幽霊
「なぁ、こんな噂知ってるか?」
講義の終わった大学からの帰り道、そう尋ねてきたのは高田功成だった。
「街中を徘徊するバケツを被った高校生の幽霊ってヤツ。通称バケツ」
「知らないな」
同じ歩調で並んで歩いていた、傍らの北谷志賀は興味なさげに返した。
灰色のビルが乱立した夜の明かりにも事欠かないこの現代において、そんなものが存在する余地などないとでも言うように。
「いやそれがさ、結構目撃者もいるらしくてさ、なんと真昼間にも出没するんだと!」
志賀の反応はさておき功成は興奮した口調で噂の続きを話す。
「昼間にも……? それこそ、幻覚じゃないのか」
「まぁ、そう思うよな。俺も思った」
冷めた友人のまともな反論に、功成もガックリと肩を落とした。話している本人も流石に幽霊の存在を根っから信じていたわけではなかったのだ。
束の間沈黙が訪れたかと思うと、また功成が口を開いた。
「……ラーメンでも食べに行かね?」
「あぁ、いいな。じゃあ、どこにしよ……う……え?」
友の提案に乗り気になって答えようとしたとき、突然、彼の視界に予想だにしないものが映った。
ついさっき、功成が口にした噂。ブレザーを身に着けた、ブリキのバケツを被った幽霊。
「ん、どした?」
言葉を切らして急に立ち止まった友人を見て、心配するというよりは面白がっているような顔つきで志賀に尋ねた。
「……いる、幽霊」
「マジで!? どこにどこに?」
目を輝かせてあっちこっちに視線を向けるのんきな友に、志賀はため息しながら自分の目前を指差す。
途端、功成は落胆の表情を浮かべた。
「……見えねぇ」
「本当に?」
「本当に……くそぅ、羨ましいなぁ」
現実からかけ離れた事態だというのに、二人とも異様な程正気を保っていた。
ちょっと間が空いて、バケツはちらと功成を見てから、また志賀に向き直る。
そして、声を発した。
「君は、私が見えるのだろう?」
幽霊のいるだろう方を凝視する功成を横目に、志賀は頷く。
非常に気軽に、まるで昔からの知り合いであるかのように。
「功成に見えてないってことは、どうやら本当に幽霊みたいだな」
そこまで言ってから、周りの通行人の訝しむ目線を感じて、静かに歩き始める。功成も察してそれに続く。
幽霊は志賀の隣に並んだ。
「幽霊……か。そうだなぁ」
バケツの中から出された自嘲気味の答えが、志賀の耳にはっきりと聞こえた。
「それで、何か用でもあるのか?」
不可解なその言葉は気にせず、志賀は素っ気なく尋ねる。功成は志賀の言葉を聞くともなく聞いている。
「あぁ。だが、重大な話だから、落ち着ける場所で話したい」
「こいつはいていいのか?」
志賀は目が見えているかも分からぬバケツの男に、隣でそわそわしている功成を指差した。
「構わない。そもそも私の声も聞こえていないだろう」
「それもそうか……なぁ、功成」
志賀は一旦バケツとの会話を区切って、再び功成に話しかける。
「へい?」
「幽霊は落ち着ける場所で話がしたいんだと。だから、悪いがラーメンはまた今度」
「どこ行くんだ?」
「近所の公園」
「ついてっていい?」
好奇心旺盛なこどもよろしくせがんできた。
「もうちょっとこう……気味悪がったりしねぇの?」
友人の流石ののんきっぷりに志賀は呆れた。この際自分は棚上げであるが。
対して功成は親指を立て、にっこり笑顔で答えた。
「だって、俺たち親友だろ!」
「……本音は?」
「お前は一人芝居できるような器用なヤツじゃない」
「うーむ……」
信用しているのかいないのか、今一判断がつかない。腑に落ちないものを感じながら、結局功成の好きにさせることにした。
「……じゃあ、ちゃっちゃと済ませるぞ」
こうして、幽霊含んだ三人組は雑踏を抜け、人気の少ない小さな公園へ向かった。
〇
「……それで、その、重大な話っていうのは?」
春のうららかな天気の続く昼下がり、大きな木の下に設置された古ぼけたベンチに大学生二人は腰掛けて、その内志賀が口を開いた。
功成は両肘を膝に、手の甲を顎に載せ、考えるポーズをとりながら志賀の視線の先、つまり巷で噂の幽霊が立っているであろう方向を悔しそうに見つめている。
「剣をくれ」
「……それだけ?」
「そうだ」
あまりに単純で率直な答え。だが、理由がサッパリ見当もつかない。
「どうして?」
「……その問いに答えるには、君の覚悟が必要だ」
バケツの幽霊は重々しく言った。そもそも存在からしてただ事ではないのだが。
志賀はしばし幽霊の見えない顔を見つめて、口を開く。
「……よく分かんないけど、俺が力になれるんだったら、教えてくれ」
多少投げやりにも聞こえるが、それは確かな意志ある言葉だった。
隣にいる功成は目を瞠り、幽霊は深く頷く。
「では、目を閉じてくれ。隣にいる者は……そうだな、ここで待っていてもらおう」
志賀が黙ったのを見て、功成は話しかけた。
「で、何だって? ……お前には珍しく真剣な表情だが」
「一言余計だ。ええと、剣をくれ、だと」
「はぁ? なんじゃそりゃ」
「その理由を、これから見に行く」
功成の戸惑いに志賀も同意しつつ、幽霊の言った通り、静かに目を閉じた。
「……行くぞ」
バケツの中から響く明朗な声とともに、指を弾く音が響き渡る。それは幽霊の声が聞こえない功成の耳朶をも打つほどだった。
しかし功成にはそれも気にならない位に予想外のことが起こった。
さっきまで隣に座っていた友人の姿が、跡形もなく消え去っていたのだ。
「……マジ、か」
すっかり呆気にとられて、そう呟くのが精一杯だった。
〇
「落ち着いて、目を開けろ」
声が聞こえて、志賀はゆっくりと目を開いた。男物のブレザーにバケツの変てこな姿が視界に映る。疑いもなく先ほどの幽霊だ。
「……っ!?」
それでも、志賀は驚かずにいられなかった。それは、幽霊の後ろに広がる光景故である。
場所はさっきと同じ、それも全く同じ公園だった。しかしそこには、ありとあらゆるものがその輪郭だけを残して、紅く紅く塗りつぶされていたのだ。空までも、だ。
日常が垣間見えるために、その光景はより異様な不気味さを漂わせていた。
「……な、んだ、これ……」
普段は感情の揺らぎが少ない志賀であるが、流石に平静を失ってか、やっとのことで声を絞り出した。
「君のいる世界の、ほんの小さなズレ……異世界、とでも言おうか」
幽霊は慣れた様子で答える。その余裕が、志賀には煩わしく思われた。
「……意味がわからん」
「説明は後だ。今は、私が剣を欲する理由を見せなければな……」
そう言って、幽霊は自分のいる場所から一歩横に動いて、志賀に奥の景色が見えるようにした。
そして、遠く、なだらかな山となっている個所を指差す。
うんざりした気分になりつつも、志賀は目線をバケツの指差す方へ持ち上げた。
「……!?」
一瞬巨大な建築物と見紛うその物体……それは、人だった。
いや正確に言えば人などではなく、人に近い形の像だった。
削りだした岩石の塊を中途半端に溶かしてくっつけられて出来ているようなソレは、短い足と不釣り合いな巨大な腕を持っていた。
何より際立つのは、灯台の明かりのように揺らめく、騎士の兜を模した頭部のスリットから覗く、ぎらついた橙色の光だった。
「……あれが、私の倒すべき敵。言うなれば、<鉄の巨人>、だ」
志賀はようやっとのことで言葉を吐き出す。
「……倒せると思ってるのか?」
幽霊はキッパリと答えた。
「倒さなければならない」
「それこそ、どうしてだよ!?」
志賀は勢い問いただす。幽霊はちょっと黙ってから、言った。
「ここで私がどう答えても君は納得してくれないだろうが、これだけは言っておく。アレを放置しておけば、君の世界に危害が及ぶ」
「……私は、何としても、それを阻止するために剣を取らなければならない」
幽霊の真摯な態度に、志賀は少々落ち着きを取り戻して深呼吸をした。
そして、意を決して、言葉を紡ぐ。
「……作る、だけでいいんだな?」
バケツを被った頭が静かに縦に揺れた。
「正直、何が何だかさっぱりだ。でも、あれがヤバいっていうのは俺でも分かる」
「だから、分かった。お前に協力する」
「……ありがとう」
小さな、けれど確かに意志の籠った礼だった。
一応の契約が成立して、素朴な疑問に立ち当たる。
「そういえば、俺、全然剣の作り方なんてしらないけど、大丈夫なのか?」
バケツが頷く。
「ああ。君は剣を作る゛力゛を持っている……だが」
「だが?」
「人数が足りないな。あと3人、君と同じ゛力゛を持った者を向こう……君の世界で探さなければならない」
それを聞いて、志賀は深いため息を吐いた。
「人集めは苦手なんだが……ましてやこんな、突飛な話」
志賀の言葉に、初めて幽霊は笑った。青年らしい爽やかさがあった。
「大丈夫だ。君なら」
バケツの男の温かい言葉に、志賀は驚きながらも決意を新たに頷いた。
そして、山上に佇む、謎めく鉄の巨人を睨みつける。
「……待ってろよ、<鉄の巨人>」