零れ落ちる
瞬く間に景色が変わった。木造の家屋内から変わり、見慣れた白雪の情景が視界を覆う。吹雪は止み、小雪となって山々に舞い落ちていた。一夜にして状況は一変したようだった。あらゆる不幸を凝縮したような一日だった。だが、それでも娘は生きている。希望は残っているのだ。
レストは辺りを見回す。切り株の年輪、木々の形、草木の配置、獣道の構造、それらを観察し、この場所が自身の狩場内であることがわかった。普段、頻繁に訪れる土地。深き森に入る手前付近だ。ここからまた山に登れば魔女と魔獣の住まう地に足を踏み入れることになる。
帰る際にはこの場所に戻ればいいようだ。念のため、近場の巨木をナイフで削り、自分だけがわかるように印を残した。
「さて……」
ここに来て、ようやく冷静に考える時間ができた。レストは自分の所持品や状況を改めて確認することにした。衣服は薄着、寝間着の上に、ノアに着せていた上着を羽織っている。どうやら魔女がレストに着せてくれたようだ。使い古したブーツには盗賊と村人達との一悶着で切り傷が幾つもあった。それは服も同様だ。
武器は動物の解体用のナイフだけ。心許なく、これでは動物を狩ることさえ困難だ。
最終目的は英雄を狩ることだ。最初は、雪の国に住まう英雄『ガルフリア』を狩ることになるだろう。彼は槍を扱う元騎士だ。現在では雪の国内を旅して、困窮している子供や人々を助けて回っているらしい。英雄らしい、立派な男であることは国内でも有名だ。だが放浪しているため、所在地まではわからない。まずは彼を探すことから始めなくてならないようだ。
しかし、その前に装備を整えなくては。先立つものもなく、道具もない。さて、ならばレストがすべきことは何か。言葉にせずとも、答えは出ていた。
レストは周囲を警戒しつつ、樹林を抜けた。足跡に注意し、気配を探りながら、己の庭を通る。寒さはあるが、心は熱かった。これまでにないほどに、レストは使命感に燃えている。ノアを助けるという強い意思が、彼を動かしていた。明確な希望は、これほどの気力を与えてくれるものか。迷いはない。今のレストならば、どんなことでもするだろう。
しばらく森を進むと、村の裏手近くに到着した。レストは慎重に進み、姿勢を低くしたまま草木に隠れた。誰もいないことがわかると、ゆっくりと木陰から顔を出し、村内を見回す。レストは眉をひそめる。この臭い、不快な鼻に着く悪臭。普段、幾度も感じたことがある。
血だ。
そろりと草の影から出て、村内に入る。家屋の裏側から顔だけを出して村の中を見た。そこには雪を赤く染めた何かが倒れていた。人だ。一人、二人ではない。ほとんどが老人だった。中には若者もいたが、彼は比較的重い病気を患っていたはずだ。そのためまともに運動ができなかった。
どうやら、盗賊達は価値がないと思った村人を殺して打ち捨てたようだ。一日前のレストであれば惨いと思い、悲しんでいただろう。だが今のレストは過去の彼ではない。一日で、凄惨な時間を過ごし、すべてを壊された彼は、もう善良な村民ではなくなっている。ただの娘を愛する、狂気の狩人であった。
レストは盗賊に気を付けながら、村の中を見回った。そこかしこに倒れている村人の顔を、彼は知っている。盗賊達の目の前で、レストを殴りつけた老人、ノアを見捨てた者達。感慨はなかった。怒りはあったが、それでも殺したいほどではなかった。きっと、彼等の存在は、レストの中ですでに他人以下の価値になっていたのだ。だが彼等と共に積み重ねた時間が殺意を最小限に抑えもした。だから殺そうとまでは思わなかったのかもしれない。
ふと、目についた姿に、レストは足を止めた。何とはなしに近づくと、膝を折る。
白髪で見慣れた顔だった。表情は死の間際の情景を連想させる。彼は、村長は驚愕と恐怖に満ちた顔をしたまま絶命していた。
愚かな。盗賊との交渉が上手くいくと本当に思っていたのか。奴らが約束を守ると思ったのか。もしも交渉するならば、保険が必要なのだ。なのに、村長はただ盗賊を信用するという担保しか持ち合わせていなかった。そんなもの、相手の考え次第で破綻するというのに。それはレストも同じだった。
もしも、魔女が約束を破ったら。その時は、レストは彼女を殺すだろう。魔女だろうと、英雄だろうと関係がない。ノアを傷つけた人間、ノアを救うために殺さなければならない相手はすべて、この手で……。
レストは村長を半眼で見詰め、そしてすぐに背を向けた。憐れだとも思わない。自業自得であるとも思わない。ただ、村長は失敗しただけだ。己の望みを叶えるため、何かを犠牲にしても、結局望みは叶わなかった。未来の自分を暗示しているようでもあり、自分はそうはならないという戒めにもなった。
レストは村人達の遺体を素通りし、自宅へと向かった。家の中は荒らされ、価値のあるものはすべて持ち去られていた。家具や衣服は残っていたが、銅、銀などの素材の小物、本はなくなっていた。貪欲な奴らだ、そこまでしてでも稼ぎたいのか。
しかし、幾つかの本は残されていた。時間がなかったのか、価値の高そうなものだけ持ち出したらしい。床に落ちていた蔵書を手にとった。『父狼の旅』と表紙に書かれている。最後に購入した本。ノアが読んでいた本だ。
レストはなんとはなしに、その本をテーブルの上に置いた。
レストは狩り用の服に着替えた。魔獣の厚皮で動きやすく頑丈だ。ちょっとした刃物ならば通さない。防寒にも優れており比較的高級な素材だ。普段は使わない。いざという時に用意していたものだ。大型の魔獣が現れた時のために。
小型の鞄を腰に携え、中には保存食料と水を入れた。大きめの肩下げ鞄には小さめの鍋、調理用ナイフ、小さめの食器、火打ち石などを入れた火口箱、弓の整備道具、矢やナイフの研磨用砥石、罠用の釣り糸、衣服や下着を何枚か入れた。
「……これも、入れておくか」
『父狼の旅』という本。ノアが時間を忘れて読んでいた本だ。多少重みはあるが、一冊程度ならば問題はないだろう。道中、時間を持て余す時もあるだろうし、読むのもいいかもしれない。
腰には大型のナイフを差した。これ一本で動物を狩ることも可能だ。矢筒には三十本の矢を入れておく。これ以上持てば動きが鈍重になる。後は道中の街で買うなり、自分で作るなりすればいいだろう。
解体小屋に向かい、燻製肉と愛用の弓を手にした。肉は小型の鞄に入れておく。弓の調子を確認したが、どうやら盗賊達は触りもしなかったようだ。狩人の弓など興味なかったのか。使い古されており、売り物にもならないはずだ、と思ったのだろう。粘りの強い高級な木材を使用しているのだが、見た目はそんな風には見えない。実際はそれなりの値段がするはずだ。ただし、剛弓と呼ばれる張力の強い弓であり、常人には扱えない。強じんな腕力と技術があってこそ初めて弓として使用できるものだ。
レストは地面に弓を押し付け、体重をかけながら、弦を張った。何度か弦を引き、状態を確認すると弓を肩にかける。普段よりは荷物が多いため違和感があるが、すぐに慣れるだろう。
準備を終えると、村長の家に向かう。
その途中、ガサッと物音が聞こえた。レストは弓を構える。数瞬の所作だった。隙のない動きで、即座に矢を射ることができる。だが、その必要はなかった。
「リオン」
現れたのは白狼、相棒のリオンだった。
弓を下げ、レストは白い息を吐いた。
はっはっはと呼吸をしながらリオンはレストに近づいてくる。表情は変わらないが、申し訳なさそうに、クゥンと鳴いた。
「気にするな。私が命令したんだ。それに、あの状況では、おまえは殺されていた。逃げることが最善の方法だったんだ」
ただのスノーウルフであるリオンを生かす理由はない。もし盗賊達を攻撃でもしたら殺されていただろう。リオンはスノーウルフとしては珍しく賢い。その上、俊敏で、一個体として戦闘能力は高いだろう。だが多勢相手では分が悪い。
リオンはずっと主人であるレストを待ち続けていたに違いない。もし、彼がこの場に戻らなければ、恐らくずっと待っていただろう。死ぬその時まで。それほどまでにリオンはレストに忠誠を誓っている。
リオンの顎を撫でながら、レストは話しかける。
「ノアを助けるために、英雄達を殺す。ついてきてくれるか?」
任せろとばかりにリオンは一鳴きした。リオンは人の言葉を理解している。リオンにとってレストの命令以上に大事なものがない。何を言おうと、レストが命令すれば忠実に行うだろう。己の命を捧げる内容であったとしても、だ。
レストはリオンを伴い、村長の家に向かった。中には、また死体が転がっている。十数人。村人の半数近くが死んでいる。ラシャ村は不幸にも老人が多い村だ。利用価値のある若者は少なく、子供も同じ。そのため犠牲者は少なくなかった。
大広間に入ると、床は血で濡れていた。中には子供もいた。ノアの姿と重なり、レストは顔を顰める。部屋を見回したが、誰も残っていない。遺骸だけだ。
と、玄関近くで物音がした。今度は腰からナイフを抜き、足音を鳴らさず入口へと戻る。そっと扉前に立ち、蹴り開けると玄関前に移動した。
「ひっ!」
悲鳴の主を視線で射抜く。そこにいたのは村の子供だった。ノアとほぼ同年齢の男の子だ。見知った顔。当然なのだ。村人全員、レストは家族同然に扱っていたのだから。だが、それは過去の話だった。
「なぜここにいる?」
子供は一人。他に生存者はいない様子だった。彼だけが生き残った理由がよくわからない。どこかに隠れていたのだろうか。
「お、俺、かくれんぼ得意だから、ぜ、絶対に見つからない場所があるんだ」
少年はかなり小柄で、大人が隠れられないような場所へも入れるだろう。盗賊はすべての場所を確認するわけでもないし、運よく見つからなかったらしい。
レストはナイフを鞘に納めると、子供に冷たい目を向けた。
「盗賊はどこへ行った?」
「ガ、ガイゼンに向かうって、言ってた」
「そうか」
それだけ言うと、レストは子供を無視して家を出ようとした。もう用はなかった。
「ま、待てよ!」
子供が甲高い声で叫んだ。耳障りだったためか、レストは不意に足を止める。肩口に振り返ると子供を睨んだ。少年はレストの形相に言葉を失っていた。
レストは妄執に取りつかれた男の顔をしていた。
だが何かを覚悟した男の子は、声をしゃくり上げながら涙を流す。
「お、おじさんの、あんたのせいで、み、みんな殺されたんだろ!? お、俺聞いてたんだからな! みんな! あんたが、逃げなければ、死ななかったのに! あ、あんたが殺したんだ! あんたがみんなを殺したんだ!」
少年は最初の恐怖を忘れ、次第に興奮し、憎しみをレストへとぶつける。言葉に酔っているのか、悲観しながらも、自分の言葉は正しいのだとレストへ主張した。
彼には血の繋がった家族はいなかったはずだ。赤の他人である村人に育てられていた孤児だ。それでも村人達が好きだったのだろう。憤るのも仕方がなかった。
レストは目を伏せ、そして少年に言った。
「終わりか?」
「……え?」
「終わりかと言っている」
「そ、そうだよ、終わりだよ」
「だったらもう聞いてやる義理はない」
「そ、そんな……あ、あんた、本当に、レストのおじさんか……?」
その言葉によって、少年の意図が露呈した。レストは無視するか逡巡したが、再び肩口に振り返り、少年を見下ろした。
「……なぜ先程の台詞を盗賊達に言わなかった。私が村人達を殺したか? 私を殺そうとしたのはどっちだ? 娘を、ノアを犠牲にしようとしたのは、誰だ?」
「そ、それは」
「おまえは、私ならば危害を加えないと高を括ったから、丁度良かったから、八つ当たりをしているだけだ。無抵抗な相手だから安心だと思ったんだろう? その汚い考えに気づいているか? 自分は何もせず、子供だからと言い訳をし、そして今になって、生贄にしようとした相手に悪態を吐いている。直接的ではないにしても、見捨てたのはどちらだ? どういう意味かわかるか?」
レストは少年に冷淡な言葉を吐いた。感情はない。淡々と、事実を述べただけだ。少年に理解出来るかどうかは知らない。ただ、レストは教えてやっただけだ。どんな理由があろうとも、人を虐げたのであれば、犠牲にしたのであれば報いを受ける。
それは……自身も変わらない。だがレストと村人達、少年との違いは、覚悟があるかどうか。たった一つの違いだが、大きな隔たりがある。
レストの言葉に、少年は言葉を失っていた。一応は、話の内容は理解したようだった。
ならばもう時間を費やす気はない。レストは少年に背を向け、家を出た。
「ま、待てよ、待ってよ! お、俺どうすれば、これからどうすればいいんだよ!」
「知らん。私にはどうでもいいことだ」
「どうでもって……村のみんなが……殺されて……」
ノアと比べて、この子供は他人や大人に縋り、自分の意思がない。子供なのだから無力であることは仕方がない。だが、考えることを放棄し、人に責任を転嫁するその幼稚さと悪辣さが気持ち悪かった。ノアは、いつ死ぬかもしれないその身で、自分のことをそっちのけにし、父親を労い励ましてくれたというのに。なのに、この子供は健康で、生き長らえ、未来がある。盗賊達の眼から逃れた幸運も、彼には与えられた。なぜノアではない。自分の娘はどうしてこうも不幸なのだ。
ノアは、その一つも与えられなかったのに。それでも懸命に生きて、耐えて、今もなお死にかけている。なのに、この子供は。
レストは殺意を抑えきれずにいた。その様子に少年は後ずさりした。
「な、なんだよ……」
愚かな。何を考えているのか。この子供に罪はない。妬んで一方的に悪意をぶつけるなんて身勝手にもほどがある。それをわかっているのに、感情は溢れた。
レストは何も言わず、少年をその場に残して村を立ち去った。
子供に罪はない。そうだろう。だが、それは何をしても、何を言ってもいいということではない。大人げないことはわかっている。だが、どうしても幸福を当たり前と思い、甘えた人間を見ると苛立ちを覚えてしまう。自分達はこんなに不幸なのに、と比べてしまう。
いや、彼も不幸な人間なのだろう。だが顔を見ればわかる。自身にとって最も大事な何かを失ってはいないことに。彼にとって自分が一番大切だったのだ。だから悲しみよりも、自分の行く末を心配している。非難はしない。それもまた一つの生き方だ。
レストは深呼吸し、不条理に対しての憤りから、八つ当たりしてしまいそうになった自分を諌めた。これでは子供と一緒だ。そう思い、レストは空を仰いだ。雪の冷たさが心の熱を奪う。負の感情を和らげてくれる。
振り切るのだ。村でのこと、村に残したすべてを。これからは安住の地はない。
最初の獲物は盗賊達だ。奴らを狩り、金を取り戻す。旅の支度金として必要不可欠だからだ。
レストは村を離れ、ガイゼンへと向かった。
奴らは盗品をどこかで売りさばくはずだ。盗賊達は、ラシャ村から最も近く、それなりに規模の大きい街であるガイゼンに向かっているだろう。それは少年の言葉からもわかっている。
盗賊達が出立して大して時間は経過していない。馬はないが、盗賊達も持っていなかった様子だった。馬は高級だし、世話が手間だ。それに盗賊家業をしていれば、馬は足かせになることもあるだろう。ガイゼンへは徒歩で一週間、ということもあって徒歩を選んだのかもしれない。
急げばガイゼンに到着する前に盗賊達に追いつけるだろう。村人達も一緒だから、余計に時間もかかるはずだ。途中、奴らを殺そう。全員、生かしてはおかない。奴らをこの世から消し去ることが最初の目的だ。
レストは迸る殺意を必死で抑えつつ、リオンと共に道を駆けた。その横顔は狂気に満ち、もはや人の形を成しているだけの、別の生き物だった。