試練の理由
「思ったより数が多いな」
呟いた少年の名はカール。青い髪を風になびかせ、空中で静止している。
大空の紺碧をそのまま宿したかのような蒼い瞳をした彼は、飛行能力を有するグライド族という魔族である。
本来、グライド族は大陸南端のサルーサ山から離れることはない。だがカールだけは例外である。彼は今、大陸東北にあるユージュ山にいるのだ。
いまカールが降り立ったのはユージュ山の山頂付近であり、モノケロスの縄張りにほど近い場所だ。
モノケロスとは馬に似た一角獣。飛行能力があり、角からは雷撃を発することのできる、非常に好戦的な魔獣である。伝説の巨大聖獣ペガサラスに似ているが、モノケロスの体躯は普通の馬と変わらず、翼も持たない。これで角がなければ馬と見分けがつかないだろう。
ユージュ山は四千アード級の高峰であるため、山頂付近は空気が薄い。しかも反り立つ崖が行く手を阻み、普通の人間が自力で登頂するのはほぼ不可能である。
カールの頬を伝い、顎から滴るのは冷や汗である。
彼は呼吸を整えると、決然と頭上を仰ぎ見た。
「我らが守り神よ。我が血肉をなす風よ。今こそ我を導きたまえ」
両手を天に向けたカールの体から、青い光が立ち上る。光は一旦渦を巻き、カールの周りをぐるりと取り囲むと前方へと誘うように霧散した。
「よし、行くぞ」
モノケロスへの恐怖心が消えたわけではない。しかし、彼にはユージュの山頂に行かねばならない理由があった。
* * * * * * * * * *
山頂へは、すぐに辿り着いたわけではない。一旦山頂のすぐ下に降り立ったカールは、たった一頭のモノケロスさえ恐れ、一昼夜にわたって野宿して隠れていたのだ。
木の枝でさえ食糧にできる風の民のカールは、山頂からモノケロスたちの気配が遠ざかる瞬間をひたすら待ち続けながら、グリズとの会話を何度も反芻していた。
グリズとは、このユージュ山中腹の森に棲むエルフ族の長老である。エルフ族もまたグライド族と同様に人間と近い容姿をしているが、長い耳と緑の髪を持つ種族だ。すでに二百五十歳を超えるという長老は、現在は一本の大木に姿を変えて生活している。
ちなみに、一般的に人間より魔族の方が長寿ではあるが、グライド族もエルフ族も平均寿命は百六十歳前後といわれている。グリズは規格外の存在なのだ。
そんなグリズは、長寿なだけに知識も多い。今回、カールはとある件で彼を頼ったのだ。
「症状を聞く限り、人間がかかりやすい流行り病の亜種のようじゃの」
人間の病気に関するカールからの説明をひととおり聞いた後、グリズはそう答えた。
病気に罹っているのはカールの知り合いだ。サーマツ王国に住んでいたローラ・ララバンという名の赤毛の少女である。彼女はいま、アーカンドル王城の客間の一つに寝泊まりしているが、原因不明の病気で床に伏せっていた。
「治す方法はあるのですか?」
カールの質問に対し、グリズはしばらく間を置いてから答えた。
「覚悟はあるかの?」
「……?」
グリズの言葉の真意をはかりかね、無言で首を傾げる。
「ローラという娘、普通の人間よりも身体が弱いとのことじゃったな」
それは彼女がサーマツ王国に住んでいたころの話だ。ある件がきっかけとなり、彼女の体質は改善されたものだと思っていた。カールがそれを告げると、長老はあっさりと否定した。
「我々エルフが用いる結界のように効果が長期間にわたるものを除き、魔法の大半は一時的に効果を発揮するものなのじゃ。魔法で人の体質を根本的に改善させるのは難しいじゃろう。地道な治療こそが肝要じゃ」
カールは天を仰ぎ、力なく息を吐く。
「では、ここまでの旅が彼女の身体に負担をかけたのでしょうか。それなら彼女を連れ出すことなく、サーマツ王国にいるという知り合いに預けてきた方がよかった——」
「それを判断するのはお主ではない。選んだのは彼女自身じゃろう」
穏やかな声で、しかしきっぱりと少年の言葉を遮り、グリズは言葉を続けた。
「目の前の症状を癒やすだけなら、このわしの葉一枚を煎じて飲ませるだけでもこと足りる。しかしそれでは、ローラの体質は今のままじゃ。とても長旅に連れ歩くわけにはいくまい。お主がこの先も彼女を連れて旅を続けるつもりであれば、の話じゃが」
「では、俺がもしこの先も旅を続けるつもりなら、ローラはアーカンドルに置いていけ、と?」
「そうではない。このユージュ山の山頂にある、ユグドールという特別な大木の葉じゃ。その葉に宿る生命力ならば、病弱な人間の体質をも改善するじゃろう」
カールの顔に狼狽の色が広がっていく。ユージュの山頂はモノケロスの縄張りなのだ。迂闊に足を踏み入れれば、無事に帰るのは難しい。
「独りでワイバーンを斃した英雄とは思えぬのう。まあ、その時の精神状態にもよることは理解しておるが」
「あれは正直、俺としても……。半分、夢でも見てたかのように現実感がないと言うか」
グリズは枝を揺らした。自信なさげなカールの態度を咎めることなく、落ち着いた声で告げる。
「縄張りを荒らすという、ある意味こちらから喧嘩を売る行為なのじゃからこちらには正義も大義もないからのう。さらには今回、一対多数という状況に陥ることはほぼ間違いない。ワイバーンには遠く及ばなくとも、モノケロスとて強力な魔獣じゃ。多勢に無勢では、怯えるのも無理はない」
カールは腕を組んで考え込んだ。
もしキースに相談すれば、彼のことだ、必ず力になってくれるだろう。
しかしタイミングの悪いことに、彼はいま兄の結婚式に臨席しており、王城はキースを含め不在の者が多い。留守番している王族は皇太子たるマークと三男のピートだけだ。彼らはキースの兄ではあるが、カールとしては初対面に近い彼らを頼るには遠慮がある。
ただでさえ、自分とローラを無償で滞在させてもらっているという負い目があるのだ。国王不在で人手が少ない現状において、弓兵一人借りることさえ憚られる。
しかし、だからと言って、今まさに苦しんでいるローラを放っておくことはできない。
「ううむ」
考え込むカールに向けて、グリズは穏やかに声をかけた。
「百年前、暴れ回るワイバーンを鎮めるために、人々は精霊の力も借りたのじゃ」
聞こえているのかいないのか、カールは俯いて汗をかいている。
「その精霊の名は、アシュバ」
「————っ!」
弾かれたように顔を上げる少年の動きに合わせ、青い髪が波を打つ。
アシュバ。それはカールたちグライド族のみならず、全ての『風の民』が神と崇める大精霊なのだ。
「では、このユージュの山頂に行けば、アシュバ様に会えると?」
「それはわしにもわからぬ。じゃが、もしアシュバがそこにおるのならば、きっとお主を守護するはずじゃ」
たとえグリズの言葉といえ、そこには何の保証もないことはよくわかっている。だが、カールの表情から狼狽の色が消えていた。
「俺、行きます。ローラのために。……いえ、本当は違います。自分のために」
「うむ。充分に気をつけて行くのじゃぞ」
カールは、自分に向けられた視線に気付くことなく飛び去った。
「長! カールをひとりで行かせるなんて、無茶です」
視線の主はパーミラ。緑の髪をショートに切り揃えたエルフの少女である。
カールが行ってしまった後、パーミラはグリズの前に駆け寄ってきた。彼女はグリズとカールが会話をしているのを聞きつけ、カールを止めるために走ってきたのだが、わずかに間に合わなかったのだ。
パーミラには珍しいことに、必死でグリズに抗議をした。彼女の目には、グリズがカールを無理矢理けしかけていたように映ったのだ。
「大丈夫じゃ。カールがまこと『風使い』であれば、山頂に行けば必ずやアシュバの加護が得られる。たとえそうでなくとも、モノケロスごときに後れを取る男ではあるまいて。わしとしてはこの先、キースが北の愚か者に対抗するためにも、カールによる手助けを期待しておるのじゃ。もっとも、キースにどのくらい協力するのか、あるいは全く協力しないのか、それはカール自身が決めることじゃがの」
「でも……。それならそれで、カールにそのように話をして、きちんと準備をしてからでも」
食い下がるパーミラ。
「良い機会なのじゃ。カールが持つ戦士としての資質を開花させるためのな。ユグドールの葉を手に取った時、その達成感は必ずやカールを成長させる。ローラのためだけではなく、キースと、そしてカール自身のためにもなる」
グリズの言葉をそこまで聞き、ようやくパーミラは肩の力を抜いた。
「ローラのことはあたしも気がかりだけれど……。彼女が少し羨ましいかも」
「なに。あの若者、一人のおなごだけで満足するとは思えぬ。パーミラよ、自信を持つがよい。彼はお主にもきちんと気持ちを向けておるぞ。古来より、『英雄、色を好む』と言うしの」
「…………」
複雑な表情で見上げてくる少女に対し、グリズは朗らかな笑い声で応じた。
飛び去っていくカールの姿がまだ見えていた。その姿が見えなくなっても、パーミラはずっと見送っている。
グリズはやさしい声でささやいた。
「ただ待つだけの状況は、たしかに辛いことじゃ。それでも、今しばらく辛抱するのじゃ」
パーミラは寂しげに微笑み、うなずいた。
「あたし……。ローラのお見舞いに行ってきます」
「うむ」
森を抜け、麓へと下りるべく歩き去る少女の姿が見えなくなると、グリズは大きめの声で呟いた。
「ふぉふぉふぉ。青春じゃのう。……のう、ギムレイ?」
グリズの幹の影で寝ていたウォーガが身を起こした。
「おいらには精神共感能力はあるけど、わかるのは相手の気分だけ。恋心は……正直、よくわかりませんー」
ウォーガ。身長二アード半に達し、筋肉の塊を毛深い体毛で覆ったその姿は威圧的である。本来のウォーガは人語を解することはなく、人や魔族を見境無く襲う獰猛な魔獣だ。だが、このギムレイという名を持つ巨漢は人語を操ることを含め、一般的なウォーガとは大きく違っていた。
「ふむ。しかしお主は、パーミラから感じ取った気持ちが恋心だということには気付いておるようじゃが?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかも。とにかく、わからないのですー」
「ふぉっふぉっふぉ。実を言うとわしにもわからん。何もかもわかってしまった者は、神と呼ばれる。しかし、神の一歩手前の大精霊たちでさえ、何もかも承知しておるわけではない。わからないからわかろうとする。わかろうとするから生きていける。そう思わぬか?」
「グリズ様のお話は難しいですー。でも、そういうものなのかなー」
「お主は、この先何をしたい?」
「おいらは、いつまでもマミナやカールを助ける『力』として生きていきたいですー。本当は、今回もカールと一緒に山頂に行きたかったー」
実はギムレイは、ここにカールが来る前から寝ていたのだ。グリズの言いつけを守り、カールが立ち去るまで静かにしていた。
「カールは、たぶん一回り大きくなって戻ってくるじゃろう。それでも、あやつはまだまだ未熟。キースと較べてもひよっこみたいなものじゃ。お主の助けを必要としておる。しかしのう。お主なら気付いておるはずじゃ。カールはお主の『力』に頼っておるわけではない。じゃからお主は、今まで通りでいいのじゃ」
ギムレイの心に、グリズの暖かい心が流れ込んでくる。
「そうなのでしょうかー。でも、なんとなく安心しましたー」
「じゃがな、これだけは憶えておくとよいぞ。お主にも、いずれ自分で考えて、自分で決めねばならぬ時が来るのじゃ」
「……はい。憶えておきます」
締めくくるグリズの言葉に対し、ギムレイは姿勢を正すと語尾を伸ばすことなく返事をした。
* * * * * * * * * *
(左に一馬身)
頭の中に直接響く声。カールは何も考えず、ただ指示に従った。
一拍遅れて閃光と轟音が襲う。カールが飛び退いた場所の地面が抉れた。
(後ろに半馬身、右に一馬身)
カールが飛び退く都度、その場所が抉れていく。
(真上に! 最大速度)
飛び上がったカールの視界に、約十頭のモノケロスが見えた。一頭残らず角を光らせている。カールは先ほどから、誰かの指示により彼らの雷撃をかわしていたのだ。
最大速度で上昇する。わずか一瞬で、カールの視界からはモノケロスたちが親指ほどに小さく見えるまで遠ざかった。
しかし、魔獣たちもすぐに猛加速し、こちらに追いすがってくる。
先頭のモノケロスが角から雷撃を放つ。
が、それはカールに届く前に見えない壁に阻まれた。
二頭目の雷撃、三頭目の雷撃。全て阻まれる。カールは何もしていない。
(あとは任せたまえ)
光る風。そうとしか表現できないものが、モノケロスたちを包む。
モノケロスたちは風の渦に呑み込まれた。渦の向こうに黒い穴が口を開けているのがぼんやりと見える。どこか別の空間につながっているようだ。モノケロスたちはその空間へ次々に運ばれていく。
さっきまでカールを追っていたモノケロスたちが一頭残らず消えてしまった。
(さあ、カール。あとは自分の力で飛びたまえ)
姿は見えない。ただ声の主の意識だけが、カールには感じられる。
「ありがとうございます」
(礼ならいつも聞いておる。わしが力を貸せるのはここまで。繰り返すが、あとは自分の力で)
カールは声の主に心当たりがあった。初めて聞く声ではあるが、おそらくは大精霊アシュバその人だ。
事前にグリズから聞かされていたとは言え、本当に守ってもらえるとは思っていなかった。カールは心の底から感謝していた。
「いくら感謝しても足りません。これからも見守ってください、アシュバ様」
(お主を『風使い』と認める。思った通りに行動するが良い)
その声を最後に、アシュバの意識がカールのそばから遠のいた。
「…………」
もう、ここにアシュバはいない。
ユグドールの大木へ。カールがそう思った瞬間、目の前にユグドールの葉があった。山頂に到着して以来、確実に魔力が上がっている。まるで瞬間移動でもしたかのような速度に、すぐには認識が追いつかない。
手を伸ばし、ユグドールの葉を千切ろうとする。
「なかなか千切れない。地上の木よりずっと強いみたいだ」
そう言いながら指先に気を集め、軽く横に振る。
すると、鋭利な小刀で切ったように葉が枝から離れた。
その時、カールのいる場所のやや下の位置にある枝が、風もないのに揺れた。
そちらに気を取られ、下を見たカール。
唐突に真上――カールの背に迫りくる気配。
「————っ」
驚き、再び振り仰いだカールの視界の隅で光が弾ける。
「ぐうっ!」
絞り出すような声しか出せない。全身に衝撃が走ったかと思った次の瞬間、痺れて指一本動かせなくなった。
モノケロスによる雷撃を受けたのだ。
身体の自由が利かないまま、大木の枝から山頂へと身体が落下し始めている。
きつく閉じた目を無理矢理こじ開けると、その視界を覆い尽くすのは一頭のモノケロス。こちらに角を向け急降下してくる。
「ちくしょう、こんなところで……!」
動かせるのは目と口のみ。
山頂の岩肌が迫る中、恐怖に目を見開き、悔しげに呻くことしかできなかった。