街道中
「お、重いぃ」
背後から呻き声が聞こえた。少女とは思えないほどに、声音は低く、色気の欠片もない。少女はぐぐっ、と喉を鳴らしていたが、レストは涼しい顔をしている。
振り返ると、ルスカが小柄な体と同じくらいの大きさの鞄を背負い、苦しげに呻いていた。弓と、大型ナイフ、解体ナイフのおまけつき。レストの荷物をルスカが持っている、というだけだったが、実際、レストが携えていた装備や荷物の重量は、それなりにあった。盗賊達に奪われていた30000リラ、という大金も入っている。目算で、五、六年程度暮らせる額だ。平民からすれば途方もない額だったが、毎日、時間を惜しみ、魔獣や動物の狩りを続けていたからこそ貯まった。優秀な狩人であるレストでなければ貯蓄でるような額ではない。しかも彼は倹約家で、金をあまり使わない性格だ。それも相まって貯金ができたわけだ。
それらをすべてルスカに持たせている。重量は、大人が持ってもかなり重い。鍛えているレストでも、多少動きが遅くなるな、と思ったほどだ。それを運び、すでに数時間が経過している。
「はあ、はあ、こ、ここ、これは、さすがに」
ぜいはあ、と息を荒げ、汗だくになっているルスカ。最初は厚着していたのに、暑いからだろう、上着はすべて脱いで鞄に入れたようだった。
レストはこれ見よがしに落胆した顔をしながらルスカに話しかけた。
「なんだ? もう限界か?」
「は? い、いけるし、まだ、全然いけるし!」
「そうか、ならばそうしろ」
冷たく突き放し、リオンと共にゆったりと歩き始めた。正直に言えば、もっと早く移動したいところではあった。だが、ルスカの鍛練以外にも目的はある。徒歩では一週間でガイゼンに到着するが、それではやや期間が短い。道中でやるべきことがある。英雄を殺すための準備だ。
ガイゼンに着いてからでもいいのだろうが、街中でルスカの訓練をすれば目立つだろうし、人気のない道中で行う方が効率的だ。
レストはできるだけ人目につかないように、慎重さを期する。ほんの僅かの綻びから失敗に繋がることもある。狩りも同じだ。動物は鋭い。人間の気配を感じれば即座に逃げる。音や足跡、臭い。人間にはそれほどに鋭敏な感覚はないが、英雄は人間以上の力を持っているし、人間と同じ知能がある。
人の中で噂になったり、誰かが知っていれば、自然とレスト達のことは知られる。その可能性は今のところは、ほとんどないが、街中で目立てば誰かが覚えているかもしれない。そんな時、英雄の手の者が聞き取り調査を始めるようなことがあれば、身元がバレる。魔女の家は魔獣の住まう地にあるためノアに危害が及ばない、とは思うが、警戒されたり何か手を打たれれば、作戦に支障をきたす可能性はある。
期間は短いのだ。何を優先し、何を排除すべきか、考える必要がある。
「ね、ねぇ、これ、何なの?」
ルスカの両手には手製のザルが乗っている。その上には幾つかの植物の葉や茎、根が乗っていた。
「落とすなよ、姿勢も崩すな」
「だ、だからこれ何!?」
「今は気にするな」
「ぐぬ! じゃ、じゃあ、この姿勢! 何か意味あんの!? し、しんどい!」
両手を胸の前に出した状態のままルスカは移動している。しかもかなりの重量がある荷物を背負いながらだ。レストはルスカの姿を見て、昔見た、茶運びのからくり人形を思い出した。何とも滑稽に見えた経験があったが、ルスカの姿がそっくりだった。
レストは微塵も表情筋を動かさず、じっとルスカを見た。
「な、なによ」
似ている。とことこ、ギギギと軋む音を漏らしながら、茶を運んでいたあの姿に。
レストはじっとルスカを見続けた。
「だ、だから、何なのよ、み、見ないでよ」
顔を赤らめ初めた。それでもレストは視線を外さない。別に面白いわけではない。だが、なんだろうか、胸がむずむずする感じ。目の前の生き物を虐めたくなる感じは。
もちろん、レストに嗜虐趣味はないので、そういう意味ではない。なんというか、意地悪をしたくなるというか。時々、ノアにもそういうことをして怒られたものだ。本来のレストは、そういう一面もあった。今の、彼にはないが、ないはずだが、だが、どうしたことか、ルスカの姿を見ていると、何かの衝動に駆られそうになるではないか。
レストは表情を引き締めた。厳めしい顔つきなはずだったが、ルスカは余計に全身を赤く染め始める。
「だ、だから、なな、な、なんなのよ!?」
「いや、何でも」
やめておこう。ルスカを押して、後ろに倒したらどうなるかとか、頬を掴んでぐにぐにしようとか、そんな幼稚なことを考えることはやめよう。
盗賊達を討伐し、金を取り戻し、少しだけ猶予ができたことで、心がちょっとおかしくなっているに違いない。多分、落差という奴だ。疲れているのだ。昨日もあまり寝ていない。途中でルスカに見張りを頼んだが、不安だったからだ。
そうだ、疲れているのだ。だからこんな馬鹿なことを考えるのだ。
「姿勢は崩すなよ、微塵も動くな、乗っているものを動かすなよ」
「よ、要求が難しくなってんだけど!?」
「おまえならいける」
レストが、いける、なんて言うものだからルスカは思わず噴き出した。真面目な顔でそんなことを言うとは思わなかったらしい。レストらしくはないが、レストらしくもある。少しだけ、ルスカの言葉遣いが移ったようだったが、本人に自覚はなかった。
だが、レストは己のふざけた態度に気づき、頭を振った。やはり疲れているようだ。こんなことを言うつもりはなかったのに。
レストはルスカを無視して、先を進んだ。
「ちょっと、ま、待って、あ、落ち、落ちちゃう!」
「落としたらお仕置きだ」
「え? な、なんか、卑猥な響きに……じゃなくて! ま、待ってよ!」
ルスカはレストの後を必死で追った。しかし命令に背くわけにもいかず、植物を落とさないように、ふらふらしながら、やや速足でついて行った。
●○●○●○
朝起きて食事をし、朝の勉強、それから出立し、植物を持ちながら荷物を運ぶ。昼休憩で食事を終えると、剣と弓の稽古。その後、再び移動し、夕刻前に野営の準備。暗くなる前に食事の準備と再び稽古。夕餉を終えると、闇夜の中、勉強をする。それが一日の流れだった。
勉強と言っても、地面に枝で字を書いたり、レストが色々と話すような流れだった。ルスカはこの時間が好きなようで、よく質問をしていた。その姿がノアと重なることもあった。
剣と弓の稽古は比較的円滑に進んだ。ルスカは地頭がよく知識の吸収も早かった。運動神経が良いという言葉通り、教えること以上に剣技も弓術も成長する。
そして一週間が経過した。
昼、森の中。
レストとルスカ、リオンはじっと森の中で待機していた。物音さえ漏らさず、気配も感じさせない。森と一体化した面々の前に、兎が現れた。ルスカは流れるように小弓を構え、矢をつがえる。狙いを定めて矢を放つと、兎の胴体に吸い込まれた。痛みで悶えつつも、逃げようとその場から疾走する兎。
「に、逃げた!」
「追え」
ルスカとリオンは兎を追う。小さな体なのに俊敏で、追いつけない。必死で周囲を探していたルスカだったが、リオンの鳴き声に誘われて再び走る。向かうとリオンの前に兎が横たわっていた。死の目前なのか、痙攣している。次第に動かなくなり、脱力していた。
ルスカが放った矢が綺麗に刺さっている。胴体で、心臓部分ではないが、十分な成果と言えるだろう。
「あは、やったやった!」
ぴょんぴょんと跳ねてリオンに抱きつこうとしたが、リオンはすっと避けた。勢い余ってルスカは地面に倒れてしまい、鼻を強打する。
「いだい……ううっ、なんでなついてくれないの」
「ウォン」
まるで、私に触っていいのはご主人様だけなんだからね、近づかないでよ、とでも言いたげにリオンは蔑視をルスカに向けていた。この狼、レストとノア以外にはなつかないのだ。それを知ってはいるが、ルスカは諦めていない様子だった。
「いつか、その毛でもふもふするんだからね!」
「ウォン……?」
死ねば、と言いそうな顔をルスカに向けていた。ルスカはぐぬぬ、と呻きながらも、ふんっと鼻を鳴らして兎に視線を戻す。ややぎこちないが、比較的慣れた手さばきで兎の血抜きをして近場の川で皮を剥ぎ、内臓を取り除くと、野営場所に戻った。
ルスカから受け取った兎を確認したレストは、大きく頷いた。
「よくやった、一週間でこれほどできるとは思わなかった」
「え? えへへ、そ、そうかなぁ、やっぱ、あたしって才能ある?」
「私は五歳の時に鹿を狩っていたがな。しかも始めて一週間で」
色々とおかしいが事実である。
「そ、そうやって上げて落とすのやめてくんない? あなたと比較されたら誰でも負けるに決まってんじゃん。で、次は?」
「まずは食事だ。一人でやってみろ。その後は、剣の稽古だ」
「はいはい」
兎の肉を焼いて食べ終えた二人は、少しの休憩を挟み、稽古を始める。レストはただの木の棒。ルスカは大型ナイフを両手で握っている。ナイフは大柄のレストにはやや小さいが、小柄のルスカからすればかなり長い。ナイフではあるが、両手で握れるように柄は長め、重量もあるし刀身は厚く鋭い。鉈に近い形状で、レストが特注で造ったものだ。魔獣との戦いでは近接戦もあり得るため、片手で扱え、且つ強度の高いものを要求したら、このナイフが完成した、という。鍛冶屋はレストを狩人ではなく傭兵の類かと勘違いしたほどだった。蛇足だが、弓も同じような経緯で出来た。
そのナイフを握り、ルスカは緊張の面持ちでレストと対峙している。片や凶器、片やただの木の棒だというのに、立場は真逆。まともな武器も持たないレストの方が、ルスカを威圧している。
裂帛の気合いと共に、ルスカはレストへと疾走した。振り降ろされる一閃は、素人の動きとは思えない。すでに、新兵以上の力量を持ちつつあるルスカを前にレストは感嘆する。これほどの成長速度を持つ人間がいるとは、これは予想以上の拾い物かもしれない。
だが、まだ訓練を始めて一週間。剣術に関しては専門ではないにしても、レストも数々の修羅場をくぐっている。負ける要素は一つもない。
「やああ!」
気合いと共に突き出されたナイフを、すんなりとレストは避ける。十数を超える斬撃。そのすべてはルスカから放たれ、そのすべては回避している。木の棒を扱ってもいない。身のこなしだけで避けているのだ。
「こ、んのぉっ! 避けるな!」
「避けなければ、死ぬだろう」
「避けずに、死なないように、当たれぇ!」
無茶な要求を言う。しかも彼女はレストの奴隷なのだ。傍から見れば奴隷と主人だとは思われまい。それほどに、ルスカは遠慮がない。だが、そうでなくは意味がない。レストはルスカの剣閃を読み、華麗に避け続ける。
「視線で先を見るな、見るともなく全体を見ろ。剣筋が素直すぎる、おまえには力がない。速さで相手を翻弄しろ。動け、もっと早く。俊敏に。速度だ。動きが遅い。もっと無駄を削れ」
「わかって、るってのぉ!」
「相手の行動を読め、私はわかりやすく動いているぞ。ほら、こっちだ。右、左。遅い、素直に動くな。先読みしろ。足元が疎かだぞ。相手の武器だけを見るな。視界外も警戒しろ」
「む、無茶いわないでよ!」
文句を言いつつも必死で食らいつくルスカ。すでに限界が近いのか、呼吸が激しい。レストは隙だらけのルスカの頭を軽く叩く。乾いた音と共に、ルスカはナイフを落とした。
「い、っつぅ……」
「痛みに反応するな。軽く小突いただけだ。武器を落とすな。途端に劣勢に追い込まれるぞ。武器は己を守ってくれる唯一の相棒だ。決して離すな」
「うう、そんなこと言ったって……」
「泣くな、愚痴るな。死んでから文句を言っても遅い。おまえの決意はそんなものか?」
「わ、わかったよ! もう!」
才能はある。成長も早い。だが時間があるわけではない。彼女に英雄殺しの手伝いをしろと言うつもりはない。あくまでこの鍛練は自衛のためだ。せっかくの協力者なのに簡単に死んでもらっては困る。役に立たせるつもりで鍛えているのだ。
剣の稽古をしばらく続け、再び道中を進む。ルスカは慣れたもので、苦しそうにしながらも、文句を言わず荷物を運んだ。手にはもちろん、植物を抱えて。初日に比べて、青緑色から薄茶色に変わっている。
「なんか、色変わってんだけど」
「もうすぐだな」
ルスカは何がとはもう聞かなかった。どうせ答えないから、と思っているのだろう。隠しているつもりはないが、今話すと色々と言われそうだし、恐らく気を遣い始める。それが面倒なのだ。
毒薬の原料だ、なんて言ったら逃げるのではないだろうか。
しかも、大型の魔獣も大人しくさせるほどの麻痺薬と、食せば数秒で死に至る効能があると言えば、持ちたくないとか言い始めるに決まっている。いくら奴隷でも、彼女には自意識がある。口では否定しても、命令には従うだろうが、慎重になれば余計に疲労するし鍛練に集中できないだろう。
ということで完成するまで黙っている。大丈夫。口に含んだりしなければ問題ない。
「これ、もしかして料理に使う? おいしいの?」
この娘が、無断で舐めたりしなければ、だが。
「絶対に、食べるなよ」
「た、食べないよ」
本当だろうか。この娘、食い意地が張っているので心配だ。
レストは再び歩き始める。が、すぐに止まり振り返った。
「食べろって暗に言っているわけじゃないからな。食べるなよ、絶対。これは命令だ」
「わ、わかってるって!」
ジト目を送り、正面に向き直る。一人とは違い、誰かがいると気を遣う。優しくするという意味ではなく、単純に何かやらかさないか気を割かなければならないからだ。
レストは少しだけ後悔していた。今更、打ち捨てるわけにもいかない。さすがにそこまで非道にはなれない。無意味に人を殺したり、物を盗んだり、犯罪に手を染める気はレストにはないのだ。必要でなければ、危害を加えるつもりは毛頭ないのだから。
あと数日でガイゼンに着く。そこで、恐らくは鏡の英雄の話も聞けるだろう。そこが始まりだ。英雄を殺すのだ。その準備をしているだけにすぎない。
レストは娘に思いを馳せる。待っていてくれ、必ず治してやる。そうすればきっと、幸福な時間が待っているから。その時は、もしかしたら……。
いや、やめよう、考えるだけ無駄だ。
レストはリオンを撫で、先へと進んだ。背後で愚痴を漏らしているルスカを無視し、道を踏む。雪はしばらく降ってはいなかった。