蜘蛛女の退き際
「近づくなと言ったはずだ、ガキ王子っ」
バネッサが怒声を張り上げるのとほぼ同時に、真紅の輝きがケット川を照らす。
キースだ。彼を起点として多数の魔法陣が空中に巨大な円環を形成しているのだ。リムスの背に二本の足で立ち上がっており、その身体からは揺らめく炎のオーラが立ち昇っている。
そちらを軽く睨みつけると、蜘蛛女は口許に残忍な笑みを浮かべた。
彼女は土蜘蛛としては半端者に過ぎないが、セイクリッドファイブとしての強大な魔力により、土中移動能力は熟練の土蜘蛛忍者に匹敵するほどに引き上げられていた。
そんな彼女が手痛い敗北を喫した相手は、誰あろうキースなのだ。
強い恨みに衝き動かされる蜘蛛女としては、先刻発した見逃すかのような言葉は本心ではないのだろう。実際、いかに余裕のありそうな笑みを浮かべていても、金髪王子を睨みつける赤い瞳は爛々と燃えている。
「やれ、ブルーサーペント」
バネッサの短い命令に従い、水槍が次々と囚われの戦士たちに突き込まれていく。
そう、彼女はまず、王子の仲間たちへの攻撃を優先したのだ。
「ああっ」
「ふははは!」
エマーユが絶望の声を漏らし、バネッサが哄笑する。しかし——
「なにいっ!?」
驚愕の叫びは蜘蛛女のものだ。
全ての水槍は魔法陣に弾かれ、消滅してしまった。
わずか一瞬で魔法陣は戦士たちに届き、彼らを守る盾となったのである。
「うううううおおおおおぉ」
裂帛の気合。
キースの雄叫びが谺した。
するとそれに応えるように、魔法陣の輝きが増してゆく。
光が弾け、水蒸気が上がる。
一拍遅れて、霹靂のごとき咆哮が轟いた。
聞く者の肚を揺さぶる吠え声は巨大な魔物——ブルーサーペントのものだ。
しかしそれは、随分と苦しげな呻きを連想させるものでもあった。
五本の水柱のうち、バネッサの足場となっているものだけを残して、他の四本は消滅してしまったのだ。
いま、ブルーサーペントは三つの首を激しく振り回し、不規則に吠え続けている。接近しつつあるキースたちを攻撃することにさえ気が回らぬ様子だ。
水飛沫が飛び散り、魔法陣を潜り抜けるようにして空中へと飛び出す影が二つ。
二体のモノケロス——チャーリーとキュムラスが嘶いた。
彼らの背には、剣を構えたスーチェとグレッグの姿がある。厳しい責め苦の中にあってさえ、彼らは己の武器を手放さなかったのだ。
いま、二人の剣は炎を纏っている。キースの魔法陣を潜り抜けるのと同時に、炎の魔力を付与されたのであろう。
「何故だあっ! 貴様といいドレンといい、元はただの人間だというのに」
魔法陣は直径五十アードに達しようかという巨大な円環を形成し、バネッサとブルーサーペントを取り囲むようにして宙に浮いている。
それと同じことをしたら、自分なら何秒間維持できるだろうか——
そう考えてしまったバネッサは、思わずといった体で首を左右に振った。
「あたしより遥かに魔力量が多いというのかっ。認めん、認めんぞ」
「残念だったわね、半魚人」
身体を引っ張られる苦痛に歯を食いしばりつつも、マミナが憎まれ口を吐いてみせた。
「うるさい、虫ケラ。お前なんて縮んでしまえ!」
「うああああああーっ」
マミナの悲鳴に眉一つ動かさず、蜘蛛女は声を張り上げた。
「ぼうっとしてんじゃねえよ、クソ大蛇っ! 川の水ある限りてめえは不滅だっ。周りを飛び回る蚊トンボどもをさっさと喰らい尽くせ」
ようやく苦痛から立ち直ったのか、ブルーサーペントは三本の首をそれぞれ別の方向へ伸ばした。拳大の水鉄砲を矢継ぎ早に撒き散らす。
その程度の攻撃ではモノケロスやエマーユの結界を貫通することはない。だからといってそう簡単に接近を許すわけでもない。
水鉄砲を目くらましにして、水槍による突きも織り交ぜて戦士たちを襲う。
それらを難なく躱すリムスやモノケロスたち。しかし時折、やり過ごしたはずの水鉄砲が水槍に姿を変え、背後から襲いかかるという変則攻撃も織り交ぜ始めた。
そのため、モノケロスもエマーユも全周囲に結界を張ることを余儀無くされ、スタミナが加速度的に削られてゆく。必然的に攻撃を担うのはスーチェとグレッグ、そしてキースの三人に絞られた。
とりわけ、直前まで締め上げられていたモノケロスたちは目に見えて動きが鈍っている。
スーチェも、傷口の塞がったグレッグも、お世辞にも動きにキレがあるとは言い難い。
そうなると、バネッサにとって警戒すべきはキースただ一人である。
「くははは、ビビらせやがって。ジリ貧だなぁ、ええ? ガキ王子さんよぉ」
「くっ……」
悔しげに呻くキースの口数は少ない。肩で息をするその様子からは、スタミナが限界に近づきつつあることが見て取れた。
「くははははぁ! 褒めてやるよ、ガキ王子。ブルーサーペントから人質四人を解放しただけでも大したもんだ。だけどなぁ」
轟音とともに水柱が立ち上がる。
ほぼ等間隔に巨大な円を描くように立ち並んだそれらは、キースによる魔法陣のさらに外側を取り囲んだ。
「ご苦労さん。てめえらはケット川そのものを相手にしたようなもんさ。さっさと諦めな」
「黙んなさいよ、このあばずれっ」
「ああん?」
手元で叫ぶ少女の声に、片目を眇めて視線を落とす。
「折れない虫ケラだねぇ。小さいくせに無駄に頑丈な身体してやがる。引き千切れないなら押し潰すまで。くふふ、縮め縮め縮めえっ」
「ああああああっ!」
「マミナ——」
少女の名を呼びながら、キースはリムスの背から空中へと身を投げ出した。
「——————っ!」
その背後で、声にならない叫びを上げつつ手を伸ばすエマーユ。
「無茶を」
スーチェもグレッグも、キースへと腕を伸ばす。
しかし彼らは水槍の妨害に遭って回避するモノケロスたちの背から降りられるわけもなく、こちらへ近付くことができない。
「ははははははは! ははは…………は?」
虹色の閃光が蜘蛛女の目を灼き、その哄笑は中断した。
「調子に!」
バネッサが大きく仰け反った。彼女の手から逃れたマミナが得意の蹴りを放ったのだ。
高々と振り上げられた爪先は蜘蛛女のこめかみを痛打し、脚を振り抜いた勢いそのままに一回転したフェアリー。格闘の構えをとって蜘蛛女と対峙する。相手をわずかに見上げる姿勢で睨みつけるマミナの両足は、水柱をしっかりと踏みしめている。
「痛っ! 上等だ、てめえ——。な、その身長はっ!?」
バネッサが驚愕の声を張り上げ、その意味に遅れて気付いたマミナ自身が戸惑う声を上げた。
「え、え? あたし、おっきくなってるうっ!? ……胸はぺったんこだけど」
二人のすぐそばで水飛沫が上がった。
「待たせたな、マミナ」
柔らかい笑みを浮かべた金髪王子が、すぐそばに立って赤髪の少女を見つめている。
「よくやった」
頭を撫でた手が肩に置かれ、身長百五十セードとなったフェアリーはキースに飛び付いた。
この場の誰も、この時点では気付いていない。
戦闘に及ぶ直前、バネッサは〈幼竜の魔笛〉を吹き、マジックアイテム無効化を目論んだ。
しかし筋肉冒険者が〈精霊の多情〉を使ったことで、バネッサが扱うマジックアイテムの効果は反射される状態となっていたのだ。
ところで、マミナはバレグ作製による身体のサイズを縮めるアイテムを携行している。
そんな彼女に対し、バネッサはそれと知らぬままアイテム起動キーワードを唱えてしまった。
反射、というよりは反転というべき効果が発揮された結果が、今マミナの身に起きている現象の正体なのだ。
「バネッサ。お前の言う通り、俺には覚悟が足らない。言葉が通じる相手なら、話し合えばわかりあえるんじゃないかと思ってる。それは今でも変わらない。だが、一つだけ変わったことがある」
「……ふん」
蜘蛛女を睨みつける碧眼が、唐突にその色を変える。オレンジ色に輝いた。
「敵には容赦などしない。今ここで、お前を排除する」
「ばぁーか」
新たな水柱が立ち上がる。
そこには——。
「リ、リサ!!」
再び囚われの身となった金髪少女。相変わらず意識がないところを見ると、バネッサは催眠系の魔術をかけたのかもしれない。水の民が水の中にいて回復しないというのは、それほどに考えにくいことなのだ。
「無事なのか!? しっかりしろっ」
グレッグの叫びが聞こえるが、水槍の先端がリサを狙っているせいで迂闊に近寄れずにいるようだ。
「あたしを殺す覚悟ができたところで、仲間を見殺しにする決断ができないようじゃ、ね。激甘がせいぜいちょい甘に変わった程度さ。まだまだ足らないよ、全然ね」
狼男の叫びを尻目に、冷ややかな言葉を吐くバネッサはじりじりと後退していく。
「邪魔なものも、なかなか手に入らないものもさっさと捨てる。あたしはそうやって生きてきたんだ。ただ一つ、復讐することだけを生き甲斐にね。……この場は一旦退かせてもらうよ」
言うが早いか水柱に潜り、激しい水音と共にあっという間に遠ざかってゆく。
川面で顔を出した蜘蛛女は、大声を張り上げた。
「ブルーサーペント、最後の命令だ。こいつら道連れにして虚無に還れ! あーはははは!」
はっとして振り向くキースとマミナ。水槍の群れがいま、リサの身体へと突き込まれてゆく。
「くそおっ!」
もう一度魔法陣を離れた場所へ飛ばすには、キースのスタミナは足りない。焦れた叫びは水槍の風切り音にかき消されてしまった。




