不穏
「――はっ、はっ、はっ!」
息が弾んでいる。規則的に吐かれる息は、少しずつ荒くなっている。
レストは身体中に走る痛みと違和感と戦っていた。あの力、召喚の力によって、巻き起こった異常に動揺が走っている。覚悟はしていた。理解もしていた。魔女の言葉を軽んじていたわけではない。召喚石の力を使えばどうなるか、説明は受けていた。
どんな力なのか、実際に使う直前ですべてを理解した。
魔界に存在する魔弓の召喚。
その弓の凄まじさも理解している。
だから、その代償がどれほどのものなのか、それも理解はしていた、はずだった。
「……見えない」
左目の視力が著しく下がっている。失明、とまではいかないが、暗闇の中では見えないと同義。それほどに視界が歪んでいる。あれほど明瞭に見えていた景色が、もうまともに視認できない。
狩人にとって視力は重要だ。見えなければ射ることは不可能。視覚以外で情報を読み取ることもあるが、それでも視覚が最も五感の中で重要なのだ。
右目は無事だ。ならば問題ないはず。慣れれば大丈夫だ。動揺を感じつつも、平静を取り戻そうとした。
走りは止めず、ひたすらに走った。
「逃げてんじゃねぇェェッ!」
後方から幾つもの叫びが聞こえる。追いつかれたら終わりだ。
レストは左目が見えないながらも、長年の鍛練と経験を活かし、何度か矢を打った。だが、命中率は著しく下がっており、三本に一本、着弾する程度になっていた。レストの、射撃の命中率は十回に九回。その外す一回も不運に見舞われた場合か、体調が悪い時だけ。快調であれば百発百中だ。九割以上の命中率を誇っていたが最早、その栄光の見る影もない。再び鍛練が必要だ。死ななければ、だが。
多数存在するガルフリアに対して、数十本の矢では焼け石に水。先ほどの、魔弓による一矢で、百以上のガルフリアを屠ったが、それでもまだ半分以上は残っている。
ガイゼンへ逃げる。
それは最後の手段であり、苦肉の策でもあった。
非人道的な打算による策。つまり、住民達がいる場所ならば、今のような暴挙には出られないだろうと思ってのことだった。噂話ではガルフリアが何百人も存在している、なんて話は聞かなかった。それはつまり、ガルフリアは能力に関しての情報を隠していたということにならないだろうか。もし、そうであるならば、奴の行動を制限できる可能性はある。それに、住民を盾にすれば、逡巡するだろう。
下種の所業である自覚はある。だが、こんなところで死ぬわけにはいかない。
ノアの、娘のためならばどんなことでもする。そう決めたのだから。
レストは走った。気づけば矢はなくなっていた。必死になって射ていたが、枯渇したらしい。命中率が下がったせいで、途中から毒を塗ることは、あまりなくなっていた。そのため、矢はなくなったが、毒は僅かに残っている。
鞄は途中で捨てた。中に入っていた金だけを所持している。それ以外は、森の中に投棄した。
レストはひたすらに走った。
レストは森の中、逃げ惑う獲物だった。
対策はない。逃げるだけ。今は。それしかない。せめて、ガイゼンに向かえば好転するはずだ。そう信じて、必死に足を漕いだ。
●○●○●○
必死で走り続けていたのはレストだけではなかった。ルスカもまた、リオンと共に闇夜の中を駆け続けていた。走り始めて、すでに丸一日。鞄がないおかげで走りやすいが、それでも体力は過剰なほどに奪われている。
少しだけ眠れたからか、ある程度は体力が戻っている。けれどその回復した体力も、この一日で消費した。でも走りを止めることはできない。レストが、己を囮にして逃がしてくれたのだ。こんな程度で弱音を吐いて、休息をとるなんてできるはずがない。
自身は奴隷なのだ。なのに、主人であるレストを危険に晒し、己はこうして逃げている。その無力さ、情けなさ、強い罪悪感と、自身の存在価値のなさに吐き気を催した。けれど、それを受け入れるしかない。主人の言葉、できることをする、やるべきことをする。無力ならば力を身に着ける。そうするしかないのだと理解した。
もう、甘えは許さない。自分で決めた道なのに、あまりに楽しくて、自由で、甘えてしまっていた。何があっても主人であるレストのために生きると決めたのに。それが最初で最後の選んだ道なのに。愚痴を言って、まるで友人のように接していた。レストに甘えていたのだ。彼があまりにも優しかったから。
ルスカは下唇を噛み、己の愚かさを呪った。
今は逃げなくては。ガイゼンへ向かい、主人の帰りを待つのだ。今、自分にできることはそれくらいしかない。もう迷わない。何があっても。何が起こっても。主人であるレストの目的を達成するため、それだけに生きる。
「ウウッ……」
リオンが唸った。ルスカは我に返り、リオンを見下ろした。リオンの瞳には僅かに慈愛の色が浮かんでいるように見えた。勘違いだろうかと思ったが、それでもルスカはリオンに小さくありがとうと告げた。するとリオンも小さく吠えて答えてくれた。
ルスカは正面を真っ直ぐ見据え、走り続ける。
辛くとも、苦しくとも足を止めることはない。遅くとも、絶対にガイゼンへ辿り着く。できるだけ早く。それだけを考え、かけ続ける。
そうして二日目に突入した。夜通し走り、平原を抜け、途中街道に至った。そこからは道なりに行けばガイゼンへ到着する。だが、見通しがいいため、ガルフリアに見つかる可能性がある。そこで道から僅かに外れた樹林を通って進んだ。レスト程ではないが、ルスカも行動する前に考える性格だ。この短い期間に経験したことから、できるだけのことを学んでいる現れだった。
舗装されていない道を進むと、どうしても余分に体力を浪費するが仕方がない。そのまま走り、時として歩き、そして走る。
やがてガイゼンへ到着した。
それはレストと別れて二日後のことだった。
丸二日、ルスカは寝ずに移動を続けていたのだ。あまりの疲労に、肺や心臓が悲鳴を上げているのに、気絶するように眠りかけてしまった。それでも精神力で耐えて、ルスカは走り切ったのだ。危険極まりない。寝ずにひたすらに走るなんて、下手をすれば死んでいたが、それでもルスカは乗り越えたのだ。
「はあはあ……んぐっ、はっ、はっ、はぁ、ふぅ、ふぅ、はあはあ、はっ」
息が整うには時間がかかりそうだった。視界も不明瞭だった。
目の前に見える、ガイゼンの防壁が拒絶しているようにも見えた。だがルスカは震える足でガイゼンの正門に近づいた。
時刻はまた深更。
幸か不幸か、暗闇の帳が降りている中、ルスカはガイゼンへ辿り着いたのだ。盗賊の類に遭遇しなかったのは、ガルフリアが巡回している土地だからだろうが、他の旅人と遭遇しなかったことは運が良かった。変に勘ぐられる可能性があるし、ルスカの手には奴隷の刻印がある。手袋をしているので傍目にはわからないが、官憲であれば誰何されるかもしれない。そうなれば拒否はできない。
奴隷一人で行動しているとなれば奴隷商会に連れて行かれるだろう。そうなればレストと会うことは難しい。簡易契約は、あくまで簡易。正式に奴隷であるルスカの、正式な主人はいないことになっているのだから。かといって、奴隷商会へ行き、レストが登録すれば個人情報を渡してしまうことにもなるので、保留しているわけだ。
とにかくガイゼンへ辿り着いたが、これからどうするかまでは、ルスカは考えていなかった。
「……どうしよ」
ようやく息が整ったところで、ルスカは呟く。身体中は怠いし、眠りを欲している。だが、今はまだそんな悠長なことを言っている時ではない。とにかく、中へ入らないといけないが、どうやって入ればいいのか。
ガイゼンの入り口には門衛がいて、入るには監査を受ける。ルスカの格好を見て、奴隷か確認する可能性は高い。仮に顔見知りのゼノであっても、ルスカ一人を中へ入れてくれるとは思えない。もしかしたらゼノならば助けてくれそうな気がしないでもないが、迷惑をかけることになる。
いや、違う。例え、ゼノに迷惑をかけても、レストを助けるためならば躊躇ってはいけない。自分にとって最も大事なことを忘れてはいけない。
主人だ。
レストなのだ。
彼に傅く、そう決めたのだから、他の誰を犠牲にしても助けなければならない。 それがゼノでも……シャールでも、他の誰でも。その覚悟を持たなければいけない。
ルスカは歯噛みし、ガイゼンの正門を見つめた。
「行くしか、ないよね」
ここで立ち往生していても意味はない。せっかくレストが助けてくれたのに、無駄な時間を過ごしていられるほど、ルスカは日和思考ではなかった。
ルスカは正門へと歩み寄る。深更のため、松明の明かりだけが照らしており、やや不気味な様相だった。門前、二人の門衛が立っている。
片方の兵、あれはゼノだ。
近づくと、ゼノは警戒した様子でルスカを見ていたが、やがて顔が見えたらしく、表情を緩めた。
「ルスカちゃんじゃないか」
ゼノはいつも通り、気の良い青年の笑顔を浮かべて、ルスカに近づいた。
「こ、こんばんは」
「ああ、こんばんは。ん? ありゃ? 一人、じゃなくて、一人と一匹か?」
ルスカとリオンを見た後、ゼノは遠くを見た。レストの姿を探しているらしいが、そこには存在しない。
「う、うん、ちょっとはぐれちゃって」
「あー、なるほど、そうかー」
ゼノは困ったように顔をしかめた。ルスカが奴隷であることはゼノも知っている。ルスカ一人ではさすがに中へ入れるわけにはいかない、と思ったのだろう。
ルスカもその考えは理解できたので、どうしようかと考えていた。けれど、レストが来るまでここで待っている、とは言えない。彼がガイゼンに戻ってきた時、どんな状況なのかまではわからないからだ。もしガルフリアに追いつかれそうになっている状態だったら、また自分が足手まといになる。ならばせめて街の中に入って、身の安全を確保しておく、くらいはしないとレストに合わせる顔がない。
どうにか中へ。そう思い、ルスカは一歩、ゼノへと近づいた。
「お、お願いっ! 中へ入れてくれない?」
「俺もそうしてやりたいところなんだけどな……やっぱり、その、奴隷だけを入れると問題があるんだ。俺が罰せられるだけなら、まだいいんだ。けど、誰かに見つかったらルスカちゃんと旦那が罰せられるかもしれないからな」
レストも、という言葉にルスカは戸惑ったが、それでもここにいるよりはマシに思えた。どちらにしてもガルフリアに追いつかれれば命はないのだから、できるだけ邪魔にならないようにしたかったという考えもあった。
「あ、あたしは大丈夫だから!」
ゼノは困惑していたが、それでも毅然とした態度を崩さなかった。
「悪いけどそういうわけにはいかないよ。互いのためにも、ここは旦那を待とう。逸れたんなら、ガイゼンに戻ってくるだろうし。もし、しばらくしても来ないんなら、俺が一時的な保護者として連れ添うこともできるから。もう少ししたら、俺の休憩時間だから、それまで待ってくれないか?」
ありがたい申し出だ。しかし、やはりこの場で待たなければならないらしい。早く中へ避難したいが、ガルフリアがガイゼンに到着するまでに可能なのだろうか
「もう少し、ってどれくらい?」
「そうだな。あと一時間くらい、か」
一時間。どうだろうか。自分の足の速さと、レストの足の速さを考えれば追いつかれる時間のようにも思える。だがレストはルスカの荷物を持っているし、ガルフリアと戦うこともあるだろう。
ならば一時間以上はかかるだろうか。ギリギリの線だ。けれど、何を言ってもゼノは頷いてはくれそうにない。恐らくは、この提案でもかなり譲歩してくれている。奴隷であるルスカにここまで親切にしてくれる人間は早々いないだろう。親切心を利用するようで心が痛むが、主人のことを思うと必死になってしまう。
ルスカは逡巡したが、緩慢に頷くしかなかった。
ゼノはほっとしたように息を吐き、苦笑した。
「悪いけど、時間までそこら辺で待っててくれ。業務が終わったら声をかけるから」
「うん、わかった……ありがとう、ゼノさん」
「いいさ。妹の友達には優しくしないとな」
面倒事であることは間違いないのに、ゼノは爽やかな笑みをルスカに向けた。善人であり、相手を慮ることができる出来た青年でもあった。
ルスカはもう一度礼を言って、外壁に体重を預けつつ座り込んだ。隣にリオンも座ったが、じっと正面を見据えている。
わかっている。ゼノに迷惑をかけているし、気を遣っても貰っている。これ以上ない程に優しくして貰っているということに。でも、ルスカにとってはレストのことが最重要だ。もし、主人がガイゼンへ到着した時、ガルフリアがすぐ後ろにいれば。
考えても仕方がない。今は、これ以外の方法はないのだ。もし強行し、街中へ入ってもすぐに捕まるし、レストの足を更に引っ張るだけだ。ならば大人しくしておくことしかできない。情けない。でもこれが今の自分なのだ。
「強くならないと」
ルスカはそう呟いた。疲れているのに、眠気は強いのに、眠る気配はなかった。きっと、ルスカが望んでいることはそんなことではなかったからだ。
ルスカは、レストのことを想い続けた。
無事でいる。きっと。あの人なら。そう思い続けることしかできなかった。
そうして。
どれくらいの時間が経ったのか。
「待たせたなルスカちゃん。中へ入ろう」
いつの間にか、隣に立っていたゼノを、ルスカは見上げた。
寝ていたわけではない。ただ集中して、遠くを眺めていたのだ。主人の姿を必死で探し続けていた。疲労と睡眠欲を跳ねのけ、集中力が続いていたのは、ルスカの先天的なものによるものなのかもしれない。
ルスカはリオンと共に立ち上がった。
と。
「なんだ?」
ゼノが訝しげにつぶやいた。
その視線の先、そこに小さな影が見える。
あれは、間違いない。
待ち人。主人である、レストだ。
「あ、レスト!」
嬉しそうに、思わず叫んだルスカは、手を上げようとして途中で止めた。
レストの後ろ。
月夜に照らされて、見えた何か。その姿を見て、ルスカの顔は引きつってしまう。
無数のガルフリア。
百以上の人の姿。
あれは。
あの姿は。
異常な光景は一体何なのか。
「な、なんだありゃ!」
ゼノともう一人の門衛が叫んだ。
こんな深夜に、起きた出来事。二人はあんぐりと口を開けて、何もできない。あまりに非現実的な光景に、脳が活動を停止しているようだった。
混乱した頭で、ルスカは必死で考えた。レストは百以上のガルフリアに追われている。遭遇したガルフリア以上に、ガルフリアはいたのだ。そう、あり得たことだ。ならば動揺してはいけない。
ルスカは震える手を強引に抑えつけて、次にすべきことを考えた。
レストはガイゼンへ向かい走っている。もうすぐ辿り着く。
今。
もう数十秒。
ならば。
ルスカは、突然その場から移動した。
「ル、ルスカちゃん!」
驚くゼノを無視して、リオンと共に通用口を通り、ガイゼンの街中へと入る。後方からゼノの制止する声が聞こえたが、構ってはいられない。
「くっ! お、おい警鐘だ!」
「あ、ああ!」
事態を飲み込んではいないだろうが、異常なことであることは認識したらしい。遠くでゼノと門衛が焦燥感を抱いたまま、対処しようとしていた。追ってきてはいない。だが、行動が遅れたため、レストが自身に追いつくのも時間の問題だろう。
それに……ガルフリアも。
どこかに隠れるか。警鐘が鳴り響く中で? そんな怪しげな人間がいればすぐに捕まってしまうだろう。
官憲本隊に危険を知られ、ルスカ達は追われるだろう。どうすればいいのか。そこまで考え、未だに鐘の音がならないことに気づいた。だが足は止めない。何が起こっているのかわからないが、とにかく距離を取らなくては。今は、レストの邪魔をしないようにしないといけない。
ルスカは走った。どこへ行けばいいのかわからず、それでも走った。レストを助けるために、レストから離れた。それが自分のできる唯一のことだと信じて。




