猛禽の急降下
「な――っ!」
エマーユの左右から押し殺した驚嘆の声が届く。姿なき声――スーチェとグレッグだ。
彼らの見下ろす視線の先、ケット川から突如として姿を現したのは紛れもなくブルーサーペントである。見えている部分だけでも体長十アードはありそうだ。
「さすがは伝説の魔物。しぶといな」
金髪王子の冷静な呟きが耳に届いた。その背中に言葉をかける。
「ねえキース。あの大蛇、この間斃したのと同じだと言うの?」
「同じ……」
言葉の一部を繰り返して思案顔になった彼は、続けてこう呟いた。
「そうか、別の個体だという可能性もあるのか。たとえばつがいとか」
どうやらその可能性を考えていなかったらしい。
そこへ、チャーリーが念話を寄越してきた。
(つがいなどではない。奴は途方もない年月を生きる化け物だぞ。性別などとうに超越している。……いや、もしかしたらもともと雌雄同体なのかもしれないな)
彼女は眼下のブルーサーペントが因縁の個体であることを疑っていない。その根拠として、次のように述べた。
(奴は前回対峙した時と同じ魔力の色をしている)
「色か。俺にはそういう捉え方はできないな」
(ただの比喩だ。明確な根拠はない。だが、奴はあの日、船を襲った大蛇に違いない。私はそう確信している)
エマーユは小首を傾げ、口を挟んだ。
「でもあいつの魔力の波動、なんだか弱いわよ。あの日ほどの威圧感がないもの」
その言葉と共に大蛇を注視する。
「だからって油断すべきじゃないとは思うけれど」
(うむ。復活が不完全なのか、それとも――)
大蛇の首の一つがこちらを見上げ、口を大きく広げた。何かを仕掛けるつもりだ。
——危ない。
仲間たちに警告をしようと口を開いたエマーユだったが、声を出すことができないまま息を吸い込んだ。
「――――っ!」
視界が急激に回転したのだ。
反射的にキースにきつくしがみつく。全身の臓物が下半身に集まってゆくかのような錯覚に見舞われ、エマーユは歯を食いしばった。
リムスが急上昇してゆく。姿こそ見えないが、おそらくモノケロスたちも同時に。
ブルーサーペントの首の一つが、口から勢いよく何かを噴き上げたのである。
そう認識すると同時に、エマーユは結界を張った。強度も範囲も落ち着いて指定してなどいられないので、とりあえずリムスの背後を守る盾として。
高所から低所へと射かける矢をも上回る速度で飛来したそれは、人間の頭部ほどの大きさをもつ球状の塊だ。結界の展開からほぼ時間差なく、魔力の盾に命中すると弾けて散った。
その実体は何らかの液体だ。四方八方へと飛沫となって飛び散り、雫となって湖面へと落ちてゆく。
一方、認識阻害の魔法を継続中のモノケロスたちは、エマーユと違って咄嗟に結界を展開する余裕がなかったらしい。
「飛沫がかかったぞ。無事か、チャーリー」
「問題ない。それより、声を出すことで存在に気付かれては面白くない。大声は出すな、スーチェ」
「キュムラスは大丈夫か」
(だからてめえも声出すなっての、グレッグ。念話くらい覚えやがれ。言って見れば人魔ハーフみたいなもんなんだろ)
液体の正体が仮に溶解液だったとしても、スーチェとグレッグは心配ない。スーチェはすでに全身にパウダーを塗布済みだし、グレッグには自己再生能力がある。だから彼らは、自分を乗せてくれているモノケロスを心配して声をかけたのだ。
続けて襲い来る水の矢を、三頭は危なげなく避けてみせる。エマーユも結界の角度を調整し、もし直撃弾を弾いた場合でも飛沫が仲間たちにかからぬよう配慮した。念のためだ。
「溶解液……じゃないわね。多分、川の水だわ」
「ただの水とは言え、あの勢いは驚異だ。直撃を受けたらリムスの羽根に穴が開くかもしれない」
こちらの現在高度は水面から九十アード、大蛇の口から八十アードは離れているというのに、余裕で射程圏内に捉えられている。ここから目測でさらに四十アード、それが水の矢の最高到達点だ。
事前のブリーフィングではスーチェ・チャーリー組が先制攻撃を行う予定だったが、逆に初手を許してしまった。
水の矢は幾度となく直撃コースを飛来する。ランダムな回避運動を行うリムスが射程圏外へ飛び上がるまでの間、エマーユは攻撃のいくつかを結界で防いでみせた。
「どう思う、エマーユ」
「ただの威嚇じゃないわね。バネッサはこちらの正体に気付いてるのかしら」
「そりゃ気付いてるだろ。そうでなきゃあの化け物を出してこないんじゃないかな」
「なら、あたしたちのことを手持ちの最強戦力で足止めしておいて、その間にリサを連れて逃げる作戦なんだと思う」
「……だな。バネッサの奴がまだリサの力を聞き出せていないという前提での推測だが」
リサの境遇を想像したのか、キースは苦い顔で唇を噛んだ。
「さて、どうするか。予定通り戦力を分割してでもグレッグたちをアジトに潜入させるべきか、それとも全戦力でもって大蛇排除を優先するべきか」
「時間をとられるのが一番まずいわね。最小戦力で大蛇を斃すのがベターだと思う」
エマーユが提案した直後、念話が割り込んだ。ルーナからだ。
(殿下。筋肉さんが大蛇を引き受けるって言ってるわ。止めたのに、あたしのことを岸で下ろしてリザードマンに乗って——)
(無茶な!)
眉を吊り上げたキースが川面に目を凝らす。
同時に見下ろしたエマーユにもはっきりと見えた。たしかに筋肉冒険者が単独でリザードマンに乗り、ケット川に入っている。
(ちょっとちょっと! 急すぎてあたしまだ筋肉さんの鎧から脱出してないんですけど!)
その念話はマミナからのものだ。
「なんですって!?」
エマーユが大声を上げた。
バレグが作製した身体のサイズを縮小するアイテムの効果は条件によっては半日ほど続く。それにより、今のマミナは身長わずか三セードとなっているのだ。
今のところ強制的に元のサイズに戻る方法がなく、戻るには自然に効果が切れるのを待つしかない。
さしあたって何が問題かと言うと——
(このサイズでいる間、あたし飛べないし! もともと泳げないし! なんでこの脳筋、化け物に特攻してんのよ。自殺志願者なの? 莫迦なの死ぬの、……ってあたしが死ぬ助けて!)
(落ち着いて。あなた正妻なんでしょ)
(何よ二号。今それ関係ないよね)
(必ず助ける、少し待て)
(待つ! 信じてるよキースっ)
いったん川面から目を離し、顔を上げた金髪王子は指示を飛ばす。
「スーチェ組とグレッグ組は認識阻害魔法を維持したまま敵アジトへ潜入せよ。位置は大蛇の北側、二十アード。ルーナの情報なので、嘘や間違いの可能性も視野に入れ、警戒を怠るな。潜入後、バネッサと遭遇しても無闇に仕掛けるな。リサ確保が最優先だ」
(……了解)
気配さえ隠したまま、左右のモノケロスたちが川面へと向かう。
「行くぜ、エマーユ。頼むぞ、リムス」
「はい」
エマーユが返事をするのと同じタイミングで、リムスも雄叫びを上げた。
「三分で斃す!」
キースは呪文を唱えた。
オレンジ色に染まる二人を乗せたグリフォンは、姿勢を前傾させると急降下を開始する。
ブルーサーペントめがけて一直線に。




