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黒い希望

 優しく頬を撫でられた。冷たい指先は目尻から顎へと滑り、そして離れた。


「泣か、ない……で」


 哀しげに笑う妻を、レストは見下ろすことでしかできない。共に過ごした日々は、そう長くはなかった。だが、両親を失い、孤独に生きてきたレストにとって、妻のエレナは大切な存在だった。妻はノアを産み、衰弱していた。命の灯は間もなく消える。産婆は部屋の隅に佇み、黙して見守っている。産湯に浸かり綺麗に洗われた娘を抱きかかえたレストは、どうしていいかわからずただ立ち尽くした。


「そんな、顔、あなたには、似合わないわ。あなたは、強い……人、けれど、弱い、人。あたしがいなくなったら」

「やめろ、やめてくれ……そんなことを言わないでくれ」


 レストは跪きエレナに顔を近づける。懇願するように咽び泣いたが、妻は困ったように笑っただけだった。苦しいはずだ、痛みもある。意識も薄れつつあるのに、エレナはいつものように落ち着いた様子だった。強い女だ。だが、だからこそレストに暗い影をもたらしてしまう。それほどに大きな存在だったから。


「大丈夫、娘が……ノアがいるから。あなたは、娘のために、頑張れる……守る存在がいれば、あなたは……とっても、強くなれるから……そんな、優しい人だから、あたしは、あなたを……好きに……なった、の」


 レストは隣にいた産婆にノアを預け、エレナに縋った。逝かないでくれ、逝かないでくれと叫んだが、神による沈黙の嘲笑が降りてくるだけだった。


 エレナはレストの頭を優しく撫でる。まるで母が子を慰めるように。


「愛してる……愛してくれて、ありがとう……あたしへの、愛を……すべて、ノアに……注いで……あげて、ね……お、ね……が……い」


 エレナは柔和な笑みを浮かべたまま、動かなくなった。呼吸をしていない。微動だにしなくなった妻を、レストは泣きじゃくりながら抱きしめた。


「エレナ……! エレナ、エレナ……ッ!」


 妻はまだ若かった。これから楽しいことが沢山あったはずだ。それなのに、不運にも出産で命を落とした。いや、子を産むということは危険なことだとは知っていた。産婆がいようとも、比較的、安全に出産できる確率は十人に五人、他は難産になるか流産となる。運が悪かった、としかいえない。産婆はよくやってくれた。


 レストは何度もエレナの名を呼んだ。死の王に見初められた妻はもう生者ではなくなっている。それでもレストは妻を抱き続けた。


 その後、三日三晩、レストは悲嘆に暮れたが、やがて妻への愛情を娘に注ぎ始める。一心に愛し、育ててきた。それがレストとノアの始まりでもあった。

 

   ●○●○●○


 ――優しく頬を撫でられた。冷たく、ほのかに温かい指先が目尻から頬を通り、顎に行き届く。離れ、感覚がなくなると、追いすがるように、レストは瞳を開いた。


 意識は不明瞭。まどろみ、状況が把握できない。視界は歪んで、周囲の情景が読み取れない。ここはどこなのか、という思いと同時にノアの姿を探した。


 次第に視界が晴れ、所在がわかった。

 覚醒し、目の前に浮かぶ光景に、レストは息を飲んだ。


「ノ……ア……?」


 娘。娘のノア。


 美しく、儚い憐れな娘。

 その娘が、目の前で、レストの眼前で……。


 結晶化していた。


 首筋辺りで切り揃えていた髪は、腰辺りまで伸びていたが、すべて結晶化し、光を反射している。結晶化が進み、毛先から結晶分が生えたのか。


 ノアは結晶の塊の中に入っていた。レストの身の丈を超すほどの大きな結晶の中央に浮かぶように、ノアの姿が映し出されている。光の屈折で、娘の姿は分身を造り出したようにバラバラになっていた。


 空色の髪は完全な蒼と化している。衣服はなく、裸体の状態で結晶化していた。まるで肖像のようで幻想的。しかし、その美麗さが何もかもの終焉を知らしめてきた。


「ノアアアァァッ!」


 身も世もないとばかりに、レストは叫んだ。


 近づこうとしたが、身体が動かなかった。己は椅子に拘束されているらしく、手足には光の糸のようなもので括られている。力任せに動かそうとしても反応がない。鉄のように強固だった。


 何度も娘の名を呼び、レストは手足から血が出ても暴れた。四肢が引きちぎれても構わない。激痛の中、喉が裂けるほどに叫んだ。獣の咆哮が部屋に響く。子を愛する凶暴な狼は狂乱の中、拘束に抗う。


「落ち着きなさい」


 真横で声が聞こえた。穏やかな女性の声。若く、恐らくはレストよりも若い女。


 レストは血走った目を女に向けた。女は、意識を失う寸前で見たあの女だった。魔獣を殺した女。魔女。


 魔王は現実に存在していた。だが魔女はあくまで噂で存在していると流布されているだけ。レストが女を魔女だと断じたのは単なる直感に過ぎない。もし、魔女を見た、と誰かに言えば、正気を疑われるだろう。それほどに、魔女とは架空の存在だと一般的には言われている。


 しかしレストは、女を常人だとは思えなかった。魔獣を殺す女。吹雪の中、肌を露出させ、平然としている女。これがただの人間だと思う方が、異常な思考だ。


 レストは女を睨み続けて唸った。拘束を解けば、すぐに殺す、ということだ。


 女は口角を不自然に上げ、レストの頬を撫でた。


 レストは不快そうに顔を逸らすと、再び女を睥睨した。


「ノアに、娘に何をした……! 娘をどうしたんだ!」

「あら、あたしは助けてあげたのよ、あの子を。結晶化が進んで死にかけていたから、応急処置をしてあげたの」

「応急処置……? ノアは、結晶化している! し、死んで」

「死んでないわ。あれは、あたしがあの子を結晶の中に入れて、一時的に症状を止めているだけ。生きているのよ」

「生きて……いる……?」


 ノアを見る。呼吸をしているようには思えない。心臓も動いていないだろう。本当に生きているのか?


「心音は聞こえるわ。近くに行って、聞いてみなさいな」


 女が指を鳴らすと、レストの拘束が解かれた。自由になったレストは慌ててノアの下へ駆け寄った。結晶に耳を当てると、トクントクンと鼓動が聞こえた。小さく掻き消えてしまいそうだが、間違いなく娘の心音だった。


 生命の脈動。


 それは、確かに聞こえた。


「生きている、生きて、いる……ふぐっ……生きて……」


 レストは安堵から頬を濡らした。


 情けない。こんな父親で、娘に申し訳がたたない。けれど、どうしても涙は止まらなかった。死ぬと思ったのだ。娘が、殺されると思ったのだ。だが、まだ生きている。それがたまらなく嬉しい。


「ノア、ノア……ノア……あぁ、ノア……」


 これまでの自分の苦しみなど、微塵も思い出さなかった。ただただ嬉しく、ただただ幸福感を抱いた。涙が枯れることはなく、嗚咽も止めどなかった。泣いて泣いて、大の大人が情けなく叫んで、それでも泣いた。


 結晶の硬い感触が返ってくる。こんなに近いのに、娘を遠くに感じた。けれど自分の手の中で守り続けることよりも、安心感を抱いているのはなぜだろうか。


 くずおれて、結晶に額を触れさせ、そのままの体勢で泣き続けた。

 そのまま、しばらくの時間が経過した。やがてレストはゆっくりと立ち上がる。涙を拭いもせず。女に振り返った。


「お、おまえが、助けてくれたんだな……」

「まあ、そうね」

「ありがとう、本当に、ありがとう」


 レストは床に額を擦りつけ、感謝を何度も述べる。女が誰であれ、娘を助けてくれたことは間違いない。魔女だろうが、悪魔だろうが何だろうが、どうでもいい。ノアを助けてくれたのなら、誰でもいい。


「礼をしたいが、何も渡せるものがない」


 女は嘆息して、淡々と言った。


「別にいらないわ。たまたま通りかかっただけだし、たまたま助けられたから助けただけ。けれど、それだけよ。あなたの運の良さに免じて、一時的に手を貸しただけ」


 女は心の底から言っているようだった。照れ隠しではなく、本当に、たまたまだったのだろうか。運が良かった、のだろうか。しかしその機会を得たのは神によるものではない。そんな奇跡は、もうレストは信じていなかった。自らが諦めず、進んだからこそ、幸運に巡り合ったのだ。それだけのこと。


 ふと、レストは自分の身体を見た。傷の一つ、痣の一つもなくなっている。先程、強引に拘束から逃れようとしたので僅かに手首が傷ついているが、それ以外の傷はない。驚愕のままに女を見ると、彼女は肩を竦めた。


「怪我くらい、簡単に治せるわ」


 一体、何者なのかと思ったが、それよりもまだノアのことが気がかりだったレストは、顔をあげてノアを見上げた。


「結晶の中に入れ、症状を止める、なんて方法があるのか」

「人間には無理だけれど、あたしにはできる。でもさっきも言った通り、それも一時的なものよ。徐々に症状は進行する。精々、一年。それ以上は無理ね」

「一年……」


 それでも消えかかった命が助かったのだ。よかった、今はそう思うことにしよう。

 ノアは眠っているようだった。今にも目を開けて、いつもの笑顔を浮かべるのではないか、そう思ってしまう。


 レストは結晶に触れ、ノアに慈愛の眼を向ける。これからどうすればいいのか、まだわからないが、確固たる決意があった。


 ――私が必ず、おまえを助ける。


 希望は途絶えたはずだった。だが、初めて結晶病に関して詳しい人間に出会えたのだ。人間ではないかもしれない。だがそれでも、レストは女に縋るしかなかった。


「何者なんだ、おまえは」

「魔女よ。名前は……人間には発音ができないでしょうし、言わなくていいかしら。そうね、涅槃の魔女といったところかしら。あたしはこの世とあの世の中間に存在する魔女よ」


 驚きは少なかった。やはりという思いの方が強い。


「魔女……本当に、魔女なのか」

「あまり驚かないのね」

「予想はしていた。非現実的なことだらけだったからな。だが半信半疑でもある」

「ふぅん、思ったより柔軟なのね。人間の間だと、魔女の存在は架空のものとされているのでしょう。けれど、あたしは存在してる。それ以上はどうでもいいわよね。それとも魔女だと証明しろ、なんて面倒臭いことを言いだすんじゃないでしょうね」

「いや、私にとっても、真実はどうでもいい。おまえが、娘を救ってくれたことだけが、私にとってのすべてだ」

「そう、おかしな人間ね」


 見下すような声音だったが、表情には喜色が浮かんでいる。魔女は椅子に座り、ティーカップを手にとった。傾けると何かを啜った。香りからして、どうやら紅茶らしい。


 ノアのことだけで頭が一杯だったが、少しずつ平静を取り戻しつつあった。レストがいる場所は、本に囲まれた広い部屋のようだ。本棚がそこかしこに置かれており、ぎっしりと蔵書が詰まっている。確か、図書館という無数の本がある施設が王都にはあるはずだ。それに近いような気がする。


 魔女は広めの中央通路にある無数のテーブルの一つについている。頬杖をつき本を読んでいた。表題は……読めない。知らない文字だった。


「質問をしても、いいか?」

「どうぞ。答えたくないこと以外は答えるわ」


 まるで答えられないことは存在しない、という口ぶりだった。底知れぬ存在であるような威圧感があるのに、か細い少女のような印象がある女だった。黒髪に黒い瞳、見れば見る程、見たことがない容姿だった。


 レストは立ったまま、ノアを気にしつつも、無理やりに思考を正常に戻した。


「ノアを助ける方法はあるのか?」

「なくはないわね」

「あるのか!?」


 レストは魔女に掴みかかる勢いで顔を近づけた。必死の形相を前に、鬱陶しそうに魔女は手を払った。


「近いわ。離れてくれる?」


 レストは慌てて魔女から離れた。気分を害したら唯一の希望が失われる。


「す、すまない。それで、その、どうやって」

「……結晶化は魔王が死ぬ寸前で残した穢れた魔力によるもの。いわば呪いよ。治すには相応の魔力が必要だわ。言っておくけど、あたしにはそれほどの魔力はない。だから結晶化を一時的に抑えることが限界ってわけ」

「……結晶化を抑えることは、人間には無理、なのか」

「無理に決まっているわ。たかが人間にそんなこと不可能よ。何をしても、何を用いても結晶化に影響を及ぼすことはない。だって魔力がないんだもの。自然界に存在するものでもなし、作用する薬品もないのにどうやって治療するというの? 本人の体力によって進行速度が変わる程度にしか干渉はできないのは間違いないわね」


 やはり、ダルタニアンは騙していたのだろうか。魔女の言葉をすべて鵜呑みにすることはできない。だが、恩人である魔女の言葉が嘘とも思えなかった。


 もう、簡単に人を信頼しない。例え、魔女であろうと。

 だが、それでも、それでも、だ。


 今、目の前に、ノアを救う方法があるとしたら、それがまやかしであろうとも、嘘であっても縋らずにはいられないだろう。たった一年、その間、娘は笑うことも、話すことも、本を読むことも、何も感じることができない。だがそれは生きているということでもあった。ただ心臓が動いている、という意味の。


 助ける、そう決めたのに、自分は無力だ。

 だからこそ、この魔女が助ける方法があると言うならば、己は迷いなく決断するだろう。


「続きを、頼む」

「結晶病を治すには体内の魔力を除去しないといけない。普通の人間には魔力がないから、毒となるわけね。そして侵している魔力は魔王のもので、相応の魔力がなければ取り除けない。簡単に言いましょう。必要なのは英雄の魂よ」

「英雄……? エステアの四英雄、のことか?」

「そうね。魔王以外だと、四英雄しか魔力を持たない。あなたも聞いたことがあるでしょう。英雄達の力を。彼等は魔王と同じ、異端の存在。魔力という特殊な力を持って生まれた存在。人でありながら、ね」

「魔王と、同じ存在……」

「立場が違っただけ。たまたま人間側で戦っただけ。環境が違えば、もしかしたら彼等の中の一人が、魔王になっていたかもしれないわね」

「その英雄の魂があれば、ノアを救える、のか?」

「一つでは無理ね。魔王と同等となると、四人すべての魂が必要だわ」

「それはつまり」


 レストは生唾を飲み込み、魔女に聞いてしまった。答えは頭に浮かんでいた。だが、もしかしたら別の意味合いではないか、と希望を持ってしまったのだ。


 しかし、魔女は無情にも首肯してしまう。


「英雄達を殺すということ」


 世界を混沌に陥らせた魔王を討伐し、世界を救った四英雄。彼等は世界の救世主であり、未だ、世界に必要とされている存在だ。誰もが知っており、誰もが憧れ、誰もが目標としている存在。世界の象徴。


 ノアも、彼等のことを知っており、憧れ、目を輝かせていた。その彼等を殺さねば、ノアを救えないというのか。


「けれど、不可能よ。英雄は個々の能力は魔王ほどではないけれど、人間を遥かに凌駕する化け物。人に殺せるはずがない。魔王を倒して十年程度。その間、彼等を殺そうとした人間は数えきれないほどいたはずよ。利権のため、邪魔だから、或いは武勲として。けれど無為だった。彼等が強すぎるからよ。そして彼等はそんな化け物でありながら、人々に認められている。恐ろしい話よね。英雄達が子を成せば、力を持った人間が増える。子等が正しい心を持っているとは限らないのに」


 英雄の偉大さ、強さ、偉業。誰でも知っている。勝てるはずがない、殺せるはずがない。殺そうとすれば世界に反旗を翻すことになる。娘を助けるために、世界を敵に回すことになる。


 ただの人間である自分に英雄達を殺せるのか?


 仮にノアを救えたとして、英雄狩りの娘は幸せに暮らせるのか?


 英雄を殺したことで、世界はどうなるのか?


 疑問がなかったわけではなかった。


 だが、

「……そんなことはどうでもいい」


 そう、どうでもいいことだった。


 望みがあるのならば、経緯を選んではいられない。選ぶべき道は他にはないのだから。


「娘が助かるならば何でもする。善人だろうが、悪人だろうが、老人だろうが、男だろうが、女だろうが、子供だろうが、英雄だろうが、悪魔だろうが、魔女だろうが、魔獣だろうが、神であろうが、どうでもいい。殺せと言われれば殺す。崇めろと言われれば崇める。そうしなければ娘が助からないのであれば、迷う必要はない」


 ノアを助ける。ノアを幸せにする。そのためにレストは生きているのだから。


 村人や村長との決別、人々の裏切り、あらゆる不幸の連続、その中で、レストの心は砕け、そして歪に形を成した。元々、歪だったのかもしれない。見た目はまともに見えて、内実は不安定だったのだろう。妻が死んだ時、ノアが結晶病になった時から。


 娘への愛だけが彼を支えている。積み重ねてきた倫理観も道徳心も彼には必要なかった。そんなものが娘を救ってくれたことは一度もなかったのだから。


「ふふ、あなた、素敵に狂っているわ。悪くない。嫌いじゃないわ」


 魔女の凄艶な姿を見ても、レストは動じない。落ち着き払いながら、質問を続けた。


「英雄を殺せば、ノアは助かるんだな?」

「ええ、そうね、助けるわ。約束しましょう」

「謀ろうとすれば、恩人だとしても許さない」


 あまりに淡々と述べた。それが余計に現実味を与えたが、魔女は飄々としている。


「謀る必要がないもの。魔女は人間と違って言葉を安易に吐かない。言葉自体に魔力があるのよ。それは力でもあるけれど、枷でもある。約束は守るわ。守れないならば約束しない。信じられない?」

「信じる必要はない。他に方法はないなら従うしかない。私が考えうる方法はすべて試した、そしてそれはすべてまやかしだった。ならば、結晶化の症状を止めたおまえに賭けるしかない……殺そう、英雄を。私のすべてを懸けて」

「世界中の人間があなたを狙うかもしれないわ」

「それでも構わない。死は怖くない。私が恐怖するのは、娘を失うことだけだ」

「……哀しい男。だからこそ、あたしはあなたを助けるわ。あたしにできるのはちょっとした助力だけ。直接、助けることはできないけれど」


 魔女は本を畳み、レストの前まで移動した。じっとレストを見つめ、目尻をほんの少しだけ下げた。


「意思は硬いのね?」

「ああ」

「あなたが成そうとしていることは、人として逸脱している。だからこそ人間らしくもある。本当に、娘のために英雄達を殺すの? 彼等は世界を救った。賛否あったとしても、世間的には善人といえる人種でしょうね。関係ない人も巻き込むかもしれない。それでも邪魔になれば殺せる? 娘のために手を汚せる? 彼等が死ねば世界は混沌とするかもしれない。それほどに影響力のある四人よ。わかってるわね?」

「ああ」


 迷いはない。即答したレストを見て、魔女は何度も頷いた。


「いいわ。けれど、あなたはただの人。どれだけ鍛えても人の造り出した道具では彼等を殺すことは困難でしょう。あなたには、これを授けるわ」


 魔女が手のひらを起こすと、そこには小さな宝珠のようなものが乗っていた。不気味に輝く宝石は、見ているだけで心の底が落ち着かなくなる。


「これは?」

「召喚石。代償を捧げる代わりに、幽世から魔具を呼び寄せることができるわ。絶大な威力がある武器ではあるけれど、扱いは難しく、使用すればあなたの身体を蝕む。使い過ぎれば肉体は侵され死に至る。いい? 絶対に、連続して使っては駄目よ。一週間は間を空けなさい。でなければ侵食は一気に早まる」


 魔女から召喚石を受け取ると、手のひらに吸い込まれていった。


「あなたの意思に応じて召喚できるわ。安易に召喚しないようにしなさいね。そうね……トドメを刺す時に使うといいでしょう。それまでは使わないこと、いいわね?」

「よくわからないが、わかった」

「……本当にわかっているのかしら」


 魔女は呆れたように嘆息した。


 レスト本人も事態が急変し、事実を事実として受け止められているのか不安はあった。だが、迷いは禁物だ。足踏みしている間に、娘の身体は病に侵されている。時間はない。心の整理をしている暇があるならば、先へ進むべきなのだ。


「英雄の居場所は、知ってる?」

「探せばいい。英雄は目立つからな」

「そうね……それとこれを首にかけておいて。魔力の備えた魂を集める宝石をあつらえてある。一応言っておくけれど、英雄以外の人間の魂は集まらないから。魔力がないしね。一人殺したら戻ってきなさい。彼等の魂を複数、捕らえる容量はないわ」


 渡された首飾りは、皮の紐にひし形の石が取り付けられている簡素な造りだった。磨かれた、ただの石に見える。鈍く光っているようにも見えたが、気のせいだったらしい。


 レストは首飾りを身に着けた。装飾品は音が鳴ったり、動きを阻害するため普段はつけない。そのため少し違和感があった。


「あたしにできることはこれくらいよ。あとは自分でどうにかしなさい」


 あまりに淡々と事が運び、ふと疑問が鎌首をもたげた。


「……なぜ、私にここまでしてくれるんだ?」

「あら、娘のこと以外、どうでもいいんじゃなかったの?」


 魔女は悪戯っ子のような顔をして、くすくすと笑った。言葉通り、レストにとってノア以外のことはどうでもよかったはずだ。しかし、魔女の親切心はどこか居心地が悪かった。それにレストはもう誰も信じるつもりはなかった。それは無条件にという意味だ。だから、魔女の行動が理解出来なかったのだ。仮に何か企んでいたとしても、やはりノアをこの地に残すことになるのだから不安にもなる。わざわざ殺したり、危害を加えるのであれば、助けたりはしないだろうが。


 ひとしきり笑い終えた魔女は、姿勢を正した。


「別にただの気まぐれよ。一応。あたしにはあたしの目的があるしね。聞きたい?」

「……娘のこと以外はどうでもいい」

「そう。だったら話さなくてもいいかしら。どうせ話すつもりもないけれど。とにかくあなたが英雄達を殺せば、あなたの娘は助かる。それは間違いない」

「ならば構わない。聞く必要もない」

「自分から聞いてきた癖に」

「聞いてから後悔した。もう興味はない」

「そ。じゃ、好きな時にここを出るといいわ。麓近くまでは送ってあげる。ここから人は出られないから。戻る時は、こちらから呼び寄せるわ。深き森前まで来てくれたらね。言っておくけど、あなたとあなたの娘以外はこの場所に入れないから、そのつもりで。それとお金とか装備とか服とか、渡さないから、自分で調達しなさい。あたしができるのはここまで」

「わかった。助かった、ありがとう」

「お礼はいいわ。気まぐれだから」


 魔女の目的はわからない。聞こうとも、もう思わなかった。


 レストはノアに近づき、そっと触れる。結晶が邪魔をして、肌に触れられない。それだけでこれほどに寂しく、辛いものなのか。


「少し……そばにいたい」

「お好きにどうぞ。そっちの部屋、客室だから好きに使っていいわ。それと、食事はそっちの扉。入れば勝手にできてるから」


 言葉の意味はよくわからなかったが、彼女は魔女だ。ならばレストの常識は通用しないだろう。レストは詳細を聞くこともなく、小さく頷いた。


 魔女は蔵書を手に奥へと消えて行った。気を遣ったのか、それとも単純に一人になりたかったのか。残ったのはレストとノアだけだった。静寂の中、レストは結晶に触れ、ノアの顔を見上げる。眠っているようだ。苦しそうにも見えない。だが笑いもしない。話もできない。


 レストは手を伸ばす。ノアへ向けて。愛しい娘に触れるように。もうわかっている。選択肢などないのだ。娘を助ける手段は、もう一つしかないのだ。魔女の言葉を聞く以外には、存在しない。


 過去に必死で治療法を探した。それでも見つかったのは高級な治癒薬だけだったのだ。それに縋った。しかし、それは虚像だったのだ。


 盗賊の言葉を鵜呑みにしたわけではない。だが切っ掛けにはなった。娘を思うあまり、盲目的になっていた。冷静に考えれば、怪しかったはずだ。心の底では訝しがっていたはずなのに、一縷の希望に縋るしかなかったから、思い込んでしまった。これで少しでもノアの病状が治まる、そうやって自分を慰めていたのだ。


 今はダルタニアンのことはいい。問題は娘を助けるためにどうするか、だ。


「馬鹿な、決まっている」


 レストは己に言い聞かせる。知っているはずだ。覚悟も決めている。何が真実で何が虚実なのかなんて自分にわかるものではない。だから真偽を確かめる前にあんな話に乗ったのだから。それでも、希望を絶やしたくはなかったのだ。


 ならば、少なくとも事情を知って、その上で助けてくれた魔女の言葉を信じる他ない。裏切りの連続の後、誰かを信じることはできなくとも、己にできることはもう何もなかったのだから。魔女でもなんでも、一時的にでも娘を救ってくれた者の言葉だけが、唯一の光明なのだ。


「ノア……」


 レストはノアをじっと見つめる。そうしていると娘が寝入ったあと、寝顔を眺めていた時間を思い出す。穏やかだった。けれど常に不安だった日々。幼い頃、絵本を読み聞かせたり、洗髪を始めた当初は下手で泣かしてしまったり、怖い夢を見た娘を慰めたり、本が欲しいとわがままを言う娘と喧嘩したり、談笑したり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、そんな何気ない時間が幸せで心を揺さぶる。


 理不尽だ。


 世界は、世の中は不条理で出来ている。なぜ、自分達がこんな目に、と何度思ったか。だが、それももう終わりにするしかない。善人でいようが、正しく生きようが、懸命に日々を過ごそうが意味はない。そんなことを見ている存在などいない。不幸がなくなりはしない。神などいない。人道に悖っても関係ない。娘を助けるためには、正しく生きていてはダメだ。正しさは人を救わないのだから。


 『頑張って』


 ノアはいつも仕事に行くレストに向かって頑張って、と送ってくれた。そんな娘の笑顔が浮かんだ。頑張らなければ。もっと、娘を幸せにするために、頑張らなくてはいけない。


 レストは結晶に体重を預け、その場に座った。娘の傍で穏やかな時間を過ごした。会話はない。寂しいとは思った。けれど、間違いなく、レストは安穏とした心情だった。それはノアが生まれて今日まで、一度もなかったことだった。


   ●○●○●○


 翌朝。寝起きなのか、だらしなく肩紐を垂れ下げて、ふらふらとした足取りで魔女はやってきた。涅槃の魔女ではなく、これでは怠惰の魔女だ。


「ふあっ、んんっ、ねむ……」


 寝ぼけ眼らしい。その上、寝癖も酷い。だらしない格好だったが、レストは気にせず、魔女が自分に気づくまで待った。


「あら、お早いお目覚めね。眠れたの?」

「ああ。ぐっすり」


 悪夢は見なかった。時折、ノアが死ぬ夢を見ていたが、今日は夢自体を見なかった。レストは結晶に触れたまま、拳を握った。愛しの娘は昨日から変わらない。綺麗な顔をしたままで生きている。心音が聞こえるのだ。


 ――待っていてくれ。


 決意を胸に、ノアの顔をしばらく見つめていたレストは、振り払うように踵を返した。だが、またノアの下に戻り見つめる。それを何度も繰り返し、ようやく娘の傍を離れた。


「娘を……頼む」

「頼まれたわ。何をするでもないけれど。安心しなさい、一年は何も起こらない。一年だけはね。それまでに何とかすることね」


 魔女を信頼していたわけではない。だが、現実的に考え、結晶ごとノアを運んで移動することはできない。この場に置いていくことしかできなかった。信用出来る人間もいない。ならばせめて、ノアを一時的にでも救ってくれた魔女を頼る他なかった。


 不安だ。不安しかない。だが、この場にいても、自分には何もできない。それをレストはわかっていたから、断腸の思いで娘を任せた。


「あら、もう行くの?」

「ああ」

「そう。ま、頑張んなさい」


 『頑張って、お父さん』


 娘の言葉と顔が浮かんだ。その台詞が力を与えてくれた。


「ああ」


 二度目の返事には少しだけ感情が籠っていた。だが、それも終わりだ。ここから、この場所から外に出れば狩人となる。帰るまで人間でも、男でも、父親でもない。ただ英雄を狩る存在となる。


「じゃ、行くわよ」

「頼む」


 魔女はレストに向けて両手をかざした。光の粒子が地上から上空に浮かび上がる。淡い光に包まれたレストの身体は、瞬時に消失した。


 残ったのは魔女とノアだけ。

 静寂の中、魔女はレストがいた場所を興味なさそうに見つめた。


「まあ、期待してないけど」


 そう呟いた後、再び、椅子に座り本を読み始めた。真横でノアがいるというのに、まったく気にもせず、自分の時間を過ごした。

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