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大蛇の襲来

 ワイバーンライダーズの指揮官ローエン・バダムは、バイラスの部屋に呼ばれ、今後の訓練の予定を報告していた。バイラスは椅子に座り、机越しに報告を聞いている。

 ローエンはブラウンの瞳で一点を見据え、直立不動の姿勢で報告を続けていた。鍛え抜かれた広い肩幅は、見る者に実際の身長以上に身体を大きく見せつける。

「ふむ。ワイバーンライダーズに斥候任務を与えるとしたら、いつから実行できるかね?」

「三日後からです」

 バイラスにから聞かれたことにのみ簡潔に答え、余計なことは言わない。そんな指揮官に対し、バイラスは鷹揚に頷いて見せると、視線のみで詳細な報告を促した。

「どの隊員も慣熟飛行の訓練は終了しておりませんが、飛ぶだけなら全員飛べるようにはなりました。ただし、まだワイバーンに攻撃命令を与えたり、ワイバーンの上で自ら武器を使ったりはできません」


 斥候には偵察、攻撃、追跡の三種類の意味があるが、今回バイラスが言っているのは偵察のことである。なお、万一の遭遇戦に備え、複数の隊員による接敵機動の訓練が不可欠であるが、ローエンはそれを三日後――つまり二日間で仕上げると言ってのけたのだ。

「空中戦においては接近戦の想定が不要だと思っておるのかもしれんが、おそらくそうはいかぬぞ」

 そんな指揮官に対し、重い口調で釘を刺す。

 先日サーマツ王国でワイバーンを一頭失った件についての真相について、バイラスは指揮官クラスにさえ伝えていない。騎士たちには誇りがある。いかな大帝国といえど、大義なき戦いでは騎士たちの忠義を期待することは難しいのだ。

 バイラスは表情を変えることなく、事実の一部を誇張して話す。

「敵は『風の民』グライド族の力を借りておる。サーマツ王め、うまくグライド族を引き込んだつもりのようだが、いずれあの王国はグライド族のものとなろう。そうなる前に我々が叩くのだ」

 たとえ真実を知らぬ者が聞いたとしても、バイラスの言葉は根拠なき憶測に過ぎないことは一目瞭然である。なにせ、グライド族が魔族だと言うだけで、端から悪だと決めつけているのだ。

 しかし、この国においてはかれこれ二十年近い期間にわたり、魔族への差別意識を植え付けるように国民の意識誘導を行ってきた。わかりやすい悪役の設定、および歪んだ教育の徹底により、国民から考える力を奪いつつあるのだ。

 そうでなくてもバイラスは、ドレン卿の懐刀であり実質上の軍師でもある。そんな彼の言葉を疑う気持ちなど、ローエンには微塵もない。

「一週間与える。グライド族に対抗できるよう、空中での接近戦を想定した訓練もメニューにとり入れよ」

「了解しました、閣下。ライダーズの中ではメンサム・クロイツの仕上がりが一番早いです。五日いただければあと二人、クロイツと同等の者を用意します」

「さすがはローエン。期待しているぞ」

 ローエンが退室すると、バイラスは楽しげにつぶやいた。

「ふふふ。やはり人間は愚かであればあるほど可愛いものだ。私の能力など使わずとも言葉ひとつで思い通りに動いてくれるのだから」

 次いで、瞳の色を黒くする。

「限界突破の試練を勝ち取るのはこの私だ。この世の存在は全て、私の家畜でなければならぬ。今度こそ邪魔はさせぬぞ、ラージアンの英雄殿」

 その表情からは笑みが消えていた。


 * * * * * * * * * *


 キースたちを乗せたワルキュリア号はますます激しく揺れ始めていた。

 船長と操舵手は『船と運命を共にする』と言い張って甲板に踏みとどまっている。

 一方、グレッグは船長とエマーユによって船室に運ばれた。

 その間ずっと縛られたままのグレッグであるが、部屋に入ってキースの様子を見るや、早速船酔い対策を伝授し始めた。

「殿下、揺れに逆らっちゃいけません。体全体で、揺れに身を任せて。できるだけリラックスしてください」

 キースが反応するのを確かめ、ゆっくりと言葉を続ける。

「俯せに寝ていてはダメです。仰向けになって寝るだけでも、ずいぶん楽になります。寝不足や空腹も船酔いの原因になるのですが……。夕べは私のせいであまり寝ておられませんよね」

 すまなさそうな声色からは、責任を感じている様子が窺える。

「だーかーら! グレッグのせいじゃないって……」

 なんとか仰向けになったキースは、それだけ言うと次の瞬間には寝息を立てはじめた。

 その様子を見たファリヤは目を丸くした。

「早っ! 兄様、昔から寝付きはいいのよね」

 実はその点ではファリヤもほぼ同じなのだが、本人には自覚がない。

「お休みになられるのなら、それにこしたことはありません。どうやら、それほど深刻な酔い方はしておられないようですね」

 ブルーサーペントが接近していることは、キースは知らない。その場にいる者は誰ひとり、彼に教えるつもりはないのだった。

「あなたは無理せず、ゆっくり寝ててね」

 キースの様子を覗き込み、毛布をかけてから、エマーユは結界を張った。緑の瞳が光を放ち、同じ色の長い髪が波を打つ。『森の民』エルフ族による不可視の結界が船室を覆った。

 ほぼ同じタイミングで、リサと魔法戦士五人による結界が船全体を覆う。どうやら、魔力の波動を肌で感じられる魔族たちは、巨大な魔物が間近に迫っていることに気付いているようだ。




 それから約三十分の間、ただ揺れるだけの航行が続いた。最大船速で逃げ続けているのだ。もしかしたらこのまま逃げ切れるかも知れない。

 結界を張り続け、焦れるエマーユにとっては一秒が数分にも引き延ばされた状態がえんえんと続く。額から流れる汗を、時おりファリヤがかいがいしく拭き取った。

 そうして過ごすうち、船室の窓から荒れる湖面をぼんやりと眺めていたファリヤが、あるものに気付いた。表情を強張らせつつも、キースを起こさないように小さく叫ぶ。

「エマーユ姉様。い、今なにか、細長いものが!」

 それを受け、グレッグも小さめの声で言った。

「追いつかれたようですね、伝説の魔物に」

 そのまま、落ち着いた声で告げる。

「ファリヤ殿下、エマーユさん。奴は巨体を活かした攻撃を仕掛けてくるでしょう。まず間違いなく、ぶつかってくるはずです。結界ごと船を揺さぶられる可能性は大いに考えられます。キース殿下をしっかり支えてさしあげてください。そしてお二人も、しっかりとベッドに掴まっていてください」

 彼の言葉を聞き終えると、エマーユはキースに、ファリヤはグレッグにそれぞれ覆い被さった。

 あわてたグレッグは声を裏返して叫ぶ。

「いけません、ファリヤ殿下! 自分のごとき卑しい者よりもキース殿下の御身を第一に!」

 グレッグの顔面は真っ赤に染まった。ファリヤの体温と、直に感じる柔らかな感触が、罰当たりな気分を際限なく増幅させていく。

「大丈夫よ。グレッグさんはご存知ないだろうけれど、エマーユ姉様のお力はすっごいのよ! お一人で充分にキース兄様を支えることができるわ」

「い、いえそうではなく……」

 当たってるんです、あなたの小ぶりに見えながらも実際にはしっかりと質量のある二つの丸いふくらみが! 私の腕に!

 ……などとは言葉にできずもごもごと口ごもる。ファリヤはまるで無頓着に、さらにぐいぐいと押し付けてくる。

 ——いいのか? 王族とか抜きにして、年頃のお嬢さんがこんなに無防備で。

 グレッグは歯を食いしばり、首を振った。ファリヤがどうであれ、ここは自分が気をつけるべき場面なのだ。

「本来なら守られる側であるあなた様が、自分ごとき卑しい身分の者を守ろうなどとなさらないでください。今の私なら、矢が刺さった程度では死にません。いざという時は私の身体を盾としてお役立てください」

 そう告げても、ファリヤが離れる様子はない。

「命に身分など関係あるものですか! あなたを盾になんてしません。今はリサさんのことを考えて。お二人を助けるために兄様はあなたを連れてきたんですよ」

 グレッグは胸中で感涙し、同時に納得していた。これがアーカンドル王家の方々の強さだ、と。

 バーサーカーが四体もいて、それでも領主館を落とせなかったのは、決して偶然などではないのだ。キースを中心として周囲を固める面々の意志は、生半可な攻撃に屈することはない。

 グレッグはそう確信するとともに、可憐な外見に凛々しい表情を浮かべる王女の横顔を眩しげに盗み見る。

 しかし、そんな穏やかな時間はわずか数秒で終わりを告げる。

 轟音が響き渡り、グレッグたちの鼓膜を叩いた。

 次の瞬間、船室の窓から覗く景色が黒雲のみとなる。水面が見えない。

 軋む音が不安を煽る。この音は、船体の悲鳴だ。

 船が傾いている。そう認識した時には、全員の体が船室の扉側へと滑り始めていた。

 すぐに船体の姿勢が水平に戻る。リサと魔法戦士たちががんばっているようだ。

 爆音が轟いた。

 窓から見える湖面に太い水柱が立ち、同時に大地震さながらの激震に見舞われる。

 振り上げられた船体が湖面に叩きつけられ、あらゆる方向から軋む音が響き渡る。

 ワルキュリア号の外側を結界で守っていても、湖面が上下すれば当然ながら船は揺れる。これだけ揺らされ続ければ、いつ船体が破損してもおかしくない。

 大小おりまぜた揺れが何度も続き、もう何度目かわからない大揺れに襲われた。

「くっ!」

 今回は落差が相当大きかったようだ。ファリヤの体が浮き上がった。このままだと天井近くから船室の床へと落下することになる。

「あぶない!」

 エマーユはグレッグの草結びを解き、その草でクッションを作ろうとした。しかし、船室に結界を張り、キースの体を支えながら自らもベッドにしがみついている状況なので、うまく魔法に集中できない。なかなか草のクッションに思い通りの強度を与えられないのだ。

「だめ、間に合わない!」

 エマーユの叫びを聞いたグレッグは、鎖で体を縛られたまま、全身のバネを使って飛びはね、ファリヤのクッションになろうと移動した。だが。

 ——まずい、俺の体には鎖が。

 目測を誤り、王女を鎖の部分で受け止めることになってしまっては、床で打つより酷い怪我を負わせてしまうかもしれない。

 焦りながらも考える。腹部には鎖の戒めがない。王女の頭さえ腹で受け止められれば、彼女が深刻な怪我を負うことはないだろう。

 あとはファリヤの落下地点を正確に予測するだけだ。

「受け止めて見せる!」

 なんとか予測地点に滑り込んだグレッグの耳に、澄んだ美しさと凛とした勇ましさの同居した声が届く。

「はっ!」

 ファリヤだ。

 彼女は空中で一回転すると、グレッグのすぐ脇に着地を決めた。猫のしなやかさを連想させる、見事な体術である。

「お、お見事」

「うふっ。ありがとう、グレッグさん。あたしのこと、受け止めようとしてくださったのね」

 ウインクして見せるファリヤに見とれているグレッグの耳に、少年の声が届く。

「サワムー湖の主のお出ましか」

 キースの声だ。少し寝たのが功を奏したのか、寝る前よりはしっかりした口調となっている。

「あら、思ったより眠りが浅かったのかしら。それよりも兄様、起きてたんなら助けてよね」

 ファリヤがふくれっ面になる。

「悪い。しかしその体術。お前、普段から練習してるのか」

「うふっ」

 その気になれば王城での生活における自由時間を延長する裏技をいくつも心得ているファリヤである。

 素敵な笑顔を兄に向けた後、窓を視界に入れたファリヤは思わず口に手を当てた。黙り込む彼女の視線の先を、船室の全員が目で追う。

 巨大な魔物だ。

 喉から腹にかけて、灰色の胴体を湖面の上に持ち上げている。首は三つに枝分かれしており、その首は蛇そのものだ。頭部から背にかけては光沢を帯びた青で、ゆらゆらと移動しては鎌首をもたげ、威嚇のポーズをとっている。どうやらそれは船室ではなく魔法戦士たちを気にした行動のようだ。

「これがブルーサーペントね。首が三つ。噂どおりだわ」

 エマーユが冷静に言う。

 ときおり大きく口をあけて、獲物を太い胴体に呑み込まんとする黒い空洞を見せつけ、鋭い牙の隙間から長く赤い舌を伸ばしてくる。

「いや、噂以上だ。牛一頭ならまるごと一飲みしそうな太さがある。これは、体長四馬身どころじゃないだろう」

 キースが感想を述べた。

「な、なんでそんなに冷静なんですか……」

 グレッグが呆れていると、突然ブルーサーペントが背を向けた。

 魔物の意図がわからず訝るグレッグを振り向くようにして、キースが警告を発した。

「来るぞ、衝撃に備えろっ!」

 備えようにも縛られているんですが——と声に出さず呟いた刹那、再びファリヤが身体ごと覆い被さった。しかし今回は柔らかい感触に赤面する暇もなく。

 耳鳴りを伴う爆音は、後から聞こえてきた。

 揺れたと認識するより早く、水平に飛ばされる四人。

 全員が窓の反対側にある扉まで吹っ飛ばされ、背中をしたたかに打ち付けた。

「ぐ。さすがに効いた。みんな、大丈夫か」

 キースの声に張りがない。再び船酔いが酷くなったのであろうか。

「なんとか大丈夫」

 異口同音に三人が応える。

「あっ、ごめんなさい! グレッグさん、しっかりなさって」

 グレッグは、ファリヤと扉との間に挟まる格好で焦点の定まらぬ目をしている。しかし伸びているわけではないようだ。

「やわらかおっ……。本当にありがとうございます」

 わけのわからないことを呟く少年の瞳を、ファリヤは心配そうに覗き込んだ。

 その遣り取りを背に、エマーユはキースに手を貸し立たせたところだった。

「キースこそ大丈夫? 船酔い酷くなってない?」

 それには簡単に「ああ」と返し、金髪の王子は碧眼を窓の外に向ける。

「あのデカブツ、尻尾をぶつけてきやがった。結界ごと船を揺らすとは……ガタイがでかいだけのことはある」

 キースの言葉を聞くうちに平常心を取り戻したグレッグも、窓の外を見た。

「うわ!」

 同じタイミングで窓に近付いたブルーサーペント。瞼がなく、縦に細長い虹彩の目を窓にくっつけるようにして船室を覗き込む。

 甲高い破裂音と共に光が飛び散った。ブルーサーペントが、繰り返し首を叩きつけてくる。

「結界が!」

 飛び散る光は魔法戦士たちの結界である。

 エマーユは部屋を覆っていた結界を窓に集中させた。しかし、六人分の結界が突破されたのだ。強大な力を持つ魔物の前に、彼女一人だけの結界ではどうにも心許ない。

「殿下! いったい何を」

 グレッグが焦った声を上げる。ファリヤが彼の鎖の戒めを解き始めたのだ。

「緊急事態よ。自分の身は自分で守っていただきます」

 ファリヤはグレッグに微笑んで見せ、船室の扉へと歩いてゆく。

「兄様、姉様! 部屋から出ましょう」

「よい判断だ」

「そ……そうね」

 エマーユは結界を解いた。そうでなくても、ブルーサーペントの舌は結界ごしに船室への侵入を果たしていたのだ。

「きゃあっ!」

 ファリヤが叫んだ。扉に伸ばした手を慌てて引っ込めるのとほぼ同時に、大蛇の舌が扉を刺し貫いたのだ。

「木巻き!」

 エマーユの言葉と同時に、突如として出現した光る枝が敵の舌に絡みつく。

 森の民が得意とする拘束魔法である。『草結び』の上位魔法たる『木巻き』は、光る枝の外見を持つ魔法物質によって相手を拘束する。本気で締め上げれば、かの土人形『ゴーレム』をも粉々に粉砕するであろう。しかし――

「ええっ!?」

 一旦は舌に巻き付いたはずの『木巻き』だったが、金属的な音を響かせて四散してしまった。

「この野郎。結界の突破のしかたといい、魔法を無効化する力でも持っていやがるのか」

 さきほど、敵の舌により扉の取っ手が壊されていた。

「くっ。開かないわっ」

「お任せください」

 ファリヤとグレッグの会話を背中で聞きつつ、キースは身構えた。

「烈火の紋章」

 彼の声と同時に、身体の正面に赤く光る魔法陣が出現した。それは小さな複数個のエンブレムとなり、前方にせり出すようにして重なっていく。やがて一振りの剣として空中に浮かび上がり、柄の部分を右手で掴むと正眼に構える。

 立ちはだかるキースを標的に、ブルーサーペントの舌が縦横無尽に動き回りながら襲いかかる。

「下がってろエマーユ」

 素直に下がったエマーユの頬に汗が流れる。あまりのスピードに目が追いつかないのだ。

 キースはそれをことごとく剣で受けた。そのたびに水蒸気が上がる。やがて、ブルーサーペントは、舌をキースに近づけるのをためらうようになった。

 だが、キースは決して本調子ではない。今ひとつ足下が覚束ないのだ。そのことに気付いているエマーユは気が気でない。彼に気を取られていた分、自分の足下への注意がおろそかになっていた。

「きゃっ!」

 突如、ワルキュリア号が揺れた。すでに結界は消えている。ブルーサーペントが船体に胴体を巻きつけたようだ。

 すんでのところで踏みとどまったエマーユだったが、キースに手を差し伸べる余裕はない。キースの方は転倒してしまっていた。彼を目がけ、ブルーサーペントが口から何かを吐いた。

「キース」

 エマーユはキースの体の上に飛び込むようにして覆い被さった。

 船室いっぱいに、じゅっという嫌な音が響き渡り、肉の焦げる臭いが充満した。

「エマーユっ!」

 王子の口から絶叫が迸り、少女の悲鳴がそれに被さった。


 * * * * * * * * * *


 カールとチャーリーは空気を切り裂いて飛んでいく。

 凄まじい速度だと言うのに、スーチェの髪が風になびくことはない。すぐ隣に並んで飛んでいるカールの姿を見ることはできるが、互いに声は届かないようだ。

「そうか。私の体が風圧で潰れないよう、結界を張ってくれているんだな。ありがとう」

 スーチェは独り言のつもりだったが、チャーリーにはしっかりと聞こえており、返事が返ってきた。どうやら同じ結界の内側にいる者同士なら、話はできるらしい。

「勘違いするな。私の背中に人間の肉片がこびりついたら気持ち悪いだけだ」

 スーチェは苦笑ぎみに頭を振る。このスピードならこびりつくこともできず真後ろに吹っ飛ばされているはずだ。

 ——なんだかんだと言っても、気を遣ってくれているじゃないか。

 彼女は声に出さず微笑した。


 それからほどなく、黒雲に突入した。

「大きな船が見える! 蛇の怪物が巻き付いているぞ! あいつがブルーサーペントだなっ」

 スーチェの叫びに対し、チャーリーは呆れた様子で返事を寄越した。

「見ればわかる」

 気にせず、スーチェが頼んだ。

「甲板で人が襲われているぞ。私を甲板に降ろしてくれ!」

「結界を解いてゆっくり飛んでやる。勇気があるなら勝手に飛び降りればよい」

 見る間にスピードが落ちていく。その途端、スーチェの髪が風になびいた。スーチェは改めて礼を言った。

「ありがとう、あなたには嫌われているかと思っていた」

「ふん。お前は小娘のくせにカール様への態度がでかい。それが気にくわないだけだ」

 スーチェは頭に浮かんだ言葉をそのまま声に出してみた。

「……あなた、女性か?」

「だったらどうした?」

 遠回しな肯定の後、チャーリーはさらに言葉を続けた。

「私はカール様を崇拝しているが、求婚など絶対にしないから安心しろ」

「安心……? いや、私は別に」

 スーチェの答えは、チャーリーにとっては意外なものだったようだ。

「そうか? 少なくとも、湖岸でお前と一緒にいた小僧より、カール様の方が百倍魅力的だと思うが」

 少し思案するスーチェ。カールは、これから向かう先にブルーサーペントが待っているであろうことを承知の上で、鎧をスーチェに与え、自らは生身で飛んできたのだ。

「認める。だがそれは、私以外の女性にとっての話だ」

 チャーリーは少しだけ首を巡らせ、振り向くそぶりを見せて言った。

「そうか。失言だった」

「いいさ」

 まもなく船の真上だ。チャーリーが言った。

「私はしばらく空中でカール様をサポートする。状況次第では甲板にも降りる。戦況によるが、いつでも私に飛び乗れるよう準備しとけ」

 チャーリーの口調には心なしか親しみの色が混じっていた。

「了解だ、ありがとうチャーリー」

「お前は礼を言いすぎだ。礼は最後にとっておけ。……死ぬなよ、スーチェ」

 チャーリーが名前で呼んでくれた。スーチェは輝くような笑みを見せ、軽やかな身のこなしで甲板へと飛び降りた。


 * * * * * * * * * *


 悲鳴は、ファリヤのものだった。

「きゃあああ! グレッグさんっ」

 折り重なるキースとエマーユを庇うようにして、グレッグがその身を割り込ませたのだ。

「ぐわあっ」

 グレッグの背中から異臭が立ち上る。背中の肉が溶け崩れていた。

 ブルーサーペントが口から吐き出したものは、溶解液だったのである。

「おあああああ!」

 獣人現象。グレッグの顔が狼へと変わっていく。あろうことか、それと同時に背中の肉が盛り上がっていく。

 わずか十数秒で背中の肉を再生したグレッグは、青く燃え上がる瞳でブルーサーペントを睨み付けた。

「おい、俺たちがわかるかっ」

 エマーユの肩を借りて立ち上がりながら、キースはグレッグに呼びかけた。魔法を維持できなかったのか、キースの手からは赤い剣が消えている。

「大丈夫です、キース殿下。私は意志を失っていません」

 口の形が変わってしまったためか若干しゃべりにくそうに、しかし落ち着いたしっかりとした声音でグレッグが応えた。

 彼は敵を見据えると、気合いを放つ。

「オオオオオッ!」

 人狼はブルーサーペントの舌を両腕で抱えると、相手の下顎へと近づいてゆく。そして抱え込んだ舌を、相手の大きく鋭い牙へと突き刺した。

 大きな口から迸った魔物の絶叫は、物理的な圧力を伴う轟音となって船室内に響き渡った。ブルーサーペントは一旦船から首を引き離した。しかし、グレッグは舌先に掴まったままだ。

「グレッグ!」

 グレッグは敵の舌をうまく手繰り、両足をブルーサーペントの右目に突き入れた。

「ギャアアア!」

 ブルーサーペントは滅茶苦茶に首を振り回した。グレッグは一度船腹に体をぶつけられた後、湖の中へと叩き落とされた。

 大蛇が持つ三つの首のうち二つは、甲板から離れようとしない。

 一方、グレッグと戦っていた首は、舌を牙に突き刺されたことで怒り狂っているのか、水面を睨み付けて威嚇するような音を立てている。

 窓から身を乗り出したキースの眼前を、一筋の光が通り過ぎる。

 次の瞬間。

 威嚇を続けていた首が一つ、胴体から切り離されて湖へと落ちていった。

 大蛇は悲鳴のような咆哮を上げて船を締め上げる。

「グレッグ! 上がってこないぞっ」

 湖に飛び込もうとするキースに向かって、外から呼びかける者がいた。

 カールである。彼が真空の刃(エアスラッシュ)によってブルーサーペントの首を斬り落としたのだ。

「任せろキース、俺が行く」

「兄貴!」

 船室の横を通る際に親指を立ててみせた後、追随する魔物に指示を出す。

「チャーリー! お前は甲板を頼む」

 カールは青緑色の光を身に纏い、湖へと飛び込んでいった。

 キースの隣から身を乗り出したエマーユは、甲板へと向かうモノケロスの後ろ姿を見た。

「あれがチャーリー? カールって、変わったお友達が多い方よね」

 妙に感心するエマーユであった。

「よし、俺たちも上に行くぞ!」

 キースの声に振り向いたエマーユは、すかさず制止した。

「だめよ! 今のキースでは足手まといになる! あたしが行きます」

「ははは。はっきり言ってくれるぜ。そういうとこ大好き」

 キースはさらっと言ってのける。エマーユが赤くなるのを見て楽しんでいるようにも感じられるが……。

「兄様ったら」

 なぜかエマーユと同時にファリヤまで赤くなっていたりする。

 表情を引き締めて、改めてキースが言う。

「じっとしてたら後悔する。三人一緒に上に行くぞ」

 今度はエマーユもファリヤも黙ってうなずいた。


 * * * * * * * * * *


 甲板上では魔法戦士たちが防戦一方となっていた。ブルーサーペントには結界が効かないだけでなく、束縛系の魔法もほとんど無効化されてしまうため、凶暴な首を相手に接近戦を挑むしかなかったのである。

 リサを含む魔法戦士たちは三人ずつに分かれ、ブルーサーペントの首を個別に迎え撃っていた。

 懐からマジックアイテムを取り出し、呪文を唱えなければ攻撃できない人間の魔法戦士たちは、どうしても手数が限られる。それに対し、魔族であるリサは手数だけなら六人中最多である。そんなわけで、決して攻撃力の高くないリサに負担がかかる戦闘内容となってしまっていた。

 敵の舌が、魔法戦士の一人へと伸びてくる。

「危ない!」

 紺と白に光る、流れ落ちる滝の形をした光がリサの目の前に顕現する。彼女が夢中で手を前に伸ばすと、それに呼応するように魔法戦士の前へと移動した光は、奔流と化してブルーサーペントの舌を押し戻した。

 魔法に耐性のある大蛇が、首を後ろに仰け反らせている。

「おおっ」

 勢いを得て、魔力の矢や魔力の石礫で追撃する魔法戦士たち。

「あ……」

 しかし、リサはなぜか呆然としていた。自分の手と大蛇を見比べている。

「リサどの!」

「あうっ」

 別の魔法戦士の呼びかけにはっとして振り向こうとした途端、彼女の体にブルーサーペントの舌が巻き付いてきた。別働隊による攻撃をすり抜け、背後からもう一つの首が舌を伸ばしてきていたのだ。

「くああ」

 強い力で締め上げられ、徐々にブルーサーペントの口へと引き寄せられる。鋭い牙と、奈落を思わせる、太い胴体へと続く真っ黒な空洞がリサの身体を待ち受けていた。

 ある程度近づいたところで、ブルーサーペントが口から何かを吐き出す。

 そこへ、先ほどリサに救われた魔法戦士が身体を割り込ませてきた。

「ぐわあああ」

「魔法戦士様!」

 リサの目の前で、魔法戦士が見る間に溶けていく。その身体はあっという間に骨だけになってしまった。

 リサを締め上げていない方の首が舌を伸ばすと、その骨を巻き取って呑み込んだ。

「ああ……っ」

 四人に減った魔法戦士は二手に分かれ、二つの首に攻撃を加えた。

「溶解液を防ぐんだっ。口を閉じさせろ」

 魔法戦士が叫んだとき、船を激しい揺れが襲った。ブルーサーペントが揺らしているのだ。

「うわああぁぁ!」

 甲板に血飛沫の雨が降る。先ほど魔法戦士の骨を食べた首が、別の魔法戦士の体に鋭い牙を突き立てていた。

 噛みつかれた戦士の相棒は、剣に魔法を込めて敵の首や脳天目がけて斬撃を繰り返す。なんとかして仲間を取り返そうとするが、ブルーサーペントはそれを全く意に介さない。やがて大蛇の口はぴったりと閉じられ、呑み込んでしまった。

 食事を終えた首が、口から勢いよく舌を飛び出させた。応戦する魔法戦士だったが、剣ごと勢いよく吹っ飛ばされる。

 飛ばされた身体は全く勢いを殺すことなく、反対側の首の口の中へと飛び込んでいく。

「呑み込まれる前に早く、早く助けてあげて——」

 リサが最後まで言い終える前に、彼女を捕らえている首は口を閉じてしまった。口からはみ出した舌でリサを捕らえたまま、魔法戦士を呑み込んでしまう。

 大蛇の喉のあたりから、くぐもった破砕音がおぞましく響き渡る。

 きつく目を閉じたリサは目の端から涙をこぼした。

「全く歯が立たぬ」

「あきらめるな」

 残った二人の魔法戦士のうち片方が、リサを捕らえている首の目に剣を突き立てた。目の下に足をかけ、剣を引き抜く。しかし、引き抜いた途端に敵の目は元通りに戻っていた。

「なにぃ!?」

 リサは、もう一方の首が伸ばしてきた舌にも巻き付かれてしまった。

「く……う……」

 今度は首も絞められ、気が遠くなる。溶解液を浴びせられたらおしまいだ。彼女は遠のく意識を必死でつなぎとめたが、もがく腕にはほとんど力が入らなくなってきた。

 先にリサを捕まえた方の首が、口を大きく開く。溶解液を吐き出すつもりのようだ。

 もはや握っていた拳は開き、食い縛っていた歯は半開きとなった。意識が闇の底へと引きずり込まれていく。

 男の悲鳴が迸る。

 残っていた魔法戦士の片方がリサの盾となって命を落としたのだが、今の彼女にはそれさえ知覚できずにいる。

 最後の魔法戦士は前後を大蛇の首に挟まれ、膝が笑ってしまい床を蹴る気力さえ萎えてしまっていた。

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