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渦の奥から

 口を開いても声にならない。下手をすれば川の水を飲んでしまいそうだ。

(おら、どうしたチャーリー! 鎧のメスガキ、落とすんじゃねえぞ)

(私に構っている場合かキュムラス。貴様こそ、さっきからろくに移動できていないだろう。自分がグレッグを落としそうだからと言って、私もそうだとは思わぬことだ)

 飛び交う念話の中に、リサとエマーユの『声』がない。

 マミナは川の流れに全力で抗い、歯を食いしばってキースの身体を支えていた。

 モノケロスたちにせよマミナにせよ、飛行能力をもちながらも濁流に身を任す状態となっているのは、主にケット川周辺で荒れ狂う烈風、および視界の悪さのせいである。

 ただ飛ぶだけなら、結界を張りながら飛ぶことだってできる。視界が悪いのは確かだが、太陽の位置は確認できているから、長距離の移動ならばさほど差し支えはあるまい。

 しかしそれでは、戦闘中さながらの魔力消費が強いられる。その上、極端に悪い視界のせいで、捜索効率などまるで期待できない。

 ただし、探し人が川の中にいることは確実だ。そこでこうして濁流に流されそうになりながらも、全力でそれに逆らっているというのが現状なのだ。

(もう、なにしてんのよ二号。のんびり気絶なんかしてる場合? 見なさいよほら。あたしキースにぴったり密着してるのよ)

 キースの肩ごしに目を凝らすが、視界に映るのは濁流のみ。

(羨ましいでしょ? ……だったらとっとと出てきなさいよっ。ホントに、どこにいるのよ二号)

 突如としてケット川を覆った闇は、先ほど確かに消え去った。しかし、視界が利かない状況が好転することはなかった。

 ブルーサーペントが周囲に撒き散らした衝撃波のせいだ。


 自爆。

 巨大な魔物の、突然の消失。

 まさかの結末は、しかし新たな脅威を齎した。

 渦だ。

 ケット川の中央が低く窪み、渦巻く濁流が吸い込まれてゆく。

 渦の最外部は奔流と化し、川岸を超えて流れ出てゆく。


 姿の見えぬリサとエマーユも、おそらくは渦の中心へと流されている最中であろう。あるいはすでに——。

 否。マミナは頭を振ると、不吉な想像を脳内から追い出した。

 今この瞬間、渦の中心からはほんのりと光が漏れ、時折得体の知れぬ泡が立っている。見る者にさらなる異変の前触れを予感させずにはおかぬ異様な現象だ。

 一刻も早くリサとエマーユを見付けなければならない。決して彼女らを渦の中心に飲み込ませてはならない。そう決意させるに足る不気味さが、そこには在った。

 あるいはまだブルーサーペントが生きていて、渦の下で息を潜めているのかも知れない。

 魔物の巨体は確かに消えた。だが、この場に集う誰一人として、かの大蛇が粉々に破裂する瞬間を目撃したわけではないのだ。

(ならあの化け物、まだ生きてるのかしら。……いえ、それはないわね。バネッサの去り際の命令らしきものをブルーサーペントが聞いた。その結果が、さっきの爆発だったはずだもの)

 大蛇は消えた。しかし自分たちはまだこうして生きている。それが今回の戦いの結果の全てだ。

 努めて楽観的になろうとしたマミナだったが、次の瞬間には自戒する。

(ううん。油断は禁物ね)

 この自分の身体を引き千切ろうとした時に見せた、バネッサの凄まじい形相を思い出して身震いする。

 あのロレイン族のことだ。どんな嘘をついているか判らないではないか。

 気を引き締めつつも、こうして想い人たる少年の胴に両腕をしっかりと巻きつけているのを自覚して頬を緩ませる。


 ——一時的なこととは言え、折角この人と同じサイズになれたんだもの。


 わずかに口角を上げたが、またすぐ元に戻す。

 本来の自分と比べると、身長は約五倍ほどにまで伸びた。しかし体型は完全な相似形とは言いがたい。同世代であるはずのエマーユと比べて十セードほど背が低いのは仕方ないとしても、ここまで幼児体型ではなかったはずだ。

 それよりなにより胸!

 比べる対象が雲の上ではあるが、エマーユの胸を思えば自分のそれはぺったんこと表現するしかない。身長三十セードの時にはきちんとお椀形に盛り上がっていたというのに。

 こうしてキースの背中に密着していても、ほとんど隙間ができていないことを自覚してこっそりと溜息をつく。この体型は数年前の自分と相似形なのだ。せっかく大きくなれたというのに、外見は実年齢より幼くなってしまった。

 それでも。

 このサイズであれば、キースと一緒にできることが格段に増える。今すぐ試してみたいことを含めて、やりたいことなら山ほどある。

 だが、そんなことを言っていられる状況ではない。フェアリーの社会でははぐれ者だったマミナだが、そのくらいの分別は弁えているのだ。目下の最優先事項は、彼の助けとなること。そして、本来の目的であるリサ救出を成功させ、エマーユと手を取り合って帰るのだ。

 いつ元のサイズに戻ってしまうか判ったものではないのだから。

(それまでの間は絶対に)

 ——あたしがこの手で、あなたを守ってみせる。

 心の中でぐっと拳を握る。

(どうした、マミナ)

(ん、なんでもないよっ)

 胸中での独白とは言え、強く念じれば、それは念話となって相手に届いてしまうことがある。

 それはもちろん、彼女としてはきちんと言葉にして伝えたい想いであることに違いはないし、その一部はこれまでにも公言してきたことである。

 だが、今はその時ではない。何より、エマーユのいない時にアピールするのは、どこか違うという気がしてしまうのだった。


 ——早く出てきなよ二号……、エマーユ! あんたがいないと、あたしたちの王子様(キース)が腑抜けになっちゃうんだからね。あたしだけでは……、きっとあたしでは……。


 ケット川の濁流を睨みつけるが、どうにも視界がぼやける。飛沫が目に入ったのだ——そう思うことにした。

「あんたが早く出てきてくれないから、余計なことを考えちゃうじゃない。……エマーユのばか」

 口を開けば水が飛びこむ。ほぼ口を閉じたままの独り言はろくに声を伴うことはなく、もちろん念話で飛ばすこともしない。それはケット川の烈風にあっさりと吹き散らされてゆく。

 気持ちを入れ替えるついでに、周囲を見回してみる。ブルーサーペントやバネッサに限らず、残敵が完全に消え去ったかどうか未確認なのだ。警戒を解くべきではないだろう。

 しかし、やはりというべきか、どちらを向いても視界が悪い。荒れ狂う渦の外縁では、濁流という名の鉄槌が川岸を突き崩し、土塊が舞い上がって陽光を遮る。勢い余った濁流の一部も高い壁となって屹立し、渦に翻弄される戦士たちに陰を落とす。

(くそ、ただ流されるだけじゃ埒が明かない。エマーユ! どこだ、エマーユっ)

(キース、落ち着いて。動くのはあたしに任せて! でないと、二人とも流されちゃうよっ)

 一応、マミナの魔力が働いており、苛烈な渦の中にありながらもキースたちは一定の速度で動いている。しかし、陸上における亀の歩み程度の速度というのはキースを焦らす結果に繋がった。ついに彼は、自らの腕で荒々しく川の水を掻き分け始めたのだ。

 流れに逆らい、無理やり水を掻き分けるキース。その力は凄まじい。現状、マミナの筋力と魔力は、体のサイズ相応に跳ね上がっている。だというのに今にも振りほどかれそうな勢いだ。

 だが残念ながら水の民ならぬ身のキースでは、渦の奔流の中でいくら水を掻いたところでろくな推進力が得られるはずもなかった。

「————んんっ」

 彼の胴体にしっかりと巻き付けた細腕が、今や小刻みにふるえ始めている。

(スーチェ、グレッグ! こっちはリサもエマーユも見つからないわ。そっちはどうなの?)

(誰だてめえ)

 間髪容れずにキュムラスが応じた。念話がつながったことで、お互いの現在位置を大まかに知覚する。彼はフェアリーの少女による簡単な自己紹介を聞くと、すぐさま報告を寄越してくれた。

(マミナっていうのか、俺はキュムラスだ。さっきからグリフォンの声が聞こえてる。(やっこ)さん、誰か拾ったようだな。どっちかはわからんが、グレッグの野郎が落ち着きを無くしちまって大変なんだ。辟易してるところだぜ)

 向こうも似た状況なのね、と共感めいた想いを胸に、彼女はこっそり溜息を吐いた。

(でもそれなら、どちらかは助かったってことよね)

 モノケロスに勝るとも劣らぬ強力な魔力をもつグリフォンのことだ。人ひとり拾った程度で渦に飲み込まれる心配はあるまい。だからリムスが助けたであろう人物のこともひとまず心配ない。

 そのように考えているためか、キュムラスが寄越す念話の『声』は軽やかだ。もっとも——

(……ったく、なんて渦だよ。泳ぎにくいったらありゃしねえ。こんなことなら、俺も水泳教室とやらに通えば良かったぜ。やってんだろキース? 人間はそういうこと)

その軽口には隠し切れぬ焦りが含まれているのもまた事実であった。

 川の上空では烈風が吹き荒び、根こそぎ引き抜かれた大木さえもが竜巻に巻き上げられている有様だ。川に飛び込んだのは決して悪い判断ではなかった。しかし、苛烈な渦が邪魔をする。マミナより遥かに強力な、魔力と筋力の塊と言うべきモノケロスでさえ、この渦に逆らって泳ぐのは難しいのだろう。

 そこへもう一頭のモノケロスからの念話が割り込んだ。

(リサを見つけたっ)

 朗報だ。だが、チャーリーの『声』はまるで戦闘中さながらの緊迫したものである。

 知らせを受けて、グレッグが歓喜の雄叫びを上げた。その肉声はマミナの耳にもしっかりと届く。

 だが——

(あわてるな。喜ぶのはまだ早いっ。リサの手を掴んでいるのはスーチェだ。手を貸せ、早く! スーチェの腕力では、そういつまでも支えきれん)

 切羽詰まった状況だ。

 キースは眉間に皺を寄せている。彼の脳裏に浮かぶのは、ワルキュリア号での一幕であろうか。

 あの時も、湖に落ちかけた魔法戦士を支えたのはスーチェだった。

(あっ、肉眼でも見えたっ。助けにいくよ、キース)

(おう、頼むぞマミナ)

 リサは見つかった。ならば即座に助けて、一刻も早くリムスのもとへ飛んでいきたい。荒れ狂う烈風が障害となって立ちはだかるが、水面ぎりぎりを飛ぶならば少しは影響を抑えられるだろう。なに、これを乗り切れば任務完遂だ。残りの魔力を惜しみなく使って結界を張ればよいのだ。

 虹色の光が弾けた。フェアリーの羽根が展開する。

 だが、マミナたちが行動するよりも、グレッグの方が早かった。

(グレッグ、戻れ! 無茶すんじゃねえっ)

 キュムラスからの念話は、まさに怒声そのものだった。肉声こそ聞こえて来ないが、実際に声を荒げて叫んでいるのではないだろうか。

(くっそ、世話の焼ける……。って、俺より早い!? おいおい、グレッグって狼男だよな。まるで水の民みたいじゃねえか)

 キュムラスの『声』からは怒りの響きが鳴りを潜め、純粋な驚きに取って代わった。

(やれやれ、愛の力ってやつかしらね。リサとグレッグのことは任せたわよ。こちらはリムスの方へ向かうわ)

(おうよ、任された。しっかし、ぴったり寄り添っちゃってまあ……。ませた幼女だな、おい)

(うっさい、幼女じゃないもん!)


 ——いけない!


 キュムラスとの間で気の抜けた遣り取りをしながらも、腕はしっかりとキースに巻き付けていた。一瞬たりとて力を緩めはしなかった。

 それなのに。

 腕が左右に分かれてしまい、慌ててキースにしがみつく。

(マミナ?)

(どうしてっ!?)

 腕が届かない。もう一度、彼の胴体に巻き付けようとしているのに。

(なんで今——、まだだめなのにっ)

 彼の背がどんどん大きくなっていき、やがて視界を埋め尽くす。

 慣れ親しんだ背の広さ。

 もちろん判っている。彼が大きくなったのではない。自分が元のサイズに戻ったのだ。

 バレグのアイテムが、その効果を失ってしまった。

 それだけではない。

 魔力切れの疲労感、それに伴う強烈な睡魔が小さな身体に襲い掛かる。

 特に魔力を使い過ぎた覚えはない。考えられる原因としては、巨大化している際に魔法を使ったことだろうか。身体のサイズ相応に魔力が増幅されたように感じていたが、マミナ自身の魔力総量が増えたわけではないのだろう。

 体のサイズに応じ、一時的に瞬発力が跳ね上がっていただけなのに違いない。

 その状態で制限なく魔法を使ってしまうと、いずれその反動に苛まれるのかも知れない。

(多分、そういうこと。今が……その時ね……)

(しっかりしろ、マミナ!)

 異変に気付いたキースが、元のサイズに戻ってしまったマミナを両手で包み込む。

 だがマミナは、微睡む意識に鞭を打ち、大きく目を見張った。肉声で警告の叫びを上げる。

「キース、後ろっ! 渦の奥から——」

 ほぼ同じタイミングで、仲間たちも叫び声を張り上げる。

 ぎょっとして振り向くキースの肩に二本の足で立つと、彼と共に目を凝らす。

 相変わらず烈風吹き荒れる中、視界は少し晴れてきた。やがてぼんやりと見えてくる禍々しいシルエット。渦の中心にそそり立つ巨大なものが、ゆらゆらと蠢いている。

 三つ首の大蛇。

 敵は健在だったのだ。

 あの衝撃波は、自爆によるものではなかった。

「休憩していやがったってことだな」

 肉声とともに歯ぎしりする音が、肩の上にいるマミナにはっきりと届いた。

 三十セードの自分ではできることが限られてしまうが、まだ何ほどの手助けもできていない。少し疲れたからと言って、休んでいる場合ではない。

 そんな想いと共にキースを見つめてみて、改めて気づく。

 先ほどの戦闘の最中か、川に飛び込んだ際か。彼の服はところどころ裂け、裂傷や打撲の痕を覗かせている。

「ん、ありがとな、マミナ」

 治癒魔法だ。打撲さえ癒す魔法が彼の傷を消し去る。

「な、なんだ!? 俺の魔力が回復していく……だと? おいやめろ、無理するなマミナ! お前、限界だろう」

「この身体じゃ、あなたを運べないもの。それでも力になりたいの。だから今こそ、無理をする時よ」

「……この莫迦」


 晴れて行く視界の端で、風に巻き上げられた大木が飛んでいく。

 渦の最外部あたり。

 大木は唐突に、光に包まれる。

 ——蒸発。

 瞬き一つ分にも足らぬ間の出来事だった。

 結界だ。おそらくはブルーサーペントの魔力によるもの。

 

「ちっ。檻の中で猛獣と戦えってか」

 その声には強烈な闘志が漲っている。マミナは微笑んだ。

「がんばって、あなた」

 ついでに頭を撫でようとしたが、その手が届かない。

「……あれ?」

 足が肩から離れている。

 飛び上がったつもりはない。既に魔力切れで、羽根を展開できないのだ。

「マミナっ!」

 彼がこちらに手を伸ばしてくれている。

 応じるように手を伸ばすマミナだったが、もうお互いの手は彼女の身長よりも離れている。

 三十セードの身体など、とても軽いものだ。

 横薙ぎの突風が、その身を吹き飛ばしてしまうのだった。

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