三話 契りの始まり
――人間さん、私と婚約して子供をつくって。
美しき妖精ニンフの少女エコナ。彼女はいきなり僕をさらっておいて、そう言ったのだ。
「っ……」
めちゃくちゃ直球で来たよこの妖精。いや、まあ僕がさらわれた理由は確かにそういうことなのだと、知予備知識で理解はできるけれども。何の迷いもなければオブラートの欠片もない。
いくら何でも身も蓋もなさ過ぎやしないか。僕にだって心の準備というものがあるんだ。いや、心の準備が出来ていたらどうとか言う話ではなく。
「人間さん?」
「……ちょっと待って」
僕はエコナのことを直視できず、顔を赤くしながら視線を逸らした。右手の平を前に出して「待て」とサインする。
「いきなり、そんなことを言われても……」
「あ、説明してなかった、よね?」
エコナは僕のリアクションから何を察したのか、両手を胸の前でポンと叩いて合点する。
「ここはエナにある『ダム湖遺跡』沿いにある森の中。……私が幻術と転送呪術を使って、あなたをここまで連れて来た」
僕の脳内で一瞬、「エコナ」と「エナ」がごっちゃになった。名前似ているなあ。
「エナ? どこだそれ……いや待って、確か路線図で見たような……」
そう、後者は地名だったはずだ。僕は記憶の糸をたどる。エナ、エナ、エナ……聞いたことがある。確か今日乗っていた電車がもっと内陸の方に行くと……、
「……あっ! 思い出した! 岐阜じゃないか! それも東の端っこ! 一体どんだけ走って来たんだ!」
岐阜(ギフ/Gifu)と言えば今や秘境も秘境。人類の文化圏のほとんどが精霊に浸食され、森と山と高地が面積の大部分を占める大自然。「探索者」が最も手を焼いている地域の一つだ。もちろん、僕が降り立った先のステーションキャンプとは徒歩じゃ効かないような距離がある。
「だから、私の呪術で……」
「あ……ああ、そっか」
驚愕して叫ぶ僕をエコナの冷静な一言が静めた。
ニンフは魔法の領域に片足突っ込んでいるような高度で豊富な呪術に加え、幻術が得意な妖精だ。そのニンフである彼女に化かされてさらわれたのだとしたら、先程までの奇妙な出来事にも一応の説明はつく。理屈は全く分からないが。
「ええと、それでね。私たちニンフは女しか生まれないの。そのくせ『肉の殻』を持っているから、番を作って生殖しないと種が途絶えてしまう。そのためには人間の男が持っている……遺伝子? 的なアレが必要なの。だから私たちは人間の男をさらう」
「……うん、知ってる」
遺伝子の下りで言葉を選んだことは褒めておこう。
「だから私と子供をつくって?」
前言撤回だ。
「待って! ホント、待って」
「うん」
「いきなりさらっておいて、そんなこと言われてもさあ、『はいそうですか』って納得すると思ってるの?」
「……ダメ?」
僕が叫ぶと、エコナは初めて目を伏せて、悲しそうにつぶやいた。かなりグッと来るが、ここは心を鬼にしつつ冷静に相手を説得させなければ。
「話が急過ぎるんだよ。さらってくるところまではまあ色々目を瞑るとしてだよ、見ず知らずの妖精からいきなり婚約とか子供とか言われても、困るよ」
「それは、そうかも知れないけれど……」
「あと僕のスマートフォンとか財布知らない? とにもかくにもいきなり失踪とか洒落にならないし、一旦帰らせてよ」
そう言うと、エコナは何やら気まずそうな表情で視線を泳がせた。……ちょっと待ってそれだけは勘弁して。え、嘘だよね?
「ごめんなさい。あなたを帰すことはできない。そういう決まりだから。……あなたの持ち物も、全部壊しちゃった」
「……は?」
エコナが横を指差す。僕は口元を引きつらせながらそっちを見遣る。そこには無惨に破壊された僕のスマートフォンと、今もプスプスと煙を上げて焼け焦げている合成革の財布が。
「あ……あ……」
言葉にならない叫びが喉の奥から絞り出される。口を開けすぎてあごが外れそうだった。このままだと僕は本当に失踪者扱いだ。
「一度さらった人間に仲間との連絡を取らせると、私たちの情報が割れて報復される恐れがある。だからこればかりは……申し訳ないのだけれど……」
「そんな……」
「どうしても帰りたいって言うならできなくもないけれど、その代わりにあなたの記憶は全て消さなきゃならない」
これは、詰んだ。
こういうことがあるのは知っていた。若い男が突如としてニンフにさらわれ、そのまま行方医不明になってしまう。例え帰って来たとしても記憶喪失になっている。まるでおとぎ話みたいだが、おとぎ話じゃ済まないこの世界ではそれが現実に起こるのだ。
ただ、まさか自分がそうなるだなんて。
「……ぷっ」
その時だった。僕は無意識に吹き出したのだ。
「……?」
気まずそうに目を伏せていたエコナが視線を上げる。
「ぷふっ、ふふ、フハハハハッ」
笑った。ひとしきり笑った。自分でもおかしい話だが、こみ上げる笑いを抑えられなかった。馬鹿馬鹿しくなって笑ったのではない。僕は愉快で仕方がなかったのだ。
「……どうしたの?」
「分かんないよ。ただおかしくって! 何かもう、吹っ切れたっていうか、どうでもよくなったていうか。……でも、そうだな。よりにもよって僕なんかをさらうなんて。きっと後悔するよ」
そう言いながら僕の笑い声は次第に苦笑いになり、やがてニヒルにため息を吐くのだった。何もかもが投げやりで、どこか清々しい気分だった。ああ、空気が美味しいなあ。
「誰でもよかった訳じゃない……」
エコナはまっすぐに僕の目を見てそう言った。その真剣な眼差しに思わずたじろぐ。
「私たちニンフは、人探しの呪術を使って自分が契りを交わすべき人間を選ぶの。……それこそ何年もかけて」
そう言ってエコナは手に持った杖で目の前の水鏡の縁をコンコンと叩いた。
「まず大前提として、さらったことで本人やその仲間からの報復に遭う危険性が低い者」
その条件は僕にも当てはまった。何か地位や肩書きのある人間でもないし、僕自身そんな攻撃的な人間じゃない。
「それから、若くて孤独で感受性豊かな青年であること」
感受性が豊かどうかは分からないが、確かに僕はお世辞にも人付き合いが広い訳でもないし、人望がある訳でもない。
「それでね、一番重要な条件。――それはニンフ自身が恋に落ちた相手であること」
「なっ……」
エコナは僅かに頬を染め、若草色の瞳を潤ませながらそう告げた。後頭部から思いっきり殴られたような衝撃が走った。
「いや、いやいやいや」
ふるふると小刻みに首を振る。
「だって僕はそんな出来た人間じゃないし、大した能力もない、顔だってなよなよしていて男らしくないし、赤目だし……」
そう言いながら自分の瞳を指差す。黒髪の中性的な僕の顔には、血のように紅い両目が付いていた。
「紅い目は、私たちニンフにとっては珍しくない……」
確かにエコナの若草色の髪や瞳といい、鮮やかな色彩の髪と瞳はニンフの大きな特徴だ。それを理解しながらも、僕は「でも……」と半歩退く。
だが次の瞬間、僕の動きは封じられる。
初めは何が起きたのか分からなかった。自分の背中に回された細い腕。頬をくすぐる乙女の翠髪。胸に押し当てられた、官能的に柔らかい二つの膨らみ。甘く締め付けるような抱擁と、そこから伝わる他者の温もり。
エコナが僕のことを抱きしめていた。
「えっ、ちょっと……」
抵抗しようとしても体が言うことを聞かなかった。
「……人間は打算とか理屈とかで人を好きになろうとする。詰まらない」
耳元でささやくエコナの口調は、言葉とは裏腹に悪戯な色を帯びていた。
「私はあなたを見ていた。あなたの心を見ていた。ガラスみたいに透き通って綺麗なのに、鋭くて脆くて、今にも壊れてしまいそう。そんなあなただから……さらいたくなったの」
「っ……!」
その言葉はまるで水飴のよう。静かで派手さもないのにトロトロと耳から流れ込んできて、甘く、拭い取ろうとしても指の隙間からどんどんと入ってくる。脳がとろけてしまいそうだ。さっきの幻術よりもよほど質が悪い。
「――それに……あなたも別に、どうしても帰りたい訳じゃないよね?」
「っ!」
僕の頭がさらに強く揺さぶられる。
何とか理性を総動員してエコナの肩を掴み、逃れるように引き剥した。その拍子に尻もちをついてしまった。
「やめてくれ……!」
僕は動揺で声を震わせながらエコナのことを見上げた。
拒絶された彼女はひどく寂しそうな顔をしていた。
「そんな風に……僕のことを見透かしたようなこと言うのは、やめてくれ。そうやって人の弱みに付け込むつもりなら、僕は……」
「ちがっ、その……ごめんなさい」
エコナもまた、その声を微かに震わせていた。
こうして見ると、彼女はちゃんと倫理的なことに考えが及んでいるようだった。初めの傍若無人な振る舞いは、ただ単に接し方が分からなかっただけなのかも知れない。だとしたら、それは僕も同じだ。
卑怯だ。そんなんじゃ感情に任せて突っぱねられなくなるじゃないか。
「……ああもう、そうだよ。僕はね、別にどうしても帰りたい訳じゃない」
吹っ切れたように吐き捨てながら立ち上がった。
「自分でも異常だって分かってる。でもあそこは、あの街は……何か気持ち悪いんだ。家族には恵まれているし、決して貧しくもない、これと言って嫌な目に遭っている訳でもない。でも、でも……いつも思っていた! どこか遠くに行ってしまいたいって。ここじゃないどこかにきっと自分の居場所があるはずだって。いっそ、自分が人間じゃなかったらって! ……だからこの状況に心からノーと言えない自分がいる。妖精である君との出会いに密かに心躍っている自分がいる!」
胸の内の全てをさらけ出した。話し出したら止まらなかった。
「答えてよ。僕は狂っているか……?」
痛みを堪えるような表情でエコナに問いかけた。
「私は……この世界が間違いだらけだから、正しすぎるあなたがそう感じてしまうのだと、思う」
その言葉はまっすぐに僕の心を打ったが、僕はまだ強がった。
「……またそうやって、僕のことを知ったような……」
そう言いかけて、僕は小さな自己矛盾に気付く。
「いいや、僕のことについて答えるように頼んだから、そんな文句を言う権利はないよね……」
僕は片手で顔を覆い隠しながら、大きく息を吐いた。
正直、心は迷っていた。
本当にこれまでの人生で積み上げてきたものを全て捨てて、ニンフであるエコナと共に暮らすのも悪くないとは思う。そのくらいには僕は人の世を悲観している。だがやはり元の暮らしに欠片も未練がない言えば嘘になる。おそらく家族とも、友人とも、今生の別れになるだろう。
そして僕がそれ以上に迷っているのは、この子と契りを交わし、そして子を授かるという話についてだ。相手は妖精だ。にわかには信用できない。当然だ。……それに、僕が誰かと結ばれて、その子供を持つだなんて、とても考えられなかったのだ。
でも正直、彼女に抵抗するだけの気力も残ってはいなかった。
そしてトドメとなったのは、さっきエコナに抱きしめられた時に感じたあの温もり、あの安らぎ、そしてあの言い知れぬ胸の高鳴り。僕に本当の居場所を与えてくれるのは彼女なのかも知れない、少しでもそう
思ってしまった時点で、それは宿命だった。
「……降参だ。いいよ。どのみち帰る術も、選択権も僕にはないんだ。人間の世界に帰ることは諦める」
「じゃあ……」
エコナが僅かに目を見開いて顔を上げる。
「だ・け・ど、婚約とか子供とか、そういう話はひとまず後にしてくれないかな? まずは教えて欲しいんだ、君自身のことを。そして僕はこれからどうなるのかを」
「うん」
エコナは素直に頷いてくれた。
「それと、まだ自己紹介をしていなかったよね。まあ改めて、って意味合いで聞いて欲しい」
僕は腹を括り、その手を彼女に差し出した。
「成木宗です。何と言うか、その、よろしく」
するとエコナは僕の手を取り、満面の笑みを浮かべた。
「エコナです。よろしく、ソウ」
……そんな顔で笑うんだ。
なかなかどうして掴み所のない子だと、僕は内心穏やかではいられなかった。
「じゃあ、行こっか」
エコナが手を引く。
「行くってどこへ?」
僕が尋ねると、エコナは小さく微笑んだ。
「もちろん、私たちの帰る場所だよ」
今回は少し長くなってしまいましたが、これで最初の導入は済みました。
エコナ(人名)とエナ(地名)の名前が似ていてソウ自身も困惑していましたが、こればかりは本当に偶然の一致で、それぞれの元ネタからネーミングをした結果紛らわしいことになってしまいました。
ただエナの方はそう何度も出てくる重要用語という訳でもないので、今回はエコナちゃんの名前だけでも覚えて帰ってください。




