壊れた日常
痛みは感じない。激しい動悸の中、強まる熱と焦り。理性は蝕まれ、泣きだしそうになるだけだ。哀しみと憤り、そして理不尽に対する止まぬ疑問が脳裏を駆け巡る。
なぜ? どうして。わからない。なぜこうなってしまったのか。
両の手に抱える娘の身体は冷えており、病的に軽い。四肢は細く、力を込めれば折れてしまいそうだった。薄い白色の肌は、燦々と降り続く粉雪が解けてしまったかのようだった。頭髪は空色。自然に染まったわけではない。不自然に鮮やかで美しくも不可思議な見目だった。
肌の表面には幾つか打撲の跡がある。痛々しい。胸の奥が痛みと共に負の感情を促したが、ぐっと堪えた。
レストはノアを正面に抱え、山道を進んでいた。足は重く、全身が焼けるような痛みを伴っている。そこかしこに裂傷が走り、衣服はボロ布のようだった。雪が傷口に染みるが、そんなことはどうでもよかった。肉体的な苦しみなど、程度はあるが、鍛練と慣れでどうにか克服できるものだ。優秀な狩人であるレストにとって耐えることは苦ではない。
狩りは追うことより待つことの方が多い。足跡を付け、臭いを振りまき、風向きさえ考えないような狩人は二流だ。一流の狩人は、ひたすらに待つ。同じ場所で、時として罠を張り、待ち続ける。狩りの基本は相手に気取られないことだ。そうでなければ反撃をされることもある。命のやり取りをしているということを忘れてはならない。動物も生きるために必死なのだ。
そう、今も狩りの途中だ。ただし、狩られる側はレストとノアだった。
積雪しており一歩が重い。村の裏山はレストにとって庭のようなものだったが、奥深くに鎮座する森は別だった。魔女の住まう土地と呼ばれている場所。そこは魔獣の住処でもあった。普段は何人も足を踏み入れない。それはレストも同じだった。
レストは魔獣を狩ることもあるが、普段は害獣を中心とした狩りをしている。大型の魔獣は、種類にもよるが非常に凶暴で、狩るには相応の準備が必要だし、一人で狩るには危険が伴う。基本的に魔獣の類は、縄張りに入らない限りは襲ってこない。時として、住処を追われて、村に降りてくることもあるが、そういう場合以外では傍観することが常だ。
魔獣の気配は、今のところはしなかった。
外出の装いではなく、軽装のまま山へと追いやられたため、狩り道具はほとんどない。あるのは、腰に携えた使い込まれたナイフだけ。これは動物の解体やトドメに使っているものだ。武器として扱うには頼りない。
レストは娘を見下ろした。熱を持っているのか頬が僅かに赤い。瞼を閉じ、眉を寄せている。苦しいのだろうか。上着を着せてはいるが、外套の類はなく、やはり寒さを感じるのだろう。吐く息は白く、表情や身震いしている所作も相まって憐憫を誘う。
「……ノア、ノア」
レストは縋るように呟いた。降雪は次第に強くなっており、吹雪に近い様相を呈してる。暴風になりかけの、自然の暴君は父と娘の存在をこの地から喪失させているようだった。周囲を警戒していたレストの声音は小さい。娘には届かず、反応はなかったが、レストは諦めず何度も呼びかける。
「ノア、ノア」
声には嗚咽が混じっている。青年、というよりはやや歳をとっている男。一般的に大人と呼ばれ、見た目は鍛え上げられている容姿であった。その大人が情けなく、娘の名を呼ぶことしかできない。反応はなくとも、ほんの少しでも生きているということを実感したかったのだろう。結局、鈴の音のような娘の愛らしい声音は聞こえず、レストは少しの時間、途方に暮れる。そして無意識の内に娘の顔を撫でて、僅かな体温を感じて安堵する。呼びかけ、歩き、呼びかける、その繰り返しだ。
「ぐっ」
傷口から血が溢れているためか、身体が重い。足を踏み出すごとに忠実な奴隷が悲鳴を上げている。この奴隷は肝心な時に働かない。痛みも苦しみも辛さも関係ない。普段、幸福を享受し、安穏とした生活を営んでいたのだ。一時の瞬きだったとしても、それは現実『だった』のだから。今になって甘えは許さない。死ぬその時まで、いや、死んでも、死ぬような目にあっても、決して死んではいけない。娘を助けるまで。娘を幸せにするまで。死んでなどいられない。自らが死ぬ時は娘を助ける時だけ。まだ、その時ではない。
レストは歯を食いしばり、山道を登る。目的などない。ただただ逃げるだけ。このまま誰の目にも触れぬ場所へ行き、そして――そして、どうするのだ?
「どうして」
疑問が口をついた。今までは耐え忍んだ。それは娘のことを思えばこそだった。何があっても大丈夫だと自分や娘に言い聞かせていた。しかし、それはまやかしだったのだ。ただのおためごかしだった。だが、そうしなければ頭がおかしくなりそうだった。
「どうして、なんだ?」
誰に言うでもなく、白銀の世界に包まれている中、レストは天を仰いだ。あるのは曇天だけだった。その光景に、レストの心は更に掻き乱れる。
「なぜ! なぜだ! なぜ……どうして、私達、親子だけがこんな目に……。私が、娘が何をした! ただ、普通に暮らしたかっただけだ。貧しくても、苦しくても、ただ生きたかっただけだ。真っ当に生きていた。それなのに! どうして!」
レストの叫びは轟風に掻き消される。声は震え、明瞭さに欠けた。それでもレストは叫んだ。追手に聞かれてしまうかもしれないという考えは浮かばなかった。さすがにここまでは来まい。奴らも、命を捨ててまでレスト達に執着することはないだろう。
もうすでに限界を超えていたのだ。耐えに耐えた生活、不安と辛苦を無視して、何とか生きてきた。仮初めの希望に縋り、生きる希望を持ち続けていたのだ。
それが今日、途絶えた。
息を荒げ、叫び続け、そして緩慢に視線を下ろす。娘が苦しんでいる。こんなことをしている暇はないのに、わかっているのに、レストはその場に膝を曲げた。摩耗した心は、すでに折れかけている。彼を支えているのは一点、娘への想いだけだった。
レストは数秒間だけの休憩を挟み、再び歩き始める。父は、娘を守ることだけを考えて、すべてを乗り越えようとしていた。だが、その先にあるものは。
ふと、ノアを見た。
「そんな……駄目だ、駄目だ!」
ノアの髪の毛先、爪先が結晶化を始めている。徐々にではあるが、その範囲は広がり、根元へと侵食していくのだ。まだ、肉体には届かない。だが、いずれこのままでは娘の身体は結晶となり、命を費やす。
結晶病。世界に広がる奇病だ。非常に稀な病で、罹患率は数十万人から百万に一人と言われている。特異な病気のため、具体的な治療方法はない。あるのは、特別な治癒薬で症状を緩和する対症療法だけだ。それも非常に高価で、レストのような一般的な国民に容易く購入できるようなものではない。それが真実かどうかは……。
結晶部分は少しずつ、娘を侵食している。娘の身体を蝕む悪魔に、レストは憤りよりも、懇願した。長らく共に過ごした病に対して、レストは怒りを覚えることを忘れた。
「やめてくれ、もう、娘を、許してやってくれ」
神がいるならばと、祈りを続けた日々もあった。だが、当然ながら奇跡など起こらない。考えうる方法をすべて試した。それでも何の成果も得られなかった。
帰る場所もなく、行く場所もない。親子は世界から孤立した。
慟哭の中、咽び泣くレストは不自然な音を聞いた。染みついた狩人の習性から、常に周囲を警戒してしまう。それが功を奏したのか、それとも不運だったのか。吹雪の中でも、違和に気づいたのはある意味、奇跡だったのかもしれない。
レストが振り返ると、そこには魔獣がいた。大型の魔獣。大木を思わせる体躯と、口腔から覗く鋭利な牙。爪も同様に鋭く、獰猛さが窺える双眸は血走っている。全身を固い毛で覆われており、手元のナイフでは太刀打ちできそうにない。レストもそれなりの身長だが、魔獣はそれを優に超えている。まるで熊のようだ。
魔獣は恐ろしい形相でレストを睨み、そして舌なめずりをした。
空腹らしい。恐怖はなく、あるのは現実を認識するただの思考だけ。壊れかけた心に残った、娘の愛情だけがレストの意思を動かした。
ノアだけは助けなくては。
もうほとんど動けない。痛みは無視できても、意思だけでどうにかできる範囲は決まっている。腱が切れれば身体は動かない。足の骨が折れれば立ち上がれない。血を失い過ぎれば肉体は石と化す。軟弱な肉体は命令を無視しつつあった。
レストは娘を横たわらせた。娘を庇うように魔獣に対峙する。背後に、娘を背負うように立ち位置をゆっくりと変えた。逃げるつもりはない。逃げられるとは思わない。
せめてもの抵抗だった。奴が空腹ならば、とれる手段は一つ。
「私を……食らえ」
幸いにも自分の身体は一般的に見てもそれなりに大きい。鍛えてもいるので肉質も悪くないだろう。多少は筋張っているだろうが、それくらいは獣にはわかるまい。胃袋に収まれば十分に満たされるはずだ。娘は助かる。恐らくは。
だが、自分が死んだ後、娘はどうなるのか。仮に魔獣から逃れられても、雪の降る、気温の低い山の中で意識を失っていれば、きっといずれ死に至る。だが、他に方法はない。
結局、一人の人間の、死を覚悟した決意など大したことはないのだ。こんな魔獣一体を前にして、すべて瓦解するようなもの。無力なのだ。
娘だけは生き長らえて欲しいが、満身創痍の自分にできることはこれくらいしかない、とレストは即座に覚悟を決め、諦めた。
その瞬間、何度目かわからぬ、感情が込み上がる。怒りと無気力と悲しみと、何度も感情が変わり、再び消散し、また生まれる。レストは平静さを失っていた。
「殺せ! 私を殺せ!」
言葉とは裏腹に憤りを集約させた。感情的に叫び、喉が裂けるまで、声が枯れるほどに叫ぶ。それはレストの、人間への、不条理への、すべてへの怒りだった。あまりに理不尽で一方的だった。
どうすればよかったのか、これ以上にすべきことはあったのか。選択肢はもしかしたら、もっと多くあったのか。己の進んだ道が間違っていたのか。それとも、何をしても同じ未来が待っていたのか。
もう、何も縋るものはない。いやそうではない。最初からそうだったのだ。一時の逃げ場として、様々なものに依存した。それも限界だと知りながら、それでも見ぬ振りをし、生きてきた。
ああ、そうか、もう壊れていたのだ。すべては最初から破綻していたのだ。
レストは肩口に振り返る。今も、まだ薄い胸を上下させている娘を見る。愛しく憐れな娘。様々な感情が胸に去来し、振り切った。
そして。
正面に向き直ると、無数の牙が視界を覆っていた。