鏡の英雄 後編
夜も耽り、物音が聞こえなくなった時、ガルフリアは起床した。鎧や剣は部屋に置いたままだ。肌着と着なれた下衣。空手のまま、外に出た。冷たい空気、薄く積もった雪。青白い光の中、彼は周囲に気を配りながら歩いた。
向かうは昼間の家族の家。
家を訪問した理由は、幾つかあるが、その一つとして、どこへ侵入すればいいのか知りたかったというものがある。ガルフリアは二階の奥側にある窓を見上げた。軽く跳躍し、二階窓に張り付くと窓を開けた。昼の内に鍵は開けてある。どうやら父親は開錠されていたことを見逃したらしい。
施錠していても簡単に壊せるが、証拠は残る。表立って動きたくないので、運が良かった。必要不可欠なことでもない。ただ、どちらがいいかという程度の問題だ。
中に入ると、目を開けたままの母親が、昼と変わらず正面を見据えている。耳も口も動かない。扉に目を向けたまま動かない。微動だにしない。生きているのか疑問を抱くほどに、物のように動かない。
ガルフリアは母親に近づいた。顔を真っ直ぐ見つめ、彼は母親の耳元に口を寄せて囁いた。
「おまえを殺す。おまえの夫と、息子はおまえのせいで不幸な目に合っている。この時間が続けば、あの二人を道連れにしてしまう。わかるな?」
顔を離すと、母親の顔を再び見た。無表情のままだった。だが母親の眉毛がほんの少しだけ動いた気がした。再びガルフリアは顔を寄せて囁いた。
「おまえが死ねば二人は前に進める。悲しむだろう、嘆くだろう。だが、少なくとも父親は今とは違い、おまえの死を恐れ、怯えることはなくなる。それでも父親が改心しなければ息子は村人か村長に預ける。今の状況ではそれが難しい。父親の心が壊れるだけだからだ。おまえが死ねば二人は不幸にならないかもしれない。だが、おまえが生きている限りは二人は不幸のままだ。わかるな?」
ガルフリアが顔を話す。母親の顔は僅かに歪んでいた。断続的に口が震えている。何か言おうとしているようにも見えた。あれだけ父親が懇願し、慟哭していた時には、何も反応しなかったのに。
ガルフリアは、最後に母親の耳元で囁いた。
「最後に言い残すことはあるか?」
母親は痙攣を繰り返した。震動はやがて激しくなっていく。指が動き、瞳が揺れ、口角が上下した。そして。
「た……すけ……」
言い切る前にガルフリアは指先だけで母親の首の頸動脈を絞めた。絶妙な力加減だった。棒切れのように細い首。少し力を入れるだけで、母親は呻きながら唾液を漏らし、泡を吐きながら白目を剥いた。数秒にも満たない時間。苦しみは短かったに違いない。
母親は死に絶え、目をひん剥いたまま動かなくなった。
ガルフリアは持ってきていた手拭いで母親の口元を拭いてやる。喉には絞め跡はなかった。手馴れていた。それはつまり、彼には同じような経験が幾度もあったということだった。手拭いを収めて、母親の身なりを整えてやる。常に開かれていた目を閉じさせる。昼間と同じ姿勢にした。
窓から飛び降りる。些事を終えた後のように、ガルフリアは宿の部屋へと戻った。
そして、彼はそのまま、何の感慨もなく就寝した。
●○●○●○
翌朝、村中に父親の叫び声が響いた。村人達が集合し、彼等の家の中に入ると、母親は命を引き取り、咽び泣く父親に抱かれていた。
母親の葬儀はつつがなく行われ、子供は村の女に保護され、怪我の治療と世話をすることになった。放心状態になった父親の傍に置いておくのは危険だと、村長は判断し、余裕のある家族が子供を引き取ることになった。
それがたった一日の出来事。母親が死んだことで、父と子の時が動き出した。それが二人にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか。それはガルフリアにとってはどうでもよかった。彼の考え、信念の下、行動したに過ぎない。結果どうなろうと、彼はこう思うのだ。騎士道精神に則ってとった行動だ。ならばどんな結果になろうと構わない、と。
村中が忙しない空気の中、夕方前になりガルフリアは旅立つことにした。本来、出立は早朝が基本。だが、旅をすることが日常のガルフリアにとっては大した問題ではなかった。彼にとって重要なのは、親子の結末、これからどうなるかの兆しを知りたかったということ。
「行ってしまうのですね、ガルフリア殿」
「ああ、悪いな、こんな時に」
「いえ……」
出迎えは村人だらけだったが、出発時は村長だけだった。悲しいとも寂しいとも思わない。むしろ、それだけ村人達があの家族のことを気にかけていたという証でもある。
ランスに跨ろうとした時、ガルフリアは村長の表情が気になった。訝しげで、何か聞きたそうにしている。
「何だ? 何か言いたいことでもあるのか?」
「い、いえ……その……」
「言えよ。次は会えないかもしれないぞ」
人はいつ死ぬかわからない。だからこそ、今度などという言葉を使うべきではない。何か欲求があるのならば、今行うべきだ。ガルフリアはそう考えている。
村長は、悩んでいた様子だったが、意を決して顔を上げる。
「も、もしかして……ですが、あなたが、その……彼女を殺したのでは、と」
「どうしてそう思う?」
「そ、それは、ガルフリア殿が訪れた日に亡くなりましたし……その、昼間の出来事もありますので……」
「なるほど。で? もし、そうだったら?」
「え?」
動揺も何もなく、淡泊に聞き返され村長は明らかに狼狽していた。
「俺を殺すか、糾弾するか? それとも、吹聴して噂を流すか? 真実がどうかは関係ねぇ。おまえはどうするつもりで聞いたんだ? どう考えている?」
「それは……儂は……多分」
「多分? なんだ」
村長は迷っていたが、視線を落とし引きつった笑みを浮かべる。
「多分、ほっとしております……村の大きな問題になっておりましたので……他の村人にも悪い影響が出ておりました。子供にも……」
ガルフリアは瞳を閉じ、村長の言葉を飲み込んだ。そして、一言、
「そうか」
と、残して踵を返した。
「あ、あの、どちらへ?」
「所用を思い出した。おまえは帰っていい」
「え、はい……」
ガルフリアはランスと共に、家族の家に向かった。玄関の鍵はかかっておらず、家に入ると昼間と同じように物が乱雑に散らばっている。ここには誰もいないようだ。子供は別の家に引き取られているから、父親は別の場所、か。
村から離れた高台。墓場となっている場所へ、ガルフリアは向かった。一つの墓の前で佇んで放心状態の男がいた。あの父親だ。彼はたった一日しか経っていないのに、昨日よりも痩せているように見えた。母親よりも病的に見える見目だった。
ガルフリアはランスから降りた。ランスは賢く、命令なくとも、勝手に移動したりはしない。自然に少しだけ離れて、主人の帰りを待った。
父親の隣に立つと、彼はこちらを見ずにぼそっと呟いた。
「綺麗な……死に顔だった……寝顔は、久しぶりに見ました……」
「そうか」
ガルフリアは相槌を打ち、口を閉ざした。何も言わない。その場所にはただ風が通るだけだった。もの悲しく、橙色に染まりかけの日差しが周囲を照らしている。
夕日がガルフリアの身体を染めた。赤に近く、血のようにも見える。
「妻は明るかった。優しかった。病気になる前は……ふふ、周りから羨ましがられたよ。なんであんな綺麗で性格のいい女性がおまえと結婚するんだってね。僕も、そう思っていた。ある日、聞いてみたんだ。どうして僕と結婚したんだって。そしたらさ、あいつ……一番、私がいないとダメな人だったから、って言ったんだ……は、はは、その通りだったんだよ。僕は彼女がいないとダメなんだ……好きで、愛して、どうしようもなく……必要な女性だった。だった、んだ……」
「そうか」
「死んだ。死んだ……あんなに、愛していたのに……死んでしまった。呆気なく、死んだ。――――――を愛していたのに、何もできなかった。無力だった、僕は……僕は! 何も!」
ガルフリアは無言で父親を見ていた。その瞳には何の感情もない。憐憫も同情も罪悪感も使命感も何も。
そしてしばらく沈黙が漂う。どれくらい経っただろうか、空が完全な赤に染まった時、父親はぼそりと呟いた。
「あんたが、殺したのか?」
その言葉には不思議と感情が込められてはいないように思えた。ガルフリアは表情を変えず、唇を僅かに動かし、言った。
「ああ」
今度は父親が、
「そうか」
と一言、呟いた。
それ以上は何もなかった。激昂するでもなく、彼は感情の一端を見せることもなかった。
ガルフリアは父親の小さな背中を前にして、口を開く。
「助けて、そう言っていたぜ。死の間際にな」
「……助けて……」
「ああ、そう言っていたな」
父親の顔はガルフリアの位置からでは見えない。だが、彼の背中は小刻みに震えていた。泣いているのか、と思ったがそうではなかった。
彼は笑っていたのだ。
「はははっはっははははは! はっは、た、助け、助けて、はっは! く、くくく、助けて、だって、くくくっ、はは! はー………………」
狂ったように哄笑し父親は立ち上がって天を仰いだ。大口を開けたまま沈黙し、ゆっくりと無表情になっていった。
「あれだけしてやって、あれだけ僕が苦労して、助けようとしたのに、それでもまだ、助かりたかったのか。は、はは……僕のことよりも、自分のこと、か。家族が苦労しても、不幸になっても彼女にとってはどうでもよかったのか、くくっ」
「……一番、私がいないとダメな人だったから、この言葉でわかんだろ」
「何が……?」
「こんな見下した言葉はそうはないぜ。彼女はおまえに尽くされたかっただけだろうが。おまえほど彼女を肯定する人間はいない。人間ってのは、誰かに肯定されたいんだ。気持ちが良いからな。自分の存在意義を感じられる。それに、おまえも彼女に尽くしたかっただけ。周りに自慢したかったか? 美人で性格のいい妻だったと。それが、真実かどうなのか、おまえは知っているだろうけどよ」
部屋と子供の状況。妻の部屋だけは綺麗だった。それは常に、彼がそういう心境で彼女に接していたということだ。妻が尽くしていたようで、実は夫が妻に尽くしていた。だからこそ彼女の部屋以外は汚かった。夫にとっては妻以外はどうでもよく、妻は自分のこと以外はどうでもよかった。平穏の中であれば、その欲望は隠れていたのだろうが、崩れた瞬間に根が折れた。子供だけは蚊帳の外だった。それがこの家族の本性だった。
「……は、はは、結局、僕達家族は、おかしかった、のか……彼女は、いつも、自分のことだけを考えていた……彼女は、そういう人だと知っていたはずなのに……」
「息子を物のように扱い、自分のことしか考えないおまえ達、夫婦は似た者同士だったってわけだ。正直、ほっとしてんだろ。自分で殺さなくて済んで」
父親は、はっとして、ガルフリアに振り返った。彼は泣き過ぎて目を赤くしている。例え、歪んでいても、利己的でも共に過ごした時間は確かにあったはずだ。情はあったのだろう。だがそれも永遠ではない。疲弊した人間の行きつく先は決まっている。
終焉だ。すべてを終わらせる、終わらせたい、そう思うだろう。
ガルフリアの言葉に、父親は気まずそうに顔を逸らした。
「それでも、僕は……」
続く言葉はなく、そのまま無言になった。
もう話はない。互いに。言うべきこともなくなっていた。
だが。
次の瞬間、ガルフリアは父親の肩を叩く。その拍子に父親が振り返った途端、顔面を殴打した。
「がっ!?」
顔だけではない、腹を背中を足を腕を身体中の至る所を殴り蹴る。幾つも痣を作り、鼻血を流しながら、男は腕で身体を庇った。
「な、にを……ぐっ、あぐっ、や、め、ぐあ!」
「十五、十六、十七、十八……終わりだ」
無感情のまま、目標回数に達した時、ガルフリアは手を止めた。
父親の身体には痣が幾つも出来ている。『父親が息子につけた痣と同じ数』だ。だが、ガルフリアが本気で殴れば痣ではすまない。彼は一打で死んでいただろう。
父親は怯えた様子でガルフリアを見上げていた。腕で顔を覆い、子供のように恐怖に震えていた。何をされるのかという恐怖が双眸に浮かんでいた。
「ガキは自分で大人を殴れない。俺が代行だ。てめぇは弱者を、しかも自分の子供を虐待した。本当なら殺すところだがよ、すでにおまえの妻を殺した。その分は負けてやる」
無残以外の言葉はない。彼には情がない。妻を殺したことを、計算の一つだと言っている。人でなしだった。人の心がない。しかし――彼以外には彼の行いはできない。もしもガルフリアが何もしなければ彼等はどうなっていたのか。
父親は、どうしていいかわからず、震えてガルフリアを見上げていた。
「もし、次に来た時、子供を虐待していたらお前を殺す。父親として真っ当になっていなければ殴る。泣いて喚くまでな。イヤなら使命と義務を果たせ」
「わ、わかった、だから、も、もう殴らないでくれ」
呆れたように嘆息したガルフリアは拳を引っ込める。そのまま、父親に背を向けてその場を立ち去った。彼にとって父親も母親もその子供もさして興味はない。
そう。
彼等の名前さえも、ガルフリアは覚えていない。必要がないからだ。
彼はやるべきことを終えたとばかりに、ランスと村を去った。なんという名前の村だったか、村人達の名前はなんだったか。そんなことを考えもせず、次の村へと向かった。
そうやって彼は日々を過ごす。そうやって騎士道を貫く。
そこに正義はなかった。