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学院運営側の建物は俗に『ブルーム館』と呼ばれている。
講堂や教室がある建物は『ワンド館』、生徒たちの宿舎は『ハッター館』でそれぞれに風呂やラウンジ、娯楽室、大ホールが設置されている。
唯一食堂だけが、職員・学生兼用でブルーム館に設置されていた。
二十時を過ぎたブルーム館の廊下は人気が無く、ガーランドを巻く事だけを考えて走っていたロゼは奇跡的に食堂に辿り着いた自分を褒めた。
彼から逃げるように、逃げるように見付けた階段を片っ端から下った結果だ。
館の一番南側、他の館の生徒達も利用しやすいよう、他の二つの館と渡り廊下で繋がっているそこは、高いアーチ状の天井が特徴的だった。
沢山のテーブルとベンチが並び、奥にはカウンターが設置されているのが厨房から漂う湯気の向こうに見て取れた。
美味しそうな香りに思わず腹が鳴る。いそいそとただっぴろい食堂を行きながら、ロゼは人が居ない食堂を興味深そうに眺め渡した。
もう食事の時間は終わってしまったのだろうか? だとしたら夕食をくいっぱぐれる事になる。
(でもすごく美味しそうな良い匂いがしてるし……)
カウンターに並ぶ皿の前までたどり着いたロゼは、四つほど並んだ大皿の上に、申し訳程度の料理しか載っていないのにがっかりした。
ジャガイモとチーズのサラダ、トリの煮込み、魚のフライのホワイトソース掛け、そしてイチジクのパイ。
手近にあった皿を取って、ロゼはメインと思しきトリの煮込みを取り分けようとして「へぇ、珍しい」という声に顔を上げた。
背の高いコック帽をかぶった、がっしりした身体つきの男性が興味津々という様子で厨房から身を乗り出している。
「食堂で食事しようだなんって、アンタ変わってるわね」
目尻が垂れ気味の紫の瞳が、楽しそうに煌めいている。
カウンターに頬杖を付いている男性の口調に、ロゼは目を丸くした。
「あなたの話し方の方がよっぽど変わってるわ」
目を丸くして指摘され、男性は数度瞬きするとにやりと笑って見せた。
「それは話し方が女っぽいってこと?」
「食堂は食事をする所で、そこで食事をするのは至極真っ当よ。でも見た目が男性なのに話し言葉が女っぽい。それのほうが違和感がない?」
「一般的にはね。でもここは一般的じゃなーいの」
頬杖を付いていない方の手を上げてひらりと振る。
「だぁ~れも居ないでしょ?」
垂れ眼の上に目蓋が覆いかぶさり、更に眠そうな目をする男性。再び食堂の様子を見渡してから、ロゼは数少ない料理の乗った皿に視線を落とした。
「料理に問題があるのでは? 古今東西、飯屋に閑古鳥が鳴くのは味に問題があると決まってます」
「ちょっと、失礼な小娘ねッ!」
身を起こした男性が、傍にあったフォークにトリの煮込みを突きさすと、ずいっとロゼの顔の前に突き出した。
「この、元宮廷料理人で高級レストランのシェフも務めた私、ロマン・ブロードを捕まえて料理が不味いなんてよく言うわ! ほら、お食べ! この! 絶品チキンの赤ワイン煮込みをッ!」
口に押し込まれたお肉は柔らかく、香味野菜と鶏肉のうまみがぎゅっと詰まった赤ワインのソースと絡んで口いっぱいに香りと美味しさが広がる。
「ふぁしふぁにぜっふぃんでふ(確かに絶品です)」
もぐもぐしながら敬意を表すると、シェフ・ロマンが両手を胸の前に合わせて嬉しそうに身をくねらせた。
「そうでしょそうでしょ、当ったり前でしょ」
だがその歓喜も一瞬で、彼は疲れたように溜息を吐き再びカウンターに突っ伏した。
「でもね、最近じゃこういう料理は流行んないんですって」
紫の瞳が淡く陰る。
「なんで!?」
「あんた……それ、皿に取る意味ないでしょ。全部盛ってるわよ」
空腹と絶妙な味から、カウンターに残っていた料理のほとんど全てをワンプレートに乗せていたロゼは、焼き目の美しいパイとチーズの良い香りがするポテトサラダをじっくりと眺めた。涎が出てくる。
「こんなに美味しい物を上回る料理があるの?」
ロマンがゆるゆると首を振った。
「違うのよ、お嬢ちゃん」
後ろの厨房を振り返り、彼は綺麗に洗われた食器や鍋、最新鋭のオーブンやストーブをおざなりに指示した。
「私はこの器具を使って、厳選された食材を調理するの。でもね」
「非効率的で時間ばかりが掛かる」
ぎくん、とロゼの背筋が強張った。
色味の薄い瞳にぎらぎらした剣呑な光を湛えたガーランドが、大股でこちらに近づいて来る。
本能的に生命の危機を感じたロゼが、料理の山盛り乗った皿を抱えて慌ててカウンターの向こうに駆け込んだ。
端正な顔立ちに怒りを張り付けた学院一の男前の登場に、ロマンの頬がうっすらと染まった。
「ミスター・ガーランド」
「どうも」
狼狽える大柄なシェフの背中に隠れるロゼから目を離す事無く、ガーランドが唸るような声を上げた。
「一人で勝手に学院内をうろつくな、ニセ魔女」
相変わらずの高慢な口調。
「可愛らしいミス・ナントカとの痴話喧嘩は収まりまして? エセ紳士殿」
慇懃無礼なロゼの応酬。
ロマンを挟んでブリザードの応酬をする二人を、彼は交互に見遣った。
ちゃっかり手にしたフォークで料理を口に運んでいるロゼに、ロマンの唇が綻んだ。
「あなた、ニセ魔女なの?」
「違います」
赤ワインソースがほっぺたに付いている。ガーランドを睨み付けながら食事をとるロゼにロマンは胸の内がぽっと温かくなるのを覚えた。
「彼女をこちらに寄越してください、シェフ」
そんな優しい感情を、ガーランドの冷ややかな声が打ち破った。
自らカウンターのこちら側に回り込もうとする学院一イケメンで学院一優秀な男。
その男をまさか自分が拒む羽目になろうとは。
苦笑しながら、ロマンは跳ね上げ戸を潜ろうとするガーランドの前に立ちふさがった。
「生憎、彼女は久々の私のお客様なのよ」
静かに告げるシェフをガーランドが唖然として見上げた。
「私の料理を美味しいと言って食べてる人間を邪魔する事は許さない」
それから手近にあった片手鍋を取り上げ、ずいっとガーランドの前に突き出した。
「食事会に参加したいなら、このスープでも召し上がって」
コンソメの海を魚介類が泳いでいる。
「…………鍋ごと?」
「あら、私としたことが」
ぽん、と両手を打ち鳴らし「いらっしゃいな」と彼はロゼとガーランドを厨房奥にある調理用の台へと案内した。丸椅子を用意し二人に掛けるように身振りで示す。
並んで座った二人の前に、ロマンが手際よく作っていた料理を並べて行った。
それは先程のカウンターに並んでいたものの倍以上の品数だ。
「これ……毎日作ってるの?」
「そうよ。朝昼晩、とね」
子羊のロースト、野菜のパイ、カボチャと栗のポタージュ、魚介のスープに舌平目のソテー……。
「全部食べていいの?」
欠食児童のように目を輝かせるロゼとは対照的に、ガーランドは奇妙な物でも見るようにそれらを見詰めている。
「ミスター・ガーランドのお口には合わないようね」
パイにかじりつき目を細めるロゼを横目に、ロマンが苦々しく告げる。
それに彼は我に返った。
「いや……そうじゃないんだが……」
眉間に皺を寄せたままフォークを取り上げる。良く煮込まれたスープのタラにフォークを突きさし一口食べる。途端、彼の顔が曇った。
「不味い」
吐き捨てられたその言葉に、さっとロマンの顔が青ざめる。
「何バカ言ってるのよ!」
不愉快そうな眼差しでガーランドが見詰める皿を奪い取り、ロゼがぱくりと口に運ぶ。
ニンニクとスパイスが良く利いて、エビと貝のうまみが滲み出ている。白身のタラにもしっかりと味がしみ込み、口の中で身がほろりと解けた。
「うまーい」
はうー、と嬉しそうにほっぺが下がるロゼの様子に、ガーランドが一層怪訝そうな顔になった。
「これが美味い? 何の味もしないのにか?」
「馬鹿じゃないの? こんなに素材の味が沢山するのに」
もぐもぐと忙しく口を動かすロゼの隣で、ガーランドの眉間の皺が一層深くなる。
子羊のローストを切り分けて口に運ぶ。
無味。
かぼちゃと栗のポタージュを掬って口に入れる。
これも無味。
「どれも美味しいのに、誰も食べに来ないなんて」
もぐもぐもぐもぐ。
「ここの人達、どうかしてるわ」
ごっくん。
バターの香りがふんわりと口いっぱいに広がる舌平目のソテーを懸命に押し込みながら目を細めるロゼを、ガーランドが信じられないと言った面持ちで見た。
そんなロゼを嬉しそうに見詰めるロマンにも視線を遣る。
もう一度、彼女と同じソテーを切り分け口に運ぶ。
やはり……無味。
味が、無い。
その瞬間、ロスの身体に寒気が走った。吐き気を堪えるように右手を口に当てる。
薄い水色の瞳が驚愕に見開かれ、額に汗がにじむ。
「ガーランド?」
テーブルの上でぎゅっと握りしめられ、白くなった彼の手に気付いたロゼが不思議そうに彼を見上げる。
「具合でも悪いの?」
「……なんてこった」
「え?」
絞り出すような、呻くような声で彼は続けた。
「俺をこんな目に遭わせておいて……ただで済むと思うなよ」