雨の日
森の中だった。広葉樹が繁く緑の葉を広げ、木漏れ日と影のコントラストが幻めいて美しい。
一人の少年が、その木々の一つの根元に膝を抱えて座っており、目を閉じて、優しく頬を撫ぜるそよ風を感じていた。
静かに、穏やかに流れる時間、ふと木の枝の揺れる音が辺りに響いた。
少年はゆっくりと目を開けて、音のした方へ顔を上げる。見上げた先には、人がいた。
枝の上に両足を載せ、片手で幹に手を当てているその姿は、これまた少年だった。
「なぁ」
目が合った一瞬の沈黙ののち、木の上の少年が声を掛けてきた。森に溶け込んでしまいそうな緑の外套がパタパタと風にはためく。
「……何?」
木の下の少年は表面はぶっきらぼうに、しかし内心はおっかなびっくりしながら返事をした。
「一緒に遊ぼうぜ。そんなトコにいないでさ」
そう返すと、木の上の少年は枝を蹴って木から離れ、根元に座る少年の前にゴロゴロと転がって着地する。
勢いが収まると立ち上がり、ふぅと息を吐きながら服についた土埃を手で払い落とした。そして目の前まで歩み寄ると、汚れていない方の手を差し伸べた。
「俺、マットっていうんだ。よろしくな!」
有無を言わさぬ挨拶。馴れ馴れしいとも思った。けれど、その顔に浮かぶ人懐こい笑みは、それはそれは眩しく映ったのであった。
〇
北谷志賀は静かに目を覚ました。何か変な夢を見ていた気がするような。
志賀は目ヤニを擦り取りながら、布団から這い出てカーテンを開けた。窓から光が入り込んでくるが、空は暗い雲に覆われている。今日は雨が降るかもしれない。
遠く向こうに、見事な円錐状の山々が見えた。この現実とのわずかな境に、大きな大きな脅威が潜んでいるのだ。
しばらくぼんやり見つめていたかと思うと急に立ち上がって、台所に回り冷蔵庫にあった残り物で朝食を作った。
貧相な食事を食べ終えると、手ごろな洋服に着替える。
テーブルに置いていたスマートフォンを確認すると、メールが一通来ていた。功成からだ。
『用事ができたから、お前だけでおっちゃんに会ってくれ』
「あいつ、何かやってたっけ……?」
友人の用事が気になったが『了解』と返事を送り、単身約束の場所である公園に向かうことにした。
〇
閑散とした朝の公園。天気が悪いため道を行きかう人も殆どいない。吹く風は湿っており、空は変わらずどんよりとしてむしろ暗さを増したようにも思われる。
志賀が辺りを見回すと、探していた人物はすぐに見つかった。どうやら一足先にやって来ていたらしい。
警官特有の青い制服に身を包んだ中年男。
「よう」
男……六堂銀次も志賀の姿を認めて、軽く右手を挙げた。志賀も挨拶代わりに会釈を返す。
「ども」
お互いよく知らない者同士の気まずい空気がしばし流れたが、遂に銀次が沈黙を破った。
「……俺も、加わることにした。あのバケモノ討伐にな」
志賀は驚いて銀次の顔を見つめる。銀次はまっすぐ前を向いたまま、言葉を継いだ。
「あの気持ち悪りい世界も、<鉄の巨人>っつうバケモンも、顔を見せねぇ幽霊も、正直言って全部意味不明だ。お前だって、そうだろう?」
黙って頷いた。その通りだ、と。
「だがな……」
銀次は一旦切って、逡巡した様子で空を見上げたが、再び口を開く。
「こう言っちゃあなんだが……その、困っているように見えたんだ。あの幽霊の兄ちゃんがさ」
そう言って、銀次は照れくさそうに頭を掻いた。
「だから、手を貸すことにした。……お前さんは、どうして?」
「困っている……」
問われた志賀はさっきの言葉を反芻しながら、しばらく考えて答えた。
「……俺も、そうなんだと思う。幽霊は……あいつは、自分のことを隠している。隠しているけど、それは後ろめたいことではなくて……何か、とても悲しいことのような気がするんだ」
「それが放っておけない、か」
「あぁ」
「そうか……」
ポツリと雨粒が一滴、志賀の頬に跳ねた。
空を見上げたままの銀次が深い溜息を吐く。
「雨だ」
銀次は加齢による重い腰を上げ、伸びをした。そして、志賀に向き直って
「短い期間だとは思うが、よろしくな。……あー、名前」
「北谷志賀」
「ホクヤシガ……変な名前だな」
六堂銀次も十分特殊な名前だと思ったが、反論しても意味はないので黙っておいた。
「じゃあな、北谷。またバケツに呼ばれたら」
「分かった」
志賀は去っていく中年を見送って、自分も学校へ行くことにした。
入り口を抜けると本格的に雨が降り出したので、鞄から取り出した折り畳みの傘を差す。
同様に傘を差す、道行く人々の間を縫うように進んでいると、ふと視界の底で何か白い色が閃いた。
目で追うと、それはハンカチだった。
志賀は急いでそれを拾って、目前を歩く持ち主であろう人物に呼びかけた。橙色の傘に赤いランドセルがちらと見えた。
「おーい」
一瞬間があって、雨で掻き消されたかと思い、もう一度声を掛けようとしたところ、目前にいた人物が振り返った。
果たしてその人は女の子であった。
肩まで届く長い艶ある黒髪に、まだ幼さの残るが整った顔。
「何ですか」
訝しむように睨みを利かせて訊いてきたが、志賀が手に持っていたハンカチを差し出したことで彼の目的に気が付いた。
「これ……」
「君のだよな。はい」
女の子は両手で掴んでいた傘の柄から片手を離し、志賀からハンカチを受け取った。
「ありがとうございます」
地面に落ちて汚れた面を丸めて上衣のポケットにしまうと、きちんとお辞儀をした。
「どういたしまして」
志賀が手をひらひらと振っていると、直った女の子と目が合う。
途端、志賀は見た。その瞳の奥に灯った、ローソクのように小さな蒼い火を。
「!?」
志賀は思わず目を擦った。そんな彼の様子を女の子は不思議そうな顔で見る。
「あの、まだ何か?」
その一言で志賀は正気を取り戻して、慌てて否定する。
「あぁ、ごめん。なんでもない……じゃあ」
「は、はい。本当に、ありがとうございました」
志賀は女の子を追い越し、水たまりを踏むのも気にせず拭えぬ疑問を抱えて学校に向かった。
〇
「蒼い火、ねぇ」
昼過ぎ、大学構内の食堂。椅子に座った功成はコンビニで買ったサンドウィッチを咀嚼しながら呟いた。先ほど、志賀から話を聞いたのだ。
「もしかしたら、あれが”力”という奴なんだろうか。オッサンのときは気が付かなかったが」
志賀も同じくコンビニのおにぎりを胃に収めながらぼやく。
「それは、お前が持っている方の? それとも、その女の子の?」
「分らない……或いは、両方かもしれないな」
ふむ、と功成も軽い食事を終えて、締めくくった。
「まぁ、可能性があるならその女の子にも話すべきなんじゃね? 受け入れてくれるかどうかはともかく」
志賀は頷いたが、一つ言いにくそうに口を開いた。
「そうなんだが、問題が一つ……」
功成は疑問の表情を浮かべたが、すぐに納得した。
「俺たちは大学生で、相手は小学生の女の子……」
「自然な接触はほぼ不可能だ。よって話す機会は持てない」
志賀の諦めを流し半分で聞きつつ、功成はそれでもと解決の方法を探す。
紙パックのジュースが底を尽きたころ、彼の頭にある閃きが起こった。
「なぁ、その子の小学校ってウチの大学の近所かな」
志賀は呆れ気味に返す。
「知るか」
功成はなお聞かずに自分の言葉を続けた。
「あるかもしれねぇぞ、方法」
〇
授業を終えた後、彼らはいつもの公園のベンチで待機していた。時刻は三時をちょっと過ぎた頃。
平日故か、人はまばらにいるが子供は少ない。
入口には、明らかに異質な存在が突っ立っていた。どこかの学校のものであろうブレザーに、ブリキのバケツを被った例の幽霊だ。
「あれで見えるのかねぇ」
普通の人には見えない幽霊を、じっと眺めながら功成は今更そんな疑問を口にした。志賀が目を瞑ったまま返す。
「それこそ、魔法って奴でどうにかしてるんだろう」
功成の取った作戦。それは、幽霊を見張りに使うことだった。彼は普通の人間には見えないため、怪しまれる志賀たちに代わって”力”を持っているであろう少女を探せる、というわけだ。
長いような短いような時間の後、バケツが声を上げた。
「いたぞ」
呼ばれた二人は平静を装ってゆっくりとベンチから腰を上げ、入口を出た。バケツの指差す方向に一人の少女が歩いている。
バケツは志賀を向き、志賀は頷いた。
「功成は待ってろ」
「えー、間近で見たかったのになぁ」
もはや趣旨をはき違えた友人の意見を無視して、志賀はさっさと歩き始めた。バケツもその隣を行く。
丁度すれ違うかと思われたところで、志賀は足を止めた。
「何度もごめん」
目は前を向けたまま、少女に声を掛ける。少女は志賀の声に驚いて立ち止まった。
「えっと、今朝会った人……」
志賀は首を縦に振った。バケツはその様子を見守る。
ちょっと考えて、青年は素っ気なく言う。
「実は今、君の目の前には、幽霊がいるんだ」
「ゆう……れい?」
少女は困惑した様子で志賀の言葉を繰り返した。ハンカチを拾ってくれた青年が再び現れたかと思いきや、意味不明なことを言い始めたのだから無理もない。
「ブレザー……学校の制服を着て、頭にブリキのバケツを被った幽霊だ」
志賀の説明を頭で理解した女の子は瞬きの後に、その姿を目前に見た。
「……っ!?」
声も出ないほどに驚いた彼女はこの得体の知れない者に恐怖を覚えてか、走って逃げてしまった。
「だよなぁ」
志賀は後を追うことはせず、頭を掻いた。バケツは小さくなっていく少女の姿をじっと見ていた。
とうとう見えなくなったとき、入れ替わりで功成がやってきた。
「どうだった?」
「多分、アタリだ。あの子も、おそらくこいつが見える」
「でも、あの様子じゃあとても説得できそうにないぞ」
功成の至極もっともな発言に、意外な者が手を挙げた。
「私が説得しよう」
バケツの挙手に二人は驚く。
「……大丈夫なのか?」
「ちゃんと説明する。無理であれば別の人間を探そう」
「……とにかく、ここは私に任せてほしい」
「まぁ、そこまで言うんだったら、反論はしない」
「じゃあ、俺たちは帰るか」
志賀は功成の提案に頷いて、バケツを見た。バケツも頷いた。
道端で佇む幽霊を残し、二人は明日に備えて各々の帰り道を歩いて行った。
〇
日が暮れて、月が昇る時刻。
「はぁ……」
少女は深い溜め息とともにベッドに潜り込む。閉めたカーテンの隙間から微かに月光が差し込んでいた。
一日の疲れを柔らかな布団が優しく溶かしてくれる。目を閉じると、頭の中に今日の出来事が流れてきた。
ハンカチを拾ってくれた青年。それと、彼の言葉で現れた変てこな幽霊。
あの時は恐ろしくなって逃げてしまったけど、よくよく考えれば変な話だ。
「夜分遅く、申し訳ありません」
突然、部屋の中で男の声が響いた。荒っぽさのない慇懃な口調であったが、少女は死ぬほどびっくりしてベッドから飛び上がった。
探すまでもなく、声の主は部屋の中央、少女の目の前に立っていた。帰り道に会ったあの幽霊。
「い、一体、何の用なの?」
少女は困惑しながらも、強気の姿勢で尋ねた。幽霊は態度を崩さずに答える。
「どうか、力を貸して下さい」
「力……?」
幽霊の丁寧な話し方から悪い霊ではないことが分かったが、少女は一応緊張を保って応答を続けた。
「話せば長くなります」
「構いません。気になるから、話してください。ただし……」
黙って、少女の求める条件を待つ。
「……そのバケツを脱いでください。人と話すときは、目を合わせることが大事なんですから」
幽霊はずいぶん考え込んだ末に、肯定の意を示した。
「……分かりました」
幽霊は頭に被ったバケツの縁に手を掛け、ゆっくりと上に持ち上げる。
その正体に本日一番の仰天に見舞われた少女に、幽霊は静かに話し始めた……。