白銀の精霊
激しい揺れに巻き上げられた水しぶきと雨が混ざり、ワルキュリア号の甲板を濡らしている。
気がついたとき、リサは貪るように空気を吸っていた。
「……」
身体を折り曲げて咳き込むことしばし、だいぶ呼吸が落ち着いてきた。
何の痛みも感じない。ブルーサーペントの舌が自分の身体から離れている。
まだ少し喘ぎつつ顔を上げると、目の前に女剣士が立っている。リサが気を失いかけている間に、女剣士が両方の首から伸びたそれぞれの舌を両断したのだ。
面積の小さな白銀の鎧から、みずみずしい素肌を惜しげもなく晒している。
こちらに背を向けたその立ち姿はまるで――
「ワルキュリア様……?」
この船の名前にもなっている伝説の戦乙女。天界に住む少女の姿をした精霊だ。伝説には、伝わる地方によって細かな差異がある。その中には、戦場から選ばれた勇士をもてなすだけでなく、精霊みずから戦いに赴く話も存在する。だが、目の前に立つ少女の肢体は細くしなやかだ。リサの目からしても戦士向きとは思えなかった。
前後を挟む蛇が鎌首をもたげ、威嚇する。
その一瞬で復活した舌が、女剣士を絡め取るべく伸びてきた。
女剣士は事も無げに最小限の動きで剣を振る。後ろにも目があるかのように、流れる動きで前後の舌に斬撃を加えた。二枚の舌は切断され、甲板に落ちて転がっていく。
「ワルキュリアだって? そんな大層なものじゃない。私はスーチェ。ただの人間さ」
ブルーサーペントと対峙していてなお、全くの自然体。リサは、スーチェと名乗る少女の剛胆さに、ただただ感服してしまった。
一人だけ生き残っていた魔法戦士を標的に、片方の蛇が溶解液を吐き出した。
そちらを振り向いた途端、スーチェの鎧が白銀に輝いた。彼女が床を蹴ったと見るや、濡れた甲板の上を、まるで乾いた地面を走るかのように軽やかに移動してみせる。流れる動作で魔法戦士を突き飛ばした。
直後、彼の代わりにスーチェが溶解液を浴びてしまった。
「スーチェ様!」
彼女はリサの叫び声に応えるようにして、しかしこちらを振り向くことなく親指を立てる。その身体には全く外傷がないように見受けられた。
「大丈夫、特別な鎧と特別なアイテムで身を守っているんだ。物理攻撃は防げないと言う話だが、溶解液は平気だ。考えてみればこのバケモノ、そんな物騒な液体を体の中に持っていても自分自身の体を溶かす心配がないのは、溶解液の正体が魔法だからなのかも知れないな」
スーチェはワルキュリア号の甲板に降り立つ前、魔法戦士が溶かされてしまう場面を目撃しているのだ。それにも関わらずその身を盾にして、リサと魔法戦士を庇って見せたのである。
「魔法戦士さん。このバケモノの舌、私の剣で斬れた。体の外側は頑丈だけど内側は弱いに違いない。口をこじ開けておいてくれ。私が斬り込む」
「承知した、ワルキュリア殿。さきほどの件、感謝する」
単に命を救われただけでなく、突き飛ばされたことによって気合いが入った。魔法戦士はそれを感謝して礼を述べた。彼はスーチェの名乗りを背中で聞き、彼女が人間であることを承知の上で敬称がわりにワルキュリアと呼んだのである。
「違うというのに」
スーチェは苦笑ぎみに微笑んで見せながら剣を構えた。
そこへ異質な気配が近付く。
その場の誰よりも早く気配に気付いたのはリサだ。彼女は背後に迫る気配に振り向いた。そこにいたのはモノケロス。一角獣は角に光を宿し、スーチェらと対峙していない側のブルーサーペントの首と睨み合っていた。
思わず息を吸い込み、仲間たちに警告する。
「スーチェ様、魔法戦士様! モノケロスが——」
「安心しろ、それはチャーリー、私たちの仲間だ」
振り向くことさえせず、スーチェが言葉を被せた。
チャーリーは勇壮に嘶くと、自慢の角をブルーサーペントの首に突き刺す。さきほどまで魔法戦士たちの攻撃をことごとく跳ね返し続けてきた敵の硬い鱗を、チャーリーはやすやすと貫いて見せた。
「見ていたぞ。セレナ族の血と肉を求め、同じ胴体の首同士で奪い合うとは浅ましい。しかも、他方の首に渡すくらいなら獲物を溶かそうとするとはな」
チャーリーの声は静かだが、激烈な怒りに燃えていた。
「貴様のように強欲で性根の腐った魔物に、セレナ族の美しい女を食う資格はない。今すぐに引導を渡してやる」
リサはモノケロスが言葉を発したことにも驚いたが、それよりも言葉の内容に驚いた。このモノケロス、自分のために怒ってくれているのだ。
閃光が全員の目を射る。強烈な白光が、束の間甲板上を白一色に塗り潰した。
敵に角を突き刺したまま、チャーリーが雷撃を放ったのだ。強烈な雷撃に、スーチェらと対峙している側の蛇の首も苦しげに仰け反った。
チャーリーが角を引き抜くと、生気を失った敵の首が甲板にくずおれる。
それを好機とばかりに、魔法戦士は残った首の口をめがけて縦にした杖をねじ込んだ。
「破魔の杖! 傲慢なる悪鬼を縫い止める楔となれ」
どうやら杖はマジックアイテムだったらしい。敵の口の中で上下に伸びた杖は、上顎と下顎を大きく引き離した状態で固定した。
「ワルキュリア殿! 私の魔力ではせいぜい十秒しか保ちませぬ」
「充分だ」
訂正するのが面倒になったのか、彼の呼びかけを否定することなくスーチェが飛び込んだ。まるで躊躇なく、敵の口の中へ。
脳天をめがけ、剣を力の限り突き上げる。
途中、溶解液を吹き付けられるものの全く頓着しない。
突くこと数回。スーチェの剣がブルーサーペントの頭部を貫き、切っ先が敵の脳天から突き出した。
「よし!」
剣を引き抜いて口の外に飛び出すと、力を失った敵の首が甲板の上にぐったりと落ちた。
風が止んで波も凪いだ湖上には、音もなく小雨が降り注ぐ。
動かなくなった敵に背を向けて、チャーリーはスーチェに話しかけた。
「カール様が湖に飛び込んだままだ。様子を見に行く」
うなずくスーチェを甲板に残し、チャーリーは湖へと飛び込んだ。
「湖の中? それなら、あたしが行きますよ」
「私は結界を張ることができる。水中でも不自由なく行動できる」
リサの申し出に対して無愛想に応じると、チャーリーは湖へ飛び込んだ。実はグレッグも湖に落ちたままなのだが、それを知らないリサは引き下がってしまうのだった。
飛び込む水音が聞こえた直後、唐突に歌声が聞こえてきた。女性の美しい声だ。
「あら?」
誰がどこで歌っているのか。しかし、これだけ美しい歌声の主に、害意があるとは思えない。
歌声の主を探そうとしたリサは、いきなり背後から羽交い締めにされた。リサを捕まえたのは生き残った魔法戦士である。
「魔法戦士様? どうして」
彼は虚ろな目をしたまま答えない。
「へえ。どんな強そうな連中が乗った船かと思えば。ガキ女が二匹と雑魚が一匹か。何かの偶然で勝っちまったパターンかね。あたしの欲しい人材とはほど遠いわ。こりゃ、伝説のブルーサーペントも焼きが回ったかねぇ」
女性の声が正面から聞こえた。歌声の主であろう。しかし、その口調は酷いものだった。
驚いたリサが正面を見ると、声の主はそこにいた。
スーチェがとどめを刺したブルーサーペントの頭を踏むようにして立っている。年の頃は二十代半ば。長い銀髪を持ち、朱色の目をしている。少しえらが張っているが、まあ美人の範疇に入るだろう。強い眼光でリサを睨み付けている。
両脚を包むのは脚線にぴったりと張り付く赤い布。上半身には貴族のドレスを模したやわらかそうな赤い布を纏っている。スカート丈は膝のかなり上で、スリットまで入っているという扇情的な格好だ。
「死ぬ前に名前くらいは教えといてやるよ。あたしはバネッサ。『水の民』ロレイン族を支配している。しかし許せないねえ。あんたらセレナ族だって『水の民』のくせに人間なんかに味方して」
「どうして? なぜ人間と仲良くしてはいけないのですか。こちらが望めば、手を取り合って生きてくれる人間だってたくさんいます」
魔法戦士に捕らえられたまま、リサは悲しげな声でバネッサに訴えた。
「笑わせるんじゃないよ。人間なんて食いもの。そしてあたしは食う側だ。食糧は食糧らしく家畜の立場に甘んじていればいいのさ。家畜の分際でブルーサーペントを一度でも殺すだなんて。あたしは絶対に許さないよ」
バネッサの声はやたらに美しかったが、それは底冷えのする残酷さを孕んでいた。
「聞いたことはないかい、セレナ族の女。あたしらロレイン族の歌には、人間を操る力があるのさ」
口を歪めて笑う。するとバネッサは実に醜怪な表情となった。
「ほら、そっちの人間もその水の民の正面に行きな」
その命令に操られるようにして、スーチェがリサの正面に歩み寄ってくる。彼女もまた、背後の魔法戦士と同様に虚ろな目をしていた。
「あははは。オトモダチだと信じている人間の手にかかって死ぬっていうのも面白いねえ。人間! その『水の民』の首を絞めてやりな」
「あなた、ハーフですよね。半分は人間の血が混じっているんじゃないですか?」
リサの言葉を聞くや、バネッサの眉が吊り上がり、瞳には暗い炎が燃え上がった。
「待ちな、人間。その女と少し話す気になった」
スーチェが動きを止める。
「あたしは人間であることを捨てた。全ての頂点に立つべき力を手に入れるとともに。褒めてやるよ、セレナ族の女。あたしがハーフであることを一目で見抜くその力はなかなかのものだ。魔族の力は戦闘能力に限ったものではないからね。あたしらロレイン族と一緒に世界の頂点に立たないかい」
「頂点?」
「最低でも四人、どうしても殺したい奴がいるんだ。スカランジア帝国のドレン卿という男。他にも、アーカンドル王国のキースというガキも。セイクリッドファイブは全部で五人いるんだが、あたし以外はみんな邪魔なんだよ」
リサは首を横に振った。
「どうしてそんなに憎むのですか。どんなに力があっても、一人は寂しいです。自分とは違う相手がいて、その相手と手を取り合うことができればとても温かい気持ちになれます」
「はあぁぁぁ。とんだ苦労知らずのお花畑ちゃんだねぇ」
バネッサはまるで頭痛にでも見舞われたかのように頭に手を当て、盛大に溜息を吐いた。目元を冷たく歪めて低い声で吐き捨てる。
「もういいや、めんどくさい。死にな」
その声を合図に、それまでじっとしていたスーチェが近づいてくる。
「い……いやっ」
逃げようにも、リサの力では自分を羽交い締めにしている人間一人の力に抗うこともままならない。
「スーチェ様、魔法戦士様! お願いです、目を覚まして――」
「無駄無駄! ロレイン族の声に逆らえる人間などいるものか」
「ああ……」
絶望的な声を出したリサに、スーチェが目配せをして見せた。
「許せ。……やあっ!」
スーチェは剣を抜くと、平らな部分で殴りつけた。
側頭部を叩かれたのは魔法戦士だ。
彼が腕の力を弱めるや、リサは両手を真上に挙げて腰を落とす。すると、彼女の細い腕はするりと拘束を抜け、自由になった。
「ごめん、しばらく寝ててくれ」
スーチェは剣の腹で魔法戦士の顔を殴りつける。彼は派手に真後ろに倒れ、甲板で後頭部を打つと気絶してしまった。かなり乱暴ではあるが、味方に背中を刺されたくはない。
「貴様、術がかかっていないのか。なぜだっ」
怒りのあまりドスの利いた声でバネッサが怒鳴った。
「お前の歌声が催眠術の一種だったというわけか。残念だったな。今の私にはあらゆる魔法攻撃は無効だ」
それに対し、スーチェは冷静な声音とともに剣の切っ先を突きつける。
いよいよ怒りで顔を真っ赤にしたバネッサは、いったん歯ぎしりしたものの表情を消す。
「やめた。虫けらに腹を立ててもむなしいだけだ。お前ら全員、船ごと沈め」
バネッサの胸の前に、茶褐色に輝く魔法陣が現れた。
「噴流の竜王よ! 我の魂と引き換えに報復の力を与えたまえ。仮初めの姿と偽りの刃をもって蹂躙の栄誉を授けたまえ」
今までブルーサーペントに襲われていたことさえ単なる余興だったと思えるほど、これまでと比較にならない振動が船体を軋ませる。
時おり響く小さな破砕音は、哀れな船の命運を暗示するかのようだ。
「だめっ。大きな力は人を破滅させるために使ってはいけないんですっ」
「よく言った、リサ!」
船室に続く通路から転がり出るようにして甲板に躍り出た人物が声を張り上げた。
「竜王の業火よ! 不浄の輩を灰となせ」
キースである。彼の正面には赤く輝く魔法陣が顕現していた。
「貴様はキース! おのれ、またしてもあたしの邪魔をするかっ」
バネッサの魔法陣とキースの魔法陣は互いに引き寄せられるかのように両者の中央でぶつかり合い、激しく火花を散らして相殺した。
「あほか。前回も今回も、ちょっかいかけてきたのはそっちだろうが」
「ちょうどいい。ドレン卿を殺る前に、セイクリッドファイブの数減らしだ。生憎ここは水だらけ。あんたの自慢の火は片っ端から消してやるよ」
身構えるキースとは対照的に、バネッサは余裕の表情で胸を反らす。
少年の額から汗が噴き出しているのは船酔いがぶり返した故だ。どうやらそれを見抜いたらしく、バネッサは勝ち誇った表情となった。
「あはは。どうしたのかしら、王子様。船酔い? お気の毒さま。こんな場所で出くわした不運を嘆きながらあの世へ逝きな。安心しな、手加減なんかしないから。皆殺しにしてやるから寂しくないだろう?」
バネッサは腕を後ろに伸ばし、掌から光弾を飛ばした。
それらは船体のあちこちにぶつかり、破片を湖面に撒き散らした。直ちに航行に影響するような損傷ではないが、このまま攻撃が続いたら時間の問題である。
「やめろおっ」
「よせ、スーチェ! 近づくな」
走り出した少女の体に、バネッサの光弾が複数命中した。
「わあっ」
後ろに転がってしまうが、彼女はすぐに立ち上がる。無傷だ。
「へえ。魔法が効かないってのは本当みたいだね」
「どうして……」
後ろに転がされた理由がわからず、首を捻るスーチェ。答えはバネッサの口からもたらされた。
「セイクリッドファイブの魔法は特別なのさ。ちょっとやそっとの対策なんか役に立たないよ。おや? 王子様は自分が攻撃されるよりも辛そうな顔してるじゃないか。あはははは。じゃあ、そっちのお嬢ちゃんから切り刻もうかなー」
「このっ!」
新たにもう一人、甲板に躍り出た。エマーユだ。緑の髪を振り乱し、複数の光弾をバネッサへとぶつける。
「無駄よ、無駄」
瞬時に現れた茶褐色の魔法陣が盾となり、エマーユの光弾を全て弾いてしまう。
「せっかくセイクリッドファイブ同士の対決だっていうのに、こうも一方的だとはお笑いだわね。一気に片を付けてやるから仲良く死にな」
突如として湖面がうねる。
大きな波が甲板に押し寄せ、高笑いするバネッサを除く全員が押し流されてしまう。
「とどめを刺してやるわ。……噴流の竜王よ!」
バネッサが呪文を唱え終わる時、ワルキュリア号の命運は尽きる。いまこの時、甲板上にそれを止めることのできる人物はいないのだった。