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崩壊 後編

 村人と村長の諍い。その後、頭領の絶望的な言葉を受け、室内には静寂が訪れていた。

 頭領はそんな村人達の姿を見て、満足そうに笑い、再びレストの前に屈んだ。


「で、だ。その娘、結晶病らしいな。それに中々、器量がいいじゃねぇか」

「娘に手を出せば殺すぞ」


 殺意に溢れた視線で、頭領を真っ直ぐに射ぬいた。しかし頭領は微塵も恐れず、蔑視を向ける。


 レストは、自分の行動が虚勢に過ぎないことをわかっていた。レストがどう思おうと、何を捧げても、何もできない。娘を守るため、身体を張っても、大人数で引き剥がされれば終わりだ。それをされていないのは、ただ単に、この頭領の気まぐれに他ならない。だが、それでいい。逃げ出す隙を見つけることができれば。


「何とも恐ろしい。他の奴らも見習ってほしいもんだ。これだけの気概を持った男はそうはいない。だけどな、状況を見な。おまえは狩られる側、俺達が狩る側だ。優秀な狩人も、こうなったら立つ瀬がないな。ふむ……そうだな。よし、そんなお前に一つ、いいことを教えてやろう」


 一体何を言うのか。不穏な空気に、レストは思わず生唾を飲み込んだ。


「結晶病の進行を遅らせる薬なんて、この世に存在しない」


 想像だにしていなかった言葉に、レストは目を見開いた。この男がレストやノアの事情を知っていることはわかっている。村長から聞いたのだろう。だが、治癒薬が存在しないなどと、そんなことは信じられなかった。交易商人であり、長い付き合いのあるダルタニアンが言っていたのだ。間違いなく存在すると。


「嘘を吐くな!」

「交易商人ってのはどういう存在か、わかっちゃいねぇな、おまえ。最低限の品質を維持して高く売るんだ。衣服、本、食料、種とかな。比較的数が出る商品なんか、粗悪品と低品質なものを混ぜてわかりにくくするんだ。物の価値なんざ、僻地の村人が知るわけねぇからな。特に薬品、これはぼろい商売なんだぜ。重病人は命がかかってるからな、甘言に騙される。だが解りやすい嘘を吐けばバレちまう。後で問題になりかねない。だからこう言うのさ。『症状を抑える効果がある』ってな。抑える、なんて曖昧な言い方だ。どれくらいなのか、どの程度なのかわからねぇ。個人差もある、なんて言葉も良く使われるな。けどな、それでもおまえみたいな奴は縋るしかねぇ。どれだけ高くとも払うって奴は後を絶たねぇってわけだ」

「そ、んな、じゃあ……」

「そう、嘘だ。何なら、調べてみるといいさ。ま、おまえは二度と、まともに外を出歩けねぇけどよ」


 嘘だ。嘘に決まってる。そう思うのに、頭領の言葉は頭に焼き付いてしまった。言葉には説得力があった。レストはダルタニアンの言葉を信じただけだ。薬の説明も、内容も、効能もすべてダルタニアンから聞いただけ。ならば、彼が、もし嘘を言っても、レストには真贋を見極められない。

 村長の裏切りが、レストへ疑念の種を植え付けた。村長以外、家族以外の連中を疑い始めてしまったのだ。


「ま、俺はどうでもいい。おまえの金は俺の懐の中、だ」

「貴様……あの金を」

「貰ったに決まってるじゃねぇか。人売りのためだけに村を襲ったわけじゃねぇよ。村人の財産は全部、俺のもんだ」


 もしも、ダルタニアンがレストを騙そうとしていたのであれば、金はもういらない。正確には、使い道がなくなってしまった。どちらにしてもこの状況から逃れなければどうしようもないのだから。長い年月を費やし貯めた金だが、重要なのはノアだ。娘を助けるためならば金など惜しくないし、金を取り戻すために娘を犠牲にしては意味がない。


 レストはグッと堪え、機会を窺った。だが、そんなレストを見て、頭領は恐ろしい言葉を吐いたのだ。


「結晶病の女を犯したら、病気は移るのか?」


 近くにいた盗賊に日常会話をするような調子で問いかけた。


 この男は何を言っている?


 気が狂っている。頭がおかしい。人間ではない。人の所業ではない。そんな恐ろしいことを簡単に口走るなんて。これは本当に現実なのか。


「い、いえ、そんな話は聞きませんぜ」

「そうかそうか。なら、問題ねぇな、さてと」


 頭領は立ち上がり、レストから離れると、部屋の中央に移動した。そして村人連中に向き直り、両手を広げる。


「ああ、村人諸君。憐れな憐れな子羊達。あまりに可哀想なおまえ達に機会を与えよう。このレストという男から、娘を奪って俺の目の前に差し出してくれ。そうすれば、一人。一人だけ助けてやろう」


 村人達の中で、動揺が広がった。全員、顔見知りだ。食料をおすそ分けしたり、家族のことで相談したり、談笑したり、笑いあい、手を取り合い、嵐の中、村を守り合ったこともあった。誰かが亡くなった時は全員で心を痛め、困ったことがあれば全員で協力し合った。誰かの子供が迷子になれば村総出で探し、誰かが病気になれば全員が心配した。ノアのことをみんな気遣ってくれた。優しく声をかけてくれた。何かできることはないかと、頻繁に声をかけてくれた。優しい、善人達だった。


 今の今までは。


 村人達はレストを見ていた。いつもの眼ではない。獲物を見るような視線。同情の色は濃かったが、それよりも強い負の感情を、レストは見逃さなかった。


 恐怖。恐れている。死を。死から逃れるためならば、他人を犠牲にしても仕方ない、そう思っている。死を前にした時、人は本性を浮き彫りにする。忌避し、逃れる方法を模索する。誰しも、そうなってしまう。


 だが、それでも、家族同然に生活していたはずだ。それなのに。


「す、すまない、レストさん。仕方ないんだ」

「ノアちゃんには悪いと思う、けど、し、死にたくない」

「そうだ、これは仕方がないことなんだ」

「た、頼む、レストさん、許してくれ」


 レストは僅かな時間に人が、文字通り変わった瞬間を垣間見た。これほどまでに、人は変わってしまうものなのかと。驚くよりも、恐ろしく思えた。


「な、何を、やめろ、娘を、ノアをどうするつもりだ。や、やめてくれ、みんな、やめてくれ! 娘を、子供を犠牲にしてでも生きたいのか!」

「……し、死にたくないんだ」

「悪いとは思ってる、けど、む、無理だ。俺達はあんたとは違う」

「レストさん、わ、私達、ごめんなさい、ごめんなさい」


 謝るな。謝るんじゃない! そんな人のよさそうな顔をして、言い訳をして、自分は悪くないと正当化して、他人を犠牲にして、子供を酷い目に合わせようとして、それでも仕方がないなんて言うんじゃない。


 状況が違えば善人である、というのは人間として当然だ。平穏だから人に優しくあれる。自分に余裕がなければどうしても優しく出来ない。そんな生活の中でも、優しくできる人間こそ、本当の善人なのだ。だが、そんな人間は早々いない。誰しも、心を摩耗し、荒んだ環境で、必死で生きていれば、考えることは自分のことだけ。彼等の言い分はわかる、気持ちも理解はできる。だが、だからといって、許容できるということではない。 


 レストが顔を上げたことで、ノアから外の様子が見えてしまう。そこには村人達の変わり果てた姿があった。


「み、みんなどうしちゃったの、こ、怖いよ」

「ごめんね、ノアちゃん。ごめんね」

「ど、どうして謝ってるの?」


 村人達がゆっくりとレストとノアに近づいてくる。

 レストは再び、身体でノアを隠した。抱きしめるだけではすぐに奪われることは目に見えていたからこそ、無駄に大きな自分の身体で娘を庇ったのだ。

 グッと、背中や肩、腕を掴まれ、引き起こされそうになるが、腹の底に力を籠め、床にしがみついた。


「くっ、お、重いぞ」

「おい、どけ! 何してるんだ、さっさと起こせよ!」

「うるせぇな! やってんだろうが!」

「ちょっと、邪魔! 私が連れて行くんだから!」


 老人を押しのけ、少ない若者と働き盛りの男性が我先にとレストを抱えようとした。しかしレストは抵抗を続けた。業を煮やし始めた村人は、レストに怒りをぶつけ始める。盗賊同様に、背中を蹴りつけ始めた。


「この! さっさと離せ!」

「いい加減諦めろよ! そんな死にかけの娘!」

「そうよ! 死にそうな娘一人で、人が一人助かるのよ! さっさと渡してよ!」


 恐怖に魅入られている。興奮し、良心を忘れてしまった村人達は凶暴性を露わにした。生きようとしているのに、邪魔をしようとしている、そのようにレストを見始めた。


 足の裏の硬い感触以外にも杖のようなもの、椅子のようなもので殴られた。若者や男性以外にも、老人たちも参戦したようだった。一度、背中に衝撃が走る度に、レストの美しかった過去が壊れていく。

 楽しかった日々、幸せだった日々、それらはもう、なくなってしまう。諦めていた。少しずつ、時間が経つ度に、レストの中で村人達への執着は薄れていく。元々、レストの心には娘のことで満たされていた。それが村人や村長やリオンのおかげで、少しずつ心の隙間がなくなっていったに過ぎない。だが、村人達に割く心はもう存在しない。次第に胸の内は娘への愛情だけになる。


 助ける。助ける。その想いだけで、何もかもを耐えた。


 だがそれも限界だった。痛みのあまり、肩や腕が麻痺してしまい、力が緩まったのだ。その瞬間、蹴り上げられ、レストは仰向けに倒れてしまった。


「ぐあ! くっ……ノ、ノア」


 痛みに悶えつつもすぐに起き上がり、倒れてしまう。足が思い通りに動かない。ノアを探したが、もうすでに村人に連れられ、頭領の目の前に佇んでいた。細く消え入りそうな娘は、ぶかぶかの上着を着て、泣きじゃくりながらレストに手を伸ばしていた。


 声が遠い。鼓膜が破裂したのか、視界は赤く濡れてもいた。頭でも切ったか、そこかしこが痛むためよくわからない。


 立ち上がり、ノアを取り戻そうとしたが、村人達に掴まれて阻まれてしまう。


「は、なせ! ノア、ぐぅっ……ノア、ノア!」


 レストは怒りのあまり、暴れまわった。村人を殴りつけ、振り回す。尋常ではないほどの膂力と娘への想いで、村人達を吹き飛ばし、壁へと叩きつける。


「お、おい! さっさと止めろ!」

「くっ! 協力しろ! 手伝え!」


 盗賊と村人全員がレストを抑え込もうとした。今までは娘が枷となっていたが、自身一人ならばレストは相当な力を発揮する。毎日欠かさず狩りをしていた父親は、いつの間にか、常人を遥かに凌駕するほどの力を得ていた。しかし所詮は人間。大人数を相手には戦えない。


 だがそれが何だというのだ。怪我など気にしない。動かす度に鈍い痛みが走るが気付けになって丁度いい。理性の鎖を砕き、レストは怒りのままに暴れた。


 三人、四人までは強引に振り払うことができた。手を伸ばせば娘に届く、そう思った瞬間、床に叩きつけられた。


「ガアアッ! 離せ!」


 レストを抑えつける人数は十に及んでいた。それでも限界近く、村人や盗賊は必死の形相でレストを抑え込んでいた。


「なんて野郎だ。そんなに娘が大事か、あん?」


 頭領は屈み、ノアに顔を近づけた。ノアが恐怖に身体を震わせ、涙ぐんでいる姿を見て、恍惚とした表情を浮かべていた。


「ああ、いい顔だ。綺麗にしてんじゃねぇか。娘を大事にしていたんだなぁ。今から、滅茶苦茶にするのが、楽しみでたまらねぇよ」


 ノアは恐ろしさのあまり動けず、泣きながらレストを見ていた。助けを求めているのは間違いなく、レストの親心を突き動かす。力が沸きあがるが身体は動かない。


「貴様ぁ! 娘に触れるな!」

「へへへ、いいね、その顔。その声。最高だ。なあ、いいことを教えてやる。俺はな、女の大事な人間の前で、女を犯すのが最高に好きなんだ。わかるか? 夫の前で、妻を無理やり犯すあの時の感覚……はぁぁぁ、最高だ。優越感、屈服させている感じ、雄として格上であると見せつけ、女を奪う。夫婦、兄妹、姉弟、母子、恋人ってのは今まであったんだけどよ、父娘ってのは初めてだ……ああ、興奮すんなぁ、おい」


 頭領は舌なめずりをして下卑た視線をノアに向けた。そしてそのまま、ノアを抑えつけ、床に押し付ける。


「お父さん、お父さん! イヤ、イヤ! お父さぁん!」

「ノア、ノア! やめろ、くっ、貴様! やめろ! やめてくれ! 何でもする、私が何でもする! 何でも渡す! 私なら何をしてもいい、だから娘を、娘だけは、ノアだけは助けてやってくれ!」


 頭領は床にノアを抑えつけながら、ゆっくりと顔をレストに向け、醜悪な笑みを浮かべた。


「断る」


 頭領は口腔を開け、ノアの首を絞めた。


「あ、ぐ、くるしっ、んあっ」


 ノアが呻いても頭領は気にもしない。むしろ興奮した様子で息を荒げた。そのままノアに視線を下ろし顔を近づける。舌を伸ばし、ノアの白い肌に這わせようとした。 


 ――これは一体、何の冗談だ? 現実なのか、こんな悪夢が現実だというのか……ッ!


 自らを抑えつける村人達、見知った顔がそこにはあった。仕方ない、仕方ない、と呟きながらレストを拘束している。男、女、老人。子供は部屋の隅で震えている。盗賊達も楽しげに笑い、レストを蔑んだ。いたぶっている。なぶっている。レストとノアを。理由はそれぞれだが、目的は同じ。憐れな父と娘を一方的に蹂躙しようとしている。


 血液が沸騰した。

 幼き我が子が汚されようとしていた。頭領の顔がノアに近づこうとしている。汚い舌が、我が娘に触れる光景が一瞬脳裏をよぎり、理性が崩壊した。


「ガアアアアアアアアア!」


 レストは獣の咆哮と共に、すべての力を解放した。鼓膜にぶちぶちと何かが切れるような音が聞こえた。全力で身体中の膂力を総動員し、背中に乗っていた十人程の人間を持ち上げ、肘でかち上げ、拳で殴りつけながら立ち上がった。そこに人間らしさはなかった。充満している獣臭はレストから発していたに違いない。娘を助けるべく、レストは瞬時に頭領へと疾走しながら、ブーツからナイフを抜いた。


「あ?」


 咄嗟の出来事に、頭領は反応が遅れ、脇腹に刺さったナイフを見下ろし、そしてわなわなと震えた。


「いてええええぇぇ! なんだよこれえぇ!」


 レストはすぐにナイフを抜き、ノアを片手で抱きかかえると部屋を出るべく扉に向かった。ノアはあまりの恐怖に失神してしまったようだった。


「に、逃がすな!」


 頭領の叫びに、盗賊と村人が呼応する。入口を塞いだが、レストの形相を見て、ビクッと震えた。

 普段は温厚ではあるが、狩人であるレストは獣と共に生きてきた。故に、獣の恐ろしさ、自然の厳しさも知っており、生死の無残さも知っている。彼を満たしているのは、娘への愛情と、不条理、盗賊、村人や村長への怒り。感情のままに、レストはナイフを握りしめた。柄が軋んだ。


 あまりの様相に村人達は後退りした。その隙を見過ごさず、レストは激昂しながら駆ける。咆哮し、ナイフを正面に構えながら。


 村人達は争いごとに慣れていない。そのため反射的にレストから逃れるために道を開けた。いや逃げたのだ。だが、盗賊達はそうはいかない。レストに対して怯えを見せてはいたが、それでも頭領の命令に従い、剣を抜き、レストに斬りかかった。


 レストはノアを守るためだけにナイフを振るい、致命傷だけを避けるように腕を振るった。裂傷が首から下、特に腕付近に走る。弾き返せない斬撃は腕で受けたからだ。躊躇はなかった。娘に傷をつけさせるくらいならば腕を犠牲にする方がいいと判断したのだ。鋭い痛みは無視し、レストは扉を抜けた。


 玄関口へ向かい、外に出ると、見張りの数人がレストに気づく。だが、剣を構える前にレストは獣を思わせる速度で走り去った。


「追え! 逃がすな!」


 レストは足を止めない。鮮血が雪に滴るが、構わずに雪道を進んだ。先程まではまだ降雪量は少なかったが、今は吹雪いていた。走りながらノアを見ると、意識を取り戻す気配はなかった。首を絞められたからか。喉を圧迫され何か怪我でもしたのか。結晶病は虚弱になる病気でもある。過剰な精神的な負担もあって、娘の身体に何かが起こっていたとしても不思議はない。


 レストは必死で走った。後方で盗賊達の声が聞こえたが、構いはしない。樹林に入れば狩人である自分に追いつける人間はそうはいない。寒さも慣れている。痛みも慣れている。待つことにも慣れている。だが、娘を失えば耐えられない。


 ひたすらに走った。やがていつもの狩場に到着したが、レストの足は止まらない。腕の中のノアは息を荒げていたが、やがて呼吸が浅くなる。


「ノア……頑張れ、頑張れ、死ぬな、死なないでくれ」


 顔中、体中を血でべたつかせていたレストだったが、ノアは綺麗な顔をしている。よかった、あの薄汚い男に穢される前で。安堵と共に、不安に見舞われる。このまま、どこへ行けばいい。

 樹林内で隠れ続けることは可能かもしれない。だが山狩りが始まれば、ノアに負担を強いる。自分一人であればこのまま山を迂回し、別の村へと逃げ延びることは可能だろう。だが娘の体力はそこまでもたない。現時点でかなり疲弊しているのに。一日もてばいい方だろう。


 だが、他に方法があるのか。確実な方法など存在しない。村へ戻っても殺され、樹林内にいても娘は死ぬ。上着を被せていることが唯一の救いだろう。僅かにだが寒さはしのげている。しかしそんなものは慰めにしかならない。


 レストはノアの頬に触れた。まだ温かい。だが体温は間違いなく下がっていた。


「私が、父さんが助けてやる、から、な」


 泣きそうになりながら、堪えてノアを抱えた。両腕で覆い、少しでも寒さから守ろうとした。そうして、レストは足を止めることだけを嫌がり、目的もなく樹林内を歩き続けた。


 道はわかる。だが、無意識の内に進んでいたので、気づいた時には山の奥に到着していた。そこは魔女が住まう土地、魔獣が跋扈するであろう土地であった。


「こんな、ところへ来て、私は何をしようと、している」


 わからない、わからないが、恐らく村から離れようとし、その上で山を迂回する道はない、と思っていたから、残った方向に進んだのだろう。つまり樹林を真っ直ぐ突っ切ったのだ。


 どうすればいい。どうすれば。逃げ場はない。ないが。立ち止まっていても光明は射さない。何もしないよりは、目的も意味もなくとも何かをした方が、結実するかもしれない。


 神に祈っても、希望に縋っても、すべてはまやかし。存在しないものに縋っても救われない。成すならば、行動するのは自分自身であることは、イヤというほどに知っていた。


 レストは山へと進んだ。魔女の住まう土地、魔女の森へと。心中しようとしたわけではない。だが、その行動に意味がないことをレストは理解していた。それでも足を止めることだけはできなかった。誰も助けてはくれないのだ。ならば、例え救いに到達できなくとも、行動を止めてはならない。助けを待っていても決して訪れない。ならば、ほんの少しでも可能性があるのならば、奇跡が存在するのならば、自らの足を動かそう。


 ノアを抱きしめる。厚い衣服に遮られ、冷たい感触だけが返ってくる。


 レストはノアに服を貸しているので薄着だ。だが、彼は自分のことはどうでもよかったのだ。娘のことだけを考え、娘の安否だけを気遣い、彼は生きている。それが彼のすべてだった。


 レストは歩いた。歩いて、深き森と呼ばれる、山の奥へと足を踏み入れた。禁断の土地、大型の魔獣が大量に生息している土地。死ぬだろう。間違いなく。だが、それでも、それでも、だ。薄汚い人間に虐げられながら、人間としての尊厳を踏みにじられながら殺されるよりはいいだろう。


 すでに死に場所を求めつつあったことに気づき、レストは頭を振った。ノアだけは助ける。そう決めたのだから。だが、どうしても考えてしまう。なぜ、どうして、こんなことになってしまったのか、と。様々な感情が生まれては消える。泣きだしそうになり、レストは歯噛みして感情を抑える。痛みなど感じない。レストに残っていたのはノアへの想いだけだった。


 腰にはナイフが残っている。この武器で魔獣を相手にできるとは到底思えない。しかしほんの僅かだけ頼りになる、唯一の篝火でもあった。


 ふと娘を見下ろすと、睫毛を震わせ白い息を吐いていた。苦しそうに呻き、小さく、お父さんと呟いた。


「ノア、ノア」


 縋るように声をかけたが反応はない。情けなくも嗚咽を漏らした。心が折れそうになっていた。跪いて眠ってしまえば楽になれるのだろうかと思ってしまう。だがそれを己自身が許さない。


 深き森へ入って、まだ魔獣の姿は見えない。だが、それがなんだというのか。どこへ向かっているのかわからない。行き着く先に希望はあるのか。そも、行き着く先があるのか。


「どうして……どうして、なんだ? なぜ! なぜだ! なぜ……どうして、私達、親子だけがこんな目に……。私が、娘が何をした! ただ、普通に暮らしたかっただけだ。貧しくても、苦しくても、ただ生きたかっただけだ。真っ当に生きていた、それなのに……! どうして!」


 答えはない。誰も存在しない。救いはなかった。疑問に答える存在もいるはずがない。


 わかっている。だが、叫ばずにはいられなかった。レストは黙して空を睨んだ。違う。懇願するように見ていた。だが、答えは吹雪のみだ。雪で覆われた視界には変化はない。光芒など射すはずがなかった。


 ふとノアを見下ろした。


「そんな……駄目だ、駄目だ!」


 ノアの髪の毛先、爪先が結晶化を始めている。体力が消耗され、症状が悪化したことは間違いなかった。杞憂は現実となった。だが、他に方法はなかった。少なくともレストにとってはこれが最善、いや、唯一の選択だったのだ。


「やめてくれ、もう、娘を、許してやってくれ」


 誰ともなく祈った。神はいない。ならば悪魔でもなんでもいい。娘を助けてやってほしい。何でもする。何でも。誓う。だからお願いだ。


 応えはない。


 レストは何かの物音を聞いた。狩人の習性から音に敏感なレストは、吹雪の中でも微細な違和感に気づいてしまった。振り返るとそこには大型の、熊に近い様相をした魔獣が立っていた。涎を垂らし、空腹であることは明白。レストはノアを悲しげに見下ろし、そして地面にそっと下ろした。


 死への恐怖はない。痛みもどうでもいい。だが怖い。怖くてしょうがないのは、自分が死んだ後、娘がどうなるか、だ。


 大型の魔獣とはいえ、レストを食すれば満腹になるだろう。眠っている人間を、食欲もないのに殺すことは、あり得なくもないが可能性は低い。ならば、ノアは魔獣に殺されることはないだろう。それでも低気温の中、長時間いれば凍死する。


 だがレストにできることは他にない。父である自分ができることは自らの身体を魔獣に捧げることだけだ。


「私を……食らえ……殺せ! 私を殺せ!」


 叫ぶと、魔獣はグルルと喉を鳴らした。威嚇している。レストは獲物ではあるが、抵抗される可能性を考えているのだろうか。慎重な性格らしい。そのおかげで僅かに時間の猶予ができた。

 レストは肩口にノアに振り返る。寝ている娘の顔を目に焼き付けた。


 ――愛している。


 そう呟き、正面に向き直ると、視界が無数の牙と口腔内に覆われていた。




 ――――――――――


 ――――――――


 ――――――


 ――――


 ――



 轟然と衝撃が大気を震わせた。目の前にいたはずの大型の魔獣が遥か遠くで倒れている姿が見えた。大木はなぎ倒されている。魔獣の腕は吹き飛び、地面に転がっていた。


 一体何が起こった?


 レストは周囲を警戒しつつ、ノアを抱きしめる。


 血を失い過ぎた上に、体力も消耗し限界が近い。ここまで動けたことが奇跡に近かった。その上、魔獣に殺されると覚悟した後、なぜか九死に一生を得た。その安堵から、ドッと身体が重くなった。張り詰めていたはずの神経は研ぎ澄まされ過ぎて、ぷつりと切れてしまったのだ。


 しかしレストは、意識を失いそうになりながらも周辺を見回した。強じんな精神力で必死に意識を繋げながら、草木が不自然に揺れていることに気づいた。


「何、者……だ……」


 声は吹雪にかき消されていた。必死で目を凝らし、対象を見つける。

 それは女だった。こんな大雪の中、白い肌を露出させている。薄着であるはずなのに、風で衣服が揺れていない。明らかに場違いな格好であるはずが、女は微塵も気にした風はなかった。黒髪に黒い瞳は、珍しい容姿であった。どこの出身かもレストにはわからなかったが、一つの言葉が頭に浮かんだ。


 魔女。


 そうであるに違いない。こんな場所で女一人、しかも恐らく、魔獣を殺したのは彼女だ。見目も異常だ。何もかもがおかしい。だが、レストは不思議と気を抜いてしまった。意識を失いつつもノアを庇いながら倒れた。


 彼の様子を見ていた女は、ゆっくりと近づいてくる。


「結晶病、ね」


 ノアに触れると、興味なさ気に呟いた。女の視線はレストに移る。血だらけの男。しかし娘は無傷で綺麗な身体だった。それだけでこの男がどういう経緯を辿って来たのかは明白だった。詳細は彼女にはわからないだろうが、双眸には好奇心が浮かんでいた。少なくとも、ノアに向けた視線とは違う。どうやら、ノアよりもレストに興味を持ったらしい。


 女が手を掲げると、レストとノアの身体は空中に持ち上げられた。そしてそのまま、彼女は森の奥へと消えて行った。雪には彼女の足跡は残っていなかった。

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