穏やかな日々の延長
雪の国西方、ラシャ村近辺の森林。
レストは巨木の上で身を潜めていた。物音を漏らさず、じっと獲物を待つ。愛用している弓の状態は完璧。獣の往路も把握している。心臓の拍動さえも周囲に漏らさないように、できるだけ抑える。どんな状況でも動揺しないように冷静さを保ち、ひたすらに獲物を待った。
登っている樹木の根元には白狼が姿勢を低くし、動かない。狩猟の相棒であるスノーウルフのリオンだ。レストの唯一無二の相棒であり、絶大の信頼を寄せている。賢く、人語を理解し、命令にも忠実で、レストの考えを理解し、自ら判断して行動することもできる。リオンは娘のノアが生まれる少し前に、レストの家族となった。
狩りをしている最中、リオンの母親は小型の魔獣に殺されていた。リオンも殺されそうになっていたが、レストが偶然に通りかかり助けたという経緯がある。それからリオンと共に暮らすことになった。最初は、中々なつかなかったが、自然と信頼は積み重ねられ、今では狩りには必要不可欠な存在となった。
狩りの待機中、動かないため体温が下がる。厚着は必須だが、あまり重ね着すると動きが鈍くなる。そのため基本的には、厚めの外套や毛布を用意し、羽織る。そうすることで、四肢の動きを円滑にするのである。
地面を歩き、獣の足跡を追って狩猟を行うこともあるが、積雪が深く、足音も大きくなるので、動物の動向を読み取れるのであれば、一所で待った方が効率的だ。レスト、ノア、リオンの食事、それに村や町へ卸す分、と考えると最低でも一日一体は確保したい。当たり前の話、同じ場所で狩り続ければ、動物達は警戒して別の場所へ移住する。そのため、比較的広範囲を狩猟地とし、ある程度は散らばった箇所で狩猟を行うようにしている。
幸いにもラシャ村には他の狩人はいない。そも、狩りを単独でするような人間は少ない。理由は危険だから、だ。動物だけではなく、自然の中では魔獣と遭遇することがある。そうなった場合、対処できる人間はそう多くはない。
レストは幼いころから狩猟生活に身を置き、父からそのすべてを伝授された。その後、独立してからもひたすらに技を磨き、狩人として成長している。それは今も続いていた。
何かが聞こえた。
耳に神経を集中させていたレストは、物音を聞き逃さなかった。同時に、リオンも気づいたのか、耳をピクッと動かした。しかし、訓練が行き届いているため、それ以上の反応はしない。
レストはゆっくりと肩や頭に乗っている雪を払った。外套を払い、腕を出すと、携えていた弓を構え、矢をつがえる。弦の音が出ないように徐々に引き、頬の横まで持ってくる。この距離ならばこれくらいの引きで十分。
物音が近づいてくる。ガサガサと草木を揺らし、現れたのは猪の親子だった。うり坊が二体。母親が一体。うり坊はそのままにするより、飼育してある程度、成長させてから食べる方が一般的だ。ただ小規模の村では飼育するよりはさっさと解体して食べる方が主流でもある。ラシャ村では畜産はしておらず、猪や鹿、羊、山羊、牛、豚などの家畜は存在しない。狩猟はあくまで調理と交易のためだ。
猪の親子がレストに気づく素振りはなかった。大きめの音を鳴らしながら、雪を踏みしめ進んでいる。そして親が雪を深く踏んだ瞬間、風を引き裂く音が真っ直ぐ、心臓付近の大動脈に突き刺さった。猪は突然の急襲に驚きながら、痛みのあまりに暴れ回る。音に驚いたうり坊達だったが、反応が遅く、二本、三本目の矢に一瞬で倒れる。こちらは首付近を狙った。うり坊達はすぐに動けなくなり、その場に倒れる。
痛みに苦しみ走り回っていた親をリオンが追いかける。レストは木から降りて、うり坊を木に吊り下げる。親猪はもう問題ないし、仮にまだ体力が残っていてもリオンの敵ではない。血抜きを素早く終えると、リオンの足跡を追った。
リオンが唸り声をあげながら猪を威嚇し、逃げ場を塞いでいた。親の猪はすでに動けなくなり、地面に伏しつつあった。すぐに絶命するだろう。
高所からの射撃では胸部、心臓付近をを穿つのは困難だ。真横から射る方が真っ直ぐ、心臓へ向かい、筋肉に阻まれにくいし、肋骨のような遮蔽物も多少は避けやすい。その上、動脈を狙うなど普通はできない。個体差もあるので、多少の構造の差もある。
しかし、レストは長年の経験と観察眼からそれを瞬時に見抜く。その上、矢の速度は尋常ではなく、また正確に射る腕前も並の狩人とは一線を画している。このような手法を可能にしているのは、偏にレストの鍛練の賜物、そして彼の才によるものだろう。しかし、レストの技量を正確に知っている者は誰もいない。彼の狩猟の情景を知るのはリオンだけだ。優秀な狩人は寂れた村で暮らしている、雪の国の民。それ以上でもそれ以下でもなかった。
リオンを撫で、ついてこい、と命令すると猪に近づく。三体とも一撃の元、絶命している。獲物を無闇に痛めつけないという考えはレストの矜持でもあった。罠はどうしても獲物を傷つけて捕獲するため、その考えには沿わない。だからこそ、罠を使うことは少なかった。しかし優秀な狩人と言えど、時として獲物と出会えない時もある。矜持よりも生きること、そして娘のことが最優先であるため、レストは渋々、罠を使うこともあった。
「上出来だ」
獲物の具合を確かめながら、レストは即座に木の枝に吊るして血抜きを始める。しばらく待って血の流れが止まると、うり坊と共に水辺へ運んで腹部を切り、内臓を取り出す。猪の内臓も部位に分けてしっかりと洗う。内臓類も食べられるからだ。
内臓を専用の鞄に入れる。肉を冷やして早めに体温を下げさせる。これにより、肉の傷みを防ぐ。年中積雪しており、気温も低いので解体は楽だ。寒ささえ我慢できれば、だが。
獲物をロープで括り、背中に背負う。かなり重いが、猫車や荷車のような便利な道具はない。運ぶのも一苦労ではあるが、レストは慣れた様子で三体を背負った。ちなみに、リオンは遠くで眺めているだけである。この白狼は綺麗好きで、血で毛が汚れるのを嫌っているのだ。狼にも雌と雄で差があるのだろうか、とレストは疑問に思っている。リオンは雌である。
「帰るぞ、お姫様」
ウオンと嬉しそうに鳴いたリオンと共にレストは山を下った。
●○●○●○
ラシャ村は小規模の集落だ。人口は三十程度で若者は少ない。老人が多く、稼ぎ手があまりいないため、よそ者のレスト達を迎え入れてくれたようだった。それが十年前。まだノアが生まれていなかった時だった。
それからノアを生む時に妻は死に、父と娘とリオンだけになった。
生活に不満はない。村人達も優しく、気遣ってくれるし、狩りも順調だった。ノアの容態さえよくなれば、すべては上手くいく。そう思っていた。
ラシャ村に戻ると、十数軒のこじんまりとした家屋が迎えてくれる。三角屋根に積もった白い雪がこの村の特徴だ。それ以外に何か挙げる点はない、そんな村だったが、レストは気に入っていた。
「おや、おかえりなさい、レストさん」
「ただいま帰りました、村長」
如何にも人が良さそうな白髪の老人がにっこりと笑いレストを迎えた。村長でありながら、農作業や村の清掃など、常に村のために働いている。村人達に慕われており、人格者の村長だった。レストも彼に好印象を持っており、ラシャ村に移住してよかったと思えている一つの理由でもあった。
村長の近くに移動すると、隣にいたはずのリオンは姿を消した。リオンはレストとノア以外になつかない。そのため基本的に無関心か、別の場所へ勝手に移動する。何かあればすぐに駆けつけるので問題はない。どこに行っているのかはレストも知らなかった。
「さすがレストさんですな、中々に大量のご様子」
「いえ、これくらいは。解体したら一部、おすそ分けしますので」
「いつもすみませんな、助かります」
「こちらもお世話になっていますから、気にしないでください」
実際、農作物が収穫できた折には、レストも幾分か貰っている。持ちつ持たれつ、何かあった場合には助け合い、譲り合うのがラシャ村の精神だ。
「最近のノアちゃんの様子はどうですかな?」
「比較的落ち着いてはいます。外に出るのは難しいですが」
「そうですか。風邪でも引けば大変ですからな」
「ええ、そうですね。疲労や病気などで体力を奪われれば病状が悪化する可能性が高いので基本的には家を出られませんから……」
「それで、その、確か治癒薬がガイゼンで売っているとか?」
ガイゼンはラシャ村から最も近い、それなりに栄えた街だ。それでも人口は三百程度で、徒歩で一週間程度かかる距離にある。
「いえ、水の国です」
「これは失礼。それはまた遠いですな。効果はあるので?」
「かなり高級ですし、完治できるわけではありませんが、容態はよくなると思います。交易商人のダルタニアンに頼めば手に入れてくれるとのことです」
「そうですかそうですか……少しお待ちを」
「え? ええ」
村長は何度も頷きながら自分の家に入ると、しばらくしてまた出てきた。手元には小さめの革袋が握られている。
「こちらをどうぞ」
「これは?」
「村人から集めたお金です。少ないですが、お受け取りください」
思わず受け取ると、ジャラっと音が鳴った。結構な枚数が入っているようだ。
レストは戸惑いながら、どうしていいかわからず複雑な表情のままに、口を開いた。
「ですが」
「いいのです。困った時はお互い様。この村はそうやって続いて来たのですから」
村長や村人達の計らいに、レストは素直に感謝した。ラシャ村に来て本当に良かった。こんなに優しい人達に囲まれて、生活ができるなんて幸福だ。彼等のおかげで、妻の死や、ノアの病気にも耐えられているのかもしれない。心が救われる。もし、これが家族だけであったら、レストは平静を保っていられなかっただろう。
感謝しても感謝しきれない。本当に自分は幸せな人間だ、とレストは率直に思った。
「ありがとうございます。大切に使わせて貰います」
「お気になさらず。大変でしょうが、何かあったら言ってくださいね」
村長は鷹揚に頷き、ニコニコと笑う。なんて人間の出来た人だろうか。レストは胸の内に広がる感動を噛みしめ、頭を下げた。お辞儀は、レストが生まれ育った場所であった風習だ。基本的に謝辞を述べる際に用いる作法である。
「引きとめてすみませんでしたね。仕事の続きがあるのでしょう?」
「はい……すみませんが、家に戻り解体をしなければなりませんので。後で、皆さんには挨拶をさせて頂こうと思います」
「ふふふ、相変わらず律儀な人だ。わかりました。あまり無理をしないでくださいね」
「お気遣いありがとうございます。それでは」
「はい、それでは」
再び、レストは頭を垂れて、家へと戻った。手に持った革袋の重みがズシッと手にかかる。大事に使わないといけない。
玄関を開け、中に入ると、手狭な部屋が広がっていた。一階建てで、入って左側に暖炉や居間、台所がある。狭く、余裕のある空間はあまりない。右手奥には小さな部屋があり、そこがノアの自室になっている。普段、レストは居間で寝ている。狩人であるため、床で寝ることも抵抗はないが、毛布だけは被るようにしている。以前、娘に怒られたからだ。
「ただいま」
荷物を降ろし、ノアの部屋に入った。
ベッドと本棚、衣類棚があるだけで他には何もない。それ以外に置く場所がないし、買うお金もない。
ノアはベッドの上で上半身を起こして、本を読んでいた。
元は銀色の美しい髪質だったのだが、結晶病のせいで、澄んだ空色に変わっている。色合いは美しいがその鮮やかな色彩は病状が悪化している証拠でもあった。毛先は特に青く、完全な純度になれば結晶化し、剥がれ落ちる。そしてやがて身体まで結晶化してしまう。それはただの前兆で、髪を切ろうが爪を切ろうが関係はない。むしろ、短くすることで根元が硬くなり不快感が増すくらいだ。病気が進行すればただの物になるのだ。治る見込みはない。それが結晶病だ。
「おかえりなさい、お父さん」
ノアは嬉しそうに笑い、レストを見上げた。まだ十にも満たないというのに、落ち着いた所作で年齢よりも大人に見える。しかし、子供ならばもっと元気に遊びたいだろう、とレストは思う。その大人しさが、病気によるものだと思えてならず、胸を締め付けた。
そんな思いをおくびにも出さず、レストは笑みを返した。
「ああ、ただいま。どうだ? 調子は」
「今日は、結構調子がいいよ」
「そうか、よかった。で、何を読んでいたんだ?」
「これ」
ノアが本の表紙を掲げてレストに見せた。表題は『エストアの四英雄』と書かれている。
「また、その話か」
「だって好きなんだもん」
レスト達が住む国は雪の国。大陸の名前はエストアという。
ノアが生まれる少し前まで、世界は魔王の脅威に怯えていた。魔法という不可思議な力を操り、魔獣を従えて人間を襲っていた。雪の国、火の国、水の国、光の国の四国は、魔王を討伐すべく同盟を組んで戦ったが、魔法の力と魔獣の強さに圧倒されていた。
ある時、各国一人ずつの若者が名乗りを上げた。魔王と同じような力を持っているという彼等は、四人力を合わせて魔王を討伐し世界を救った。端的に言えば、こういう話だ。そして事実でもある。
「そうか、そんなに四英雄が好きなのか」
「うん! だってね、困ってる人を助けたり、悪い人達をやっつけてくれるんでしょ? だったら、ノアの病気も治してくれるんじゃないかな」
四英雄の中には傷を癒やす力を持つ者のいたらしいが、ノアの病気を治せるとは思えない。それに世界に名だたる英雄が、一国民である自分達を助けるとは思えなかった。
「そう、かもしれないな」
「……あ、でも英雄さん達は忙しいよね」
ノアは何かを感じとったのか焦ったように、前言を撤回した。娘に気を遣わせてしまったと気づき、レストも慌てて表情を取り繕った。
「世界を救った人達だからな、きっと今もいろんな人たちを助けているだろうな」
「そっか、そうだよね」
薄く笑う娘を見て、レストの胸はチクリと痛む。思わず頭を撫でようとしたが、狩猟から帰って来たばかりなので、血生臭いと気づき、手を引っ込めた。一応は洗っているが、完全ににおいが消えることはない。
「ノア、平気だよ。お父さん」
まただ。この娘は、いつも親である自分を気遣い、大丈夫だと言い続ける。その心遣いが痛ましく、嬉しい。なんと言えばいいのかわからないため、不器用な父親は、そうか、と言って、頭を撫でてやることしかできなかった。
「お父さんの手、おっきくて好き」
「そうか、ならもっと撫でてやろう」
強めに撫でると、えへへ、とノアは笑う。
髪の感触は比較的柔らかく、まだ結晶化の兆しはない。毛先がやや硬直している気はするが、それだけだ。爪先もまだ大丈夫。以前、風邪になった時、少しだけ症状が進んだことがある。あの時は肝が冷えたが、今は安定している。このまま治るんじゃないか、そう思ってしまう。
撫で終えると、髪を整えてやった。本人は平気と言っていたが、やはりにおいは気になるだろう。安物だが、頭髪用の芳香洗剤も買ってある。あとで軽く頭を洗ってやろう。
レストはノアに時折、本を買ってやり、そして身なりを整えてやるようにしていた。粗雑な自分とは違い、娘には多少なりとも気を遣っている。昔、妻に『女の子が生まれたら気を遣ってあげてね』と言われたからである。ちなみに男の子の場合は、厳しく躾けろと言われた。
「仕事が途中だからまた外に出る。終わったら戻って食事にしよう」
「わかった、お仕事頑張ってね」
「ああ、頑張るぞ」
娘の頑張って、という言葉だけで何でもできる気がした。レストは気力を満たし、娘の部屋を出る。
もう少しでお金が貯まる。村の人達から貰ったお金も併せれば、すぐに目標金額に届くかもしれない。高級治癒薬が買える。そうすれば、少しはノアも元気になるはずだ。
「よし」
希望は小さく、儚い物だったが、それでも存在はしていた。その灯にレストは縋り続けていた。それ以外に選択肢がなかったからだ。
レストは猪の肉を携え家を出て、裏手にある解体小屋へ向かった。隣にはリオンがいつの間にか立っており、レストの足に頭をこすり付けていた。軽く撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。ノアの髪とは違い、ふわふわとしていた。
猪の解体を始める。これを終え、昼食を作ってノアと食べて、また狩猟に出かける。夕方に帰って獲物を解体し、夕食を作って食べ、その後、皮をなめしたり、肉を燻製にしたりする、という日々を繰り返している。休みはない。それでも苦はなかった。
本当にこれでいいのか、という疑問はいつも浮かんでいる。しかし、この生活以外に方法は浮かばなかった。レストは狩人としては優秀だが、器用ではない。人づきあいも得意ではないし、金を稼ぐ方法も浮かばない。上手く立ち回ることはできず、愚直に自分にできることをすることしかできない。
レストは無心で解体を続けた。その後ろでリオンは、レストの背中をじっと見つめていた。その瞳には、どこか憂いのような色が浮かんでいた。