独裁者の道楽 2
いかに隠密行動に優れた土蜘蛛と言えど、スカランジア帝国領に直接潜入するのは難しい。人知れずスカランジア帝国を牛耳る闇の民、もしくはその眷属が、帝国内の人間を常に監視しているに違いないからである。
ベルヴェルクはヴァルファズル王の特命を受け、現在サルトー・リラ王国城に潜入していた。サルトー・リラ国王のジマイル・ハリアーが近くスカランジアへ出向くという情報を入手したため、従者の一人とすり替わったのだ。
折しもスカランジア側から使者が訪ねてきており、ジマイル・ハリアー王と謁見している。謁見の間は人払いされたため、従者といえど同席を許されてはいない。
しかし身を隠す遮蔽物の極端に少ない部屋の中、姿と気配を見事に消して聞き耳を立てている。土蜘蛛忍術の真骨頂である。
ジマイル・ハリアーは四十八歳だが、ところどころ薄くなった白髪と、あまり覇気を感じられない眠たげな瞳をした人物である。百六十セード足らずの身長は成人男性としては低い方であり、スリムというよりどこか病的に痩せているその体格は、見る者に国王とは思えないほど貧相な印象を与えてしまう。
対するスカランジア帝国からの使者はランディと名乗った。二百セードを超すほどの長身で、長めの銀髪と青い目をした彫りの深い顔立ちの軍人だった。軍服の上からでも隆起した筋肉がわかるほどの逞しい体格だ。
ランディの傍らには三十歳前後の女性が控えていた。軍服らしきものを着ているが、終始黙って立っている。彼女は目が隠れるほど目深に制帽をかぶったままだ。ランディの秘書だろうか。
「さて、ジマイル。少しばかりワイバーンの調整に手間取った。予定より遅くなったが、二週間後に我らはサーマツ王国に宣戦布告する。ついてはこのサルトー・リラ王国の領土も使わせてもらう。対外的な体裁を整えるにあたって、国境が邪魔だ。無論、後でどうとでも取り繕うことができるのだが、面倒なことこの上ないのでな。予定を早めることになるが、今すぐ国土を明け渡せ」
ランディは、一国の国王に対して遠慮会釈のない高圧的な言葉を浴びせた。
——やはり形だけの王国だったか。
ベルヴェルクはサルトー・リラ王国の実態を再認識した。
スカランジア帝国は恐ろしい勢いで国土を拡大してきた。これ以上国土を広げると、アーカシサン王国あたりが黙っていないだろうし、他の国家もスカランジア帝国を警戒するようになる。そこで、帝国はサルトー・リラ王国を形だけ独立した国家として残しつつ、実質的な属国としていた。それを今すぐ吸収しようというのだ。
ジマイル王が自発的にスカランジア帝国に赴き調印することで、サルトー・リラ王国の希望による合併という形をとることができる。もっとも、自発的な調印だろうと戦争による併呑だろうと、周辺諸国の警戒感が強まることには違いないのだが。
開戦を決めて、もう大陸内のどの国に対しても配慮など必要ないと言うのだろうか。
「お待ちください、ランディ殿」
仮にも一国の王たるジマイルは、一介の軍人に過ぎない使者に対してひたすら低姿勢に、しかし精一杯の勇気を振り絞って細い声を張り上げた。
「予定ではまだあと一年残っております。皇帝陛下への引き継ぎがございますので――」
皇帝陛下というのはスカランジア帝国の王、ユック・ダクのことである。大陸において国王のことを『皇帝』と呼ぶのはスカランジアただ一国のみであった。
「こちらとしても、一年とは言わず可及的速やかに支度いたしますれば、せめて半年のご猶予を」
ジマイル王は額の汗を拭いつつ、目を精一杯開いて言い募る。
「必要ない。貴様には毎月報告書を提出してもらってきた。わが主は全て把握しておる」
ランディは面白いものを見るように口元を歪めつつも、冷たく言い放つ。
「しかし、報告書に記載しきれぬ細かい点で――」
「くどい!」
ジマイル王に一喝した後、ランディは口調を変えて穏やかにさえ聞こえるトーンで言った。
「ふっ、判っておるぞ」
しかし態度は最悪だ。顎をなで、歯を見せて冷笑を浴びせる。
「――は? な、何を……」
「国家予算を使い込み、誤魔化す方策を探しているところだったのだろう? それすらも把握していると言っておるのだ」
サルトー・リラ王国は、現状すでに属国どころかスカランジア帝国領と同様の扱いとなっている。この国の国家予算は、他の地方都市と同様にスカランジア帝国が振り分ける予算によって賄われているのだ。
「ひ……ひっ」
監視しているベルヴェルクが気の毒に思うほど、ジマイル王は震え始めた。
ランディは笑みを消し、鋭い視線でジマイル王を睨めつける。ややあって、その厳しい表情が穏やかに緩む。
「だが、我が主は寛大なお方だ。都合により一年早く国土を明け渡してもらうかわりに、金の使い込みについては目を瞑るとの仰せだ」
ジマイル王は心からほっとした様子で、玉座からずりおちながら礼を言った。
「あ……ありがたき幸せ」
玉座から降りたばかりか土下座までしている。もはや王として振る舞うこと自体を放棄してしまったようだ。
「ふむ」
鷹揚に頷いて見せたランディの視線が、ジマイルから離れる。左右を窺うと、口角を上げた。
「話は終わりだ。……さて、ジマイル。悪いが、衛兵を三……いや、四人ほど貸してもらえるか。実は人手不足でな。今回、私とこの秘書官だけでここに来たのだ」
「は? はい、今すぐ」
ジマイルはランディの要求に疑問を感じつつも、いちいち問い質したりしない。もとより、彼には逆らう選択肢など用意されていないのだ。廊下に出て、衛兵を呼ぶ。
「お前はこの謁見の間からしばらく出ておれ」
「構いませんが、また何故?」
さすがに理由を知りたくなったのか、ジマイルが質問した。
「ふっ。ネズミがな……、いや、毒蜘蛛か。一匹入り込んだようなのでな」
言葉の意味を察したジマイルの顔色が青ざめた。しかし、形だけとはいえ国王を務めてきた男である。下手に騒いだり、部屋の中を探ったりせず、駆けつけた四人の衛兵たちと入れ替わるようにして、黙って廊下に出て行った。
部屋の出口を衛兵に固めさせた後、ランディが口を開いた。
「そこにいるのはわかっているぞ。うまく隠れたつもりだろうが、残念だったな。相手が悪かったと諦めることだ」
「ふん、お見通しか。相当目が良いようだな」
ランディの言葉に対して焦ることなく、ベルヴェルクは返事をした。
「一体何を食べたらそんなに見えるようになるんだ」
軽口と共に、床から生える影。まるで植物が急速に生長するかのように伸びてゆくそれは、サルトー・リラ王室侍従の姿となった。
「うわ――」
驚く衛兵たちを、ランディが一喝する。
「狼狽えるでない! 非常に珍しいが、ただの魔法だ」
まだ動揺を隠せない衛兵たちは、部屋の出口を固めつつも、完全に腰が引けていた。
「やれやれ。やせっぽち国王どのは、ろくに兵の訓練もしておらぬようだ」
ランディの秘書が突然歌い出す。やけに美しい声だ。
「ご苦労、ルーナ」
ランディが秘書に労いの言葉をかけると、彼女は帽子を脱いだ。長い銀髪が流れ落ち、朱色の目が露わになる。彼女はランディに無言でうなずいた。
「まだ答えてなかったな。何を食べたら、という質問に。……人間、さ」
衛兵たちの目つきが変わった。各々の剣をしっかりと構え、ベルヴェルクにじりじりと近付いてくる。
「ロレイン族の暗示か。陸の上で歌声を聞くとは思わなかったよ」
噂では美人と言われているが、当てにならないな――相手は敵とは言え、ベルヴェルクはその一言を言わない程度の礼儀はわきまえている。
「さすがは土蜘蛛。ロレイン族の歌声を聞いても正気を保っていられるとはな」
「子守歌でおねんねする年頃ではないのでな。それにしても」
予想していたのか、全く驚いた様子を見せずにベルヴェルクは本来の姿に戻る。
「侍従への変装など無意味だったか」
ルーナはもう歌ってはいない。だが、衛兵たちの目は虚ろなままだ。
「ふむ。そちらのロレイン族はあんたらの手駒なのかバネッサのそれなのか。……あるいはダブルスパイだったりして、な」
ベルヴェルクの鋭い視線を受け、ルーナは眉をぴくりと動かした。
「無駄な揺さぶりね。ランディ様は何もかもお見通しなのだから」
「ほう」
更に眼光を強める土蜘蛛に向けて、ランディが一歩前へ踏み出した。
「貴様にチャンスをやろう。サシで勝負してやる」
腕組みをして青い目に不敵な光を宿す。
「その前に、この四人を全員斃せたらだがな」
「あんたと勝負するに足る力量かどうか確かめたいのか」
「そんなところだ」
会話が終わらぬうちに衛兵が仕掛けた。
二本の剣が左右からベルヴェルクの体を貫く。
乾いた音が響いた。床に倒れ込み、転がる。
それは木片。土蜘蛛忍法・変わり身だ。
「——————っ」
衛兵がふたり、声もなく倒れた。
いずれも、眉間に手裏剣が刺さっている。
致命傷だ。
刹那、白刃が光を反射した。
「………………!」
またひとり、衛兵が倒れる。
左肩口から右腰にかけて一直線に走る刀傷。一拍おいて、そこから血が噴き出す。
「ぐ……がっ」
押し潰された低い苦鳴。
最後に残った衛兵が、剣で背中から突かれたのだ。
胸から飛び出した切っ先を見詰めると自らの剣を取り落とし、何もできぬまま俯せに倒れた。
床に血の染みが広がってゆく。
かかった時間――わずか十秒。
ルーナは顔色を失い、出口まで後退している。
「……ふ」
ランディが表情を歪めている。
「わはははは! まさか、これほど強いとはな! 久々に楽しめそうだぜえ!」
大声を張り上げつつ、獣人現象を引き起こした。青い目を炯々と光らせ、彫りの深い顔が狼のそれへと変貌していく。
「二十九年前、お前たちの王には世話になったからな。ようやく礼を返す時が来たのだ」
人間に化けていたランディは見た目二十代後半くらいの青年だったが、闇の民は長寿である。ランディは、アーカンドル王国建国の際、実際にヴァルファズルと闘った可能性もあり得る。
「礼儀正しい闇の民だ。ならば、こちらも礼を尽くして答えてやらねばな」
落ち着き払ったベルヴェルクの受け答えを、ランディは訝しんだ。
「気に入らぬな、人間。よもや俺の正体を知っていたか?」
「貴様こそ私の正体を見抜いていたではないか。……だが、もとより土蜘蛛衆は人間であることを捨てている。敵が人間だろうと闇の民だろうと何ほどの違いもない」
「ふむ。流石だな。貴様のことをドレン卿が『骨のある男』と評するだけのことはある」
両雄の会話のさなか、ルーナは静かに廊下へと避難した。
予備動作もなく、ランディが跳躍した。
高い――しかも、速い。
狼男の蹴りが玉座を真っ二つに切り裂く。
そこにベルヴェルクの姿はない。
振り向きざま、狼男が投擲用ダガーを投げる。
しかし、ダガーは空中に静止した。
「ちっ! 蜘蛛糸か」
いつの間にか部屋のあちこちに張り巡らせていた網――土蜘蛛忍法・蜘蛛糸——がダガーを絡め取っている。
土蜘蛛は天井から逆さにぶら下がっていた。
まるで天井に立っているかのような姿勢である。
お返しとばかりに投擲用ダガーを投げ落とす。
避けようとした狼男は蜘蛛糸に退路を断たれた。
彼の右腕に二本のダガーが突き刺さる。
しかし痛みを感じていないかのように、無造作に右腕を振った。
ダガーが床に落ち、高い音が響く。
怪我ひとつしていないようだ。
続く動作で難なく蜘蛛糸を引きちぎる。
再び跳躍する狼男。
「!」
しかし、土蜘蛛はいつの間にか床に直立していた。
「闇を祓うは神威の灯火」
それはマジックアイテム〈黄竜の灯篭〉の発動呪文。
土蜘蛛の胸のあたりが発光し、光る球体が部屋中に飛び散る。
「なんだと…………っ」
着地した狼男に光る球体が襲いかかる。
床を転がって避けるものの、複数の球体に檻のように取り囲まれてしまった。
「土蜘蛛。貴様、なかなかやるな。だがこんなもので閉じ込めたつもりになってもらっては困る」
狼男は言うが早いか、自分を閉じ込めた球体の一つを力一杯殴りつけた。
次の瞬間――。
「ぐわあああああ!」
球体が爆ぜ、狼男の右腕ごと爆散した。
滴り落ちる血が瞬時に止まり、狼男の右腕は再生を始める。
「させん!」
土蜘蛛の言葉と共に、球体の一部が狼男に降り注ぐ。
両足首、左手首。
相次いで爆散し、部屋には焦げ臭い煙が充満してゆく。
「くそ……くそ! 人間の分際で!」
再生が追いつかない。この時点において初めて、ランディは両眼に恐怖の色を宿す。
〈黄竜の灯篭〉にもオリジナルアイテムとレプリカがある。後者は一度限りの使用しかできないのは当然のことだが、球体の個数や移動距離、破裂までの時間などの設定をそれぞれ一種類ずつしか受け付けない。それに対し前者は、使用者の魔力量に応じ、かなり自由自在に設定できるのだ。
ベルヴェルクが使っているのはオリジナルアイテムなのである。
「覚悟」
球体はランディの真上、触れるか触れないかという至近距離で止まった。
突如として現れた魔法陣シールドが受け止めていたのだ。
動きを止められた球体は、爆ぜることなく消滅してゆく。
謁見の間の入り口に、逃げたはずのルーナが立っている。
「貴様、さっきの態度は演技か。これほどの力を……」
彼女の後ろから、別の人物が入室した。
「っ————! 貴様はっ」
新たに入室したのは男だ。彼はルーナにもランディにも関心を示さず、ベルヴェルクを真っ直ぐに見据えた。
ランディは右腕の再生に躍起になっているが、刃物による切断ではなく爆散による欠損であるためか、治すには時間がかかるようだ。
「か、閣下。面目ない……。お助けを」
ランディの言葉は、いま入室した男に対して発せられたものだ。
男は初めてランディに気付いたように視線を向け、告げた。
「ああ、そのつもりだよ」
答えた男は、右手に握る何かをランディに向けた。
「……楽にしてやろう」
ベルヴェルクにはそれが何かはわからない。だが、強力・凶悪な武器であることは察しがついた。
――耳をつんざく破裂音!
ルーナは耳を押さえてうずくまり、ベルヴェルクでさえ呆然と立ちつくす。
火薬の臭いが立ち込めて――。
ランディの服の胸の部分に穴が開き、周囲には焦げた跡。
男が発射した何かがそこに命中したことを示していた。
ランディは見る見る干からびていく。
ワーウルフの死。これほど簡単に……。
男はベルヴェルクに声を掛けた。
「久しぶりだな。土蜘蛛」
男は手に握る武器――リボルバー式拳銃の弾倉を開き、空薬莢を捨てた。
乾いた音をたて、金属片がひとつだけ床に落ちた。一発しか装填していなかったらしい。
「なんのつもりだ。ドレン卿」
ベルヴェルクの声に視線を合わせた男は、濃い色の片眼鏡をかけている。隠された左の瞳が、レンズの奥でアイスブルーに輝いた。




