一話 数奇な出会い
辺り一面は深い霧に包まれていた。
「……は? どこだ、ここ……?」
よく目を凝らすと、足元にはひび割れたアスファルトと、その隙間から延びる雑草。両脇には廃墟となった住宅が立ち並んでいた。それ以外には何も見えない。
霧は前後左右だけでなく、足元にも、頭上にも及んでいた。道の先は霞んでいてどこへ続いているのかも分からない。視界全体が薄暗かった。いまどこに太陽が浮かんでいるのか、見当もつかない。
「ここ、『廃墟遺跡』の中じゃないか! どうして、いつの間にこんな所に……」
僕はついさっきまで駅周辺の通りにいたはずだ。それがどうして、こんな立ち入り禁止区域まで迷い込んでしまったのだ?
スマートフォンを取り出してマップアプリから現在地を確認しようとした。だが、ない。スマートフォンがない。いつ落とした? ちょっと待て、財布もないじゃないか。
僕は、夢でも見ているのか?
「とにかく戻らないと」
深く息を吐いて動揺する心を静め、胸に手を当てながら、僕はあてもなく歩き出した。
だがどこまで歩いても景色は一向に変わらないし、どこかにたどり着く気配もない。嫌な汗が吹き出す。底知れぬ恐怖が襲った。
こんな廃墟遺跡のど真ん中に一人っきり。もしこの状況が現実ならば、いつ「精霊」や「機械兵器」が襲ってくるか分かったもんじゃない。
ゆっくりと歩き続けることに耐えられなくなり、恐れを紛らわすようにして走り出す。するとようやく変化が訪れた。
「標識だ。標識が立っている」
それは青地に白い矢印。一方通行の標識だった。それが向かって右を指している。
半ば思考停止状態に陥った僕は、それが市街地への道のりを示しているのだと根拠もなく信じ込み、次の曲がり角を標識の通り右へ進んだ。
しばらく走ると今度は左、次は直進、そのまた次は後方(後方?)と指示された。僕はそれに従って進んだ。だがその後方への一方通行標識に従って道を引き返したとき、ふと周囲の景色が変わっていることに気付いた。
「……?」
硬いアスファルトの道はいつの間にか柔らかい土の地面になっていて、両脇に立ち並んでいた廃墟の住宅は樹木に変わっていた。
やがて白波が引くように濃い霧が晴れていく。そして理解した。ここは森の中だ。
何なんだこれは……。どうすればいいんだ……?
僕の頭は真っ白になった。ただ呆けたように、己の身に起きた異様な現象を前に立ち尽くすしかなかった。
野鳥たちが美しい声音でさえずっている。それすら今の僕には皮肉に聞こえた。
「どうするよ、これ……」
頭を抱えながらしゃがみ込む。
「――人間さん、こんにちは」
そのとき、透き通った少女の声がした。
「え……?」
驚いて顔を上げると、さっきまで誰もいなかった目の前の空間に一人の女の子が立っていた。そしてじっと、僕のことを見つめていた。
まるで現実感がない。僕がその少女を見て最初に思ったことだ。
その若草のような色をした柔らかそうな髪や瞳も、麻特有のシワのが入った異国情緒あふれるロングチュニックも、ひざ下からのぞく白い足が何も履いておらず裸足であることも、その手に長い木の杖が握られていて、足元にある石の台座には大皿に水を張った水鏡やら六角柱の水晶やら束ねられた草花やらが置かれていて、あやしい呪術の儀式感が満載なことも……。
そして何より、少女が現実離れして美しいことも。
眠そうな顔をして、どこかあどけなささえ感じるのに、まとう雰囲気は凛としていて掴み所がない。少女と形容したが、もしかしたら十八歳の僕よりも年上かも知れない。
「誰?」
恐る恐る尋ねたが、僕の脳裏にはある予感がよぎっていた。この状況、少女の格好、その様子……彼女は人間ではないかも知れない。
「私、ニンフ」
少女は気の抜けた声でぽつりと言葉を発した。
「ニンフって、あの半妖の……!」
僕は息を飲んだ。やはり、彼女は人間ではないのだ。妖精だ。それも……、
「ハーフエルフって呼ばれ方、好きじゃない」
ニンフの少女は不機嫌そうに頬を膨らませた。でも感情の薄い口調は相変わらずだった。
「ご、ごめん」
つい反射的に謝る。
「ううん。誰しも先入観による妄執からは逃げられない……。それに聞きたくない本質を突かれることは無条件に拒絶を引き起こすもの……」
「……はい?」
何だか難しいことを言っている。この状況下では余計に頭がついて行かない。
「私のことはエコナって呼んで」
「はあ……」
エコナと名乗ったニンフの少女は僕のことなどお構いなしに喋る。何と言うか話が致命的にかみ合っていな気がする。
「ええと、エコナ、さん」
「エコナって呼んで」
そう言って小首を傾げる。その仕草はずるいと思う。
「これはどういう状況なの?」
するとエコナは眠そうな眼を微かに見開き、「ああまだ言っていなかったっけ?」とでも言いたげな顔をした。
「あなたをさらった」
そして「あなたの服も洗濯しておいたから」くらいの調子で言い放ったのだ。
「嘘でしょ……?」
「本当」
「さらわれた……? 僕が? 君に?」
「そう」
だからなぜそんなに平然としている。冗談じゃない、こっちは大混乱だ。
「ねえ」
僕を呼ぶ平坦で儚げな声に、不意に少し甘い響きが混ざる。僕は思わずどきりとした。
「は、はい」
「――人間さん、私と婚約して子供をつくって」
「……はい?」
一陣の風が吹いた。
森の木々を揺らして、彼女の髪を揺らして。
木漏れ日の差す昼間の森は割合スギの木が目立つが、風が吹くと広葉樹の新緑がさわさわと揺れた。
彼女の髪や瞳の色もそれと同じ鮮やかな黄緑色だ。そしてそれは僕ら人間の持つそれではない。木々の合間を抜ける風は、彼女の柔らかそうなショートヘアーをもふわりとたなびかせていった。
そのとき、ようやく僕は思い出した。
ニンフと呼ばれる種の妖精についてだ。彼女たちは妖精の中では最も人間に近く、森の中に集落を築いて生活している。多様な呪術に加え飛行や幻術を得意とし、人間にはない鮮やかな色彩の髪や瞳を持っているのが特徴だ。
逆にそれ以外には人間との外見的な相違は見当たらない。せいぜい服装が中世ヨーロッパの民族衣装を思わせる麻のチュニック(ワンピースのようなもの)であることくらいだ。
彼女もまた至って普通の……否、かなり容姿の整った美少女だった。そうそう、ニンフは皆例外なく美しい器量を備えているらしい。
だがここで重要なのはそこではない。
特筆すべき点は、ニンフは女性しか生まれないということ。そして生殖のために「人間の男をさらっていく」という生態があるということ。
つまりだ。彼女が言っている「あなたをさらった」というのは、そういうことだ。
どうやら僕は、非常に大変な事態に巻き込まれてしまったらしい。そしてその直感はある意味では正しく、またある意味ではそれ以上の数奇な運命を暗示していたのだった――。