香奈の失踪
香奈の失踪
「ただいま、お母さん。卒業してきたよ」
いつもの様に母の声がしない。彼女はリビングで倒れていた香奈を見つけて抱き起こした。鼓動はしているようだ、意識はない。実はこんな事は初めてではない、香奈は『マンジュリカーナ』として、鋭敏な能力を持つ。宇宙の『気』の乱れを感知しただけで、意識を失う事もあった。
「どこかで、また何か起こっているのね。早く戻ってきて晩ご飯作って欲しいな」
たいていは、数時間で意識は戻り、起こった出来事をなっぴになんでもないように香奈は話してくれた。
「なっぴもいつかは『見習い』から卒業しないとね」
そう言って、いつも優しく笑うのだった。
「何ですぐ連絡しなかったのですか!非常に危険です」
翌朝になっても香奈の意識は戻らなかった。救急隊の隊員が彼女を怒鳴りつけるように言った。夜勤明けの父は彼女とともに救急車にあわてて乗り込んだ。
あれから一年になる、未だに香奈はベッドに寝たままだ。香奈が一体どこへ精神を飛ばせたのかわからない。マイにもレムリアの巫女達にも一切心当たりはなかった。手がかりは、うつ伏せに倒れた香奈が握りしめていた新聞の切れ端、フランスの『ノーチラス22』が海底一万メートルの深海で採集した、『ミドリアコヤガイ』の写真だけだった。それは直径一メートルを越える巨大な二枚貝だ。なっぴはその『ミドリアコヤガイ』が今日アカデミアに届くのを心待ちにしていた。
「きっと母さんと関係があるのに違いないわ」
彼女は今日から正式にアカデミアに加わる、たいすけに連絡を入れた。
ミドリアコヤガイ
「エックス線もはじかれるなんてそんな事本当にあるの?」
「貝だろ、割る事もできないなんて、あり得ないだろう」
『ミドリアコヤガイ』は、近年発見された新種の貝だ。それだけでは大して話題にならない、『しんかい6500』もこれまで深海の生物を数多く発見しているからだ。日本、それも『日本アカデミア』に送られたのは、たいすけが実は関係する。『ミドリアコヤガイ』は硬く口を閉じていて、どうにも開く事ができなかった。そのため一体何を食物としているのか、全く不明なのだ。しかも海底一万メートルの水圧にも耐える殻とその水圧を押し返す、強靭な『閉殻筋』いわゆる貝柱がある。この度実験が成功した二万気圧まで調圧可能な実験水槽の中で『ミドリアコヤガイ』を研究し、その生態を解明するのがアカデミアの役割だった。たいすけの研究の成功は、『シーラカンス』の耐圧殻の新素材になったばかりか、こうした深海の生物研究にも役立っていた。香奈が握っていたのは、その巨大な貝がはるばる日本に運ばれる事になったという新聞の記事だったのである。
「何てきれいな緑色の貝なの」
「ああ、でも不思議だな、この貝」
「何が?たいすけ」
「なっぴ、いいか。この貝には色がついてる、しかも緑色だ」
「そうか、あり得ない事か」
「ちょっと、二人ともマイに説明してよ!」
アカデミアにはオブザーバーを招く事が可能だ。マイは二人の推薦でアカデミアを訪れていた。
「深海には光が届かない、それなのに色はいらないだろ」
「それに緑色は光合成が盛んな植物に代表される色でしょう、不思議だと思わない?マイ」
「そうね、じゃあこれって普通の貝じゃないかもしれないね」
五千、六千、七千、八千、九千、新素材の中の水圧がゆっくりと一万メートルに近づいていく。しかし一万メートルに達しても、貝の様子に何の変化もなかった。加圧器が停止した。これからの七十二時間、三人は交代で貝の様子を見る事になっている。水槽に向けて様々な特殊なカメラや器具がセットされた。中枢にアカデミアのメインコンピュータ二台とスーパーコンピュータがつながれている。貝はそれからの二日間は全く変化がなかった。窓の外には大型で早い速度の台風が、近づいてきていた。