も薄くなりました。それは現陛下が『非道の王』と呼ばれる方だからです」
優しい王と、非道の王。心情と生活の安定を秤にかけたとき、大衆心理が傾くのは…。
「先王陛下の頃から仕えていた臣下を容赦なく斬り捨てたり、アゼリアの北方にある小さな村を焼き落としたりと、現陛下が『非道』と呼ばれる所以は沢山あります。けれど城下に住んでいる民は、陛下に命を奪われたりしていません」
「………」
「先王陛下と現陛下が御二人で国を治めてくださっていたらという声は未だにありますが、現陛下の失脚を望む者は城下にはいないでしょう」
兄王を殺したのは事実で、それ以外にも臣下を斬り捨てたり自国の村を焼き落としたりもしている。でも城下にいる人間は傷付けない。城下だけは何か特別なのか?それとも…。
「あとは…そうですね、陛下の見目に執心している女性も多くいます」
「は…っ!?」
重くなりすぎた空気を崩すように、エマはわざと明るく告げる。見目、と言われ、反射的にシリウス・レイノルズの顔が脳裏に浮かんだ。浮かんだのが不敵に笑う姿だったこともあり、私はぐっと眉根を寄せる。
「……趣味が悪いな」
「ふふっ。魔女様はどうして、陛下のことを知りたいと?」
「あー…」
エマの質問に、半ば呻くような声を漏らし革袋を見る。私はシリウス・レイノルズが嫌いだ。傲慢で横柄でいけ好かない。個人的興味も無い。でも祭用にとお金を渡されて、『非道の王』がそんな気遣いのようなことするか?と疑問を持ったというか…。何を考えて動いてるんだ、となったわけだ。私達のことを知り、掌握するとまで言ったあの男。
「『非道』の割に弱いから、かな」
できるはずもないことを、あの男はできると確信しているような顔で語る。魔力を持たない人間の身で。その過ぎた望みを支えるだけの強い意思。シリウス・レイノルズがただの阿保でないのなら、魔女や魔法使いが関わる話である限り黙って見過ごすわけにもいかない。
「それは貴女様が魔女だからです。陛下は戦で前線に出られたこともありますが、恐ろしくお強いそうですよ。敵国の中には陛下を『軍神』と呼ぶ者もいたとか」
「『非道』の次は『軍神』か。大層な呼び名が張りぼてでないといいがな」
明け透けな私の言葉に、エマは何も言わず苦笑する。向かい合って話す私達の耳に、祭の喧騒は遠い。
「…話に付き合ってくれてありがとう、エマ。私はそろそろ行く」
「こちらこそありがとうございます。魔女様はまたメインストリートへ?」
「いや、もっとひと気の無い所へ行く予定だ。じゃあな」
「はい。よければまたお話させてください」
今度こそ屈託無く笑ったエマに、私も小さく笑みを返す。彼女と別れ路地裏のさらに奥へと向かう私のあとを、風に煽られた花弁がひらめきながら追ってくる。両手にしっかりと握った、1000ぺリン入りの布袋。ずっしりとした重みのあるそのお金を、私が使うことは無かった。