人狼の襲撃
「いいのか、ヘンリー兄貴。新婚さんが花嫁をほったらかして」
今年で二十二際になる兄のヘンリーに呼ばれ、キースは彼の部屋を訪れていた。いずれもアーカンドル王ヴァルファズルの面影を色濃く引き継ぎ、金髪と青い目をした彫りの深い顔立ちの青年たちである。ふたりを較べると、弟のキースの方がきりっとした目元とすっと通った鼻筋をしており、その顔立ちからは意志の強さが感じられる。
キースは兄ヘンリーの新居であるウメダダ領主館に滞在している。結婚式および披露宴への出席後、帰路はヴァルファズル王と別行動にした。
人間に伝わる『水の民』の伝説には、人と水棲魔族との間における悲恋話が多い。そういった伝説の舞台となった湖を見てみたいという妹のファリヤのために、キースは船と魔法戦士、水の民を手配して水路でアーカンドルを目指し出航する予定を組んだのだ。
「いいんだ。隣国とは言え、移動には船でも丸一日かかる。これからはそうそうお前たちと会えないからな。それに、我が妻ドロテアも、ファリヤやエマーユとずいぶん気が合うようだ」
「うはは。こういう時って、もしかして自分の悪口言われてるんじゃないか、って気にならない?」
「私がか? 身に覚えがないな」
ヘンリーは、皇太子たる長兄マークの口調と仕草を真似して見せた。
「あははは! もしかしてこの先ずっと、そんな感じでマーク兄貴路線で行くわけか。……疲れない?」
「ははは。私では逆立ちしても兄上と同じようには振る舞えん。だが私はここの領主となるために来た。疲れたりなどしないさ」
穏やかな口調の中に、兄の確かな決意を見て取ったキースは、口調を変えた。
「そうか。覚悟を決めたんだな」
「その通りだ。私やお前と違い、兄上やピートはああ見えて奥手だからな」
ピートという名前が出た時点で、キースの表情が若干ながら強張った。アーカンドル王家の三男であるピートは二つ歳上の十九歳。四男であるキースとは幼い頃から喧嘩が絶えず、改まって仲直りすることなく現在に至る。
「あいつだっていい加減、わかっているはずさ。ただ、変な意地があるのは確かだからな。お前としても腹に据えかねるものがあることはわかるが、そろそろ歩み寄ってやってほしいと思うんだ。まあ、ピートもお前も、王家を捨てた兄貴の言葉など聞く耳を持たないだろうとは思うが」
黙って首を振るキースに対し、ヘンリーはやや困ったような笑顔を向けた。
一つ息を吐くと、片目を閉じて告げた。
「ピートは奥手だからな。お前たちの子どもが兄上の跡を継ぐことだって有り得る。お前も覚悟しとけ」
茶目っ気を見せつつも、口調だけはまじめくさって言うヘンリーの言葉に、キースは噴き出した。
「兄貴……。気が早すぎ」
ヘンリーの結婚式及び披露宴への出席に際し、キースはエマーユを同伴してきていた。もちろん、ヘンリーからの招待状あってのことである。ただ、このことによりこれまで以上に、エルフであるエマーユがキースの婚約者として内外に認知されるようになった。
ところで、皇太子のマークは今年二十五歳に達する。王族の婚期としてはかなり遅めの部類に属する。いかなる理由によるものか、マークはあまり縁談に乗り気ではないようだが、国王も王妃もさほど焦った様子を見せてはいない。
「早すぎるものか。第二夫人まで娶った父上と違って、兄上とピートは奥手なんだ。私が王室を出てしまった以上、父上としてもお前たちの子どもに寄せる期待は小さくはあるまいよ」
「うーん。まあ、ゆっくり考えとく」
キースはしばらく黙り込んだ後、ヘンリーに別のことを聞いた。
「ヘンリー兄貴。俺の……実の母上が亡くなったときのこと、何か憶えてない?」
兄弟の中で、キースだけが母親が違う。キースは、出産と同時に亡くなった母のことについて、あまり多くを知らされていないのだ。
「ガンラード伯爵家から嫁いでいらしたアルマイラ母さまか。私とて四歳のころのことだし、身重でいらしたのでほとんど話をする機会も得られなかった」
そうか、と小声で呟くキースに気の毒そうな視線を向けつつ、ヘンリーは言葉を続ける。
「ふたりめの母上ができたと聞かされても、あまり不思議に思わなかった。もう少し大きくなってから、アーカンドルにおいて一夫多妻は国王以外には認められない制度だということを知ったのだ。幼いころのこととは言え、そのことでピートと一緒になってお前に辛く当たったことは今でも悔いている。なにせ、家出してユージュ山に登るきっかけを作ってしまったのは私たちなのだからな。あの時はすまなかった」
「もう何度も謝ってもらったよ」
そのおかげでエマーユと出逢えた、とも言える。それは言葉にせず、キースは微笑んだ。
「……そうか、兄貴も憶えてないか。親父は全然その話題に触れようとしないからなあ」
「兄上なら憶えているだろう。もう七歳だったからな」
キースは、侍従長のペーター・ハカザン卿から実の母の肖像画を何度も見せてもらった。金髪と碧眼は第一夫人であるエイミー王妃と同じ。どこか儚げな印象のあるエイミーと違い、キースの意志の強そうな目元と鼻筋は母親譲りだということがよくわかる肖像画だった。
また、形見の品――ほとんどが女性用の調度品で、ファリヤが譲り受けている――を見せてもらったこともある。しかし、それ以外のことはほとんど何も知らない。
そしてガンラード家の当主はアルマイラの死後ほどなくして亡くなり、ガンラード家に仕えていた者たちは別の貴族のところへと分かれていった。キースにアルマイラのことを話してくれるのはハカザン卿以外にいなかったのだ。
「マーク兄貴は公務に忙しい身だからな。それに、昔から何度も聞いてみたけど『そのことは父上が、時期が来たらお前に話すと仰っていた。私もほとんど記憶にないのだ』の一点張りだったんだ」
「それなら、間接的とは言え父上ご自身からお前に話すことを約束してもらったようなものだ。いますぐにでも聞きたい気持ちはよくわかるが、ここは父上が話してくれるまで待っていればいいんじゃないか?」
キースの瞳に少しだけ子どもっぽい色が混じっていた。
「なあ……。俺って、ずっと兄貴たちの弟だよな」
「当たり前だ。お前の実の母上は、父上が愛した人だ。お前の……そして私たち兄弟の大切な家族でもある」
「今さら母上が恋しいわけじゃないんだ。でも今になって——、ああいや、昔からだけどな、俺だけ違うってのがやけに気になる」
キースの口調に不安の色を見て取ったヘンリーは、弟の肩に手を置いた。
「セイクリッドファイブのことか。たしかにお前には特別な力がある。アルマイラ母さまも先代セイクリッドファイブだったという話があるな。だが、何を不安に思う必要がある? お前はその力でファリヤを守った。サーマツ王の信頼も得た。それでいいではないか」
「兄貴……ありがとな!」
キースの瞳がいつもの色に戻った。
「俺、ヘンリー兄貴とピート兄貴に反発して、いっつも外で遊んでいただろ。王室のしきたりとか、知らないことだらけでさ。これからはピート兄貴にも頼って、いろいろ教えてもらうことにするよ!」
「それがいい。ピートも喜ぶ」
ヘンリーは、キースに相談されたことがうれしかったのだ。何よりも、こうして素直に弱みを見せてくれることが。相好を崩し、大きくうなずいた。
一方、別室ではやんごとない身分の女性が三人、おしゃべりに興じていた。
中心にいるのはウメダダ領主夫人となった新婦ドロテア・アーカンドル。鳶色の瞳を持つ二十歳の女性である。挙式から披露宴に至るまでの間結い上げていた栗毛を、今は下ろしていた。腰まで届くその長さは、エマーユのものとほぼ同じである。決して太ってはいないが、ややふっくらした体型とわずかに下がり気味の目尻からは、親しみやすさと優しげな印象が醸し出されている。
「私もお姉様たちと同じくらいまで伸ばそうかしら」
つぶやくように言ったのはファリヤ・アーカンドル。アーカンドル王国の第一王女で、十五歳の彼女はまだ学生である。肩より少し長い金髪で、大きな碧眼からは人形のような上品さが感じられる。面差しそのものは兄弟の中で最もエミリー王妃に似ているが、幼いころからずっとキースと一緒にいたせいか、逞しささえ感じられる少女である。
「長いとそれなりに大変よ。あたしはパーミラくらいのショートカットにするかどうか迷ってる」
エマーユが答えた。エマーユは緑の長い髪と緑の瞳を持つ『森の民』エルフ族の十七歳の少女であり、キースの恋人である。人間の貴族の女性が着る衣装を身に着けた彼女には、普段と違った上品な魅力があった。ちなみにパーミラというのは彼女と同じ歳のエルフ族の少女で、緑の髪をショートカットにしている。ファリヤとも面識がある。
「ええー? それはもったいないよお。パーミラのショートはかわいいけど、エマーユには長いほうが似合う」
最近のファリヤはずいぶん王女としての気品を身につけつつあるとは言え、さすがに一週間に及ぶ猫かぶりから解放され、リラックスしていた。その口調からは上品さが抜け落ちている。
その後、ドロテアを中心として夜の生活に関する際どい話がえんえんと続き――見かけに似合わずドロテアはそういう話題をたいそう好み、興味深く聴き入るファリヤに対してエマーユは真っ赤になっていたが——、やがて水の民にまつわる伝説へと話題が移っていった。
* * * * * * * * * *
その昔、人間の男と女が恋に落ちた。
しかし、男はその後、より身分の高い女性と結婚し、女を捨ててしまう。絶望した女はサワムー湖に身を投げた。
しかし断ち切れぬ想いはやがて世の男全体への恨みへと変化し、女は湖の中心近くに棲む魔物ブルーサーペントと化してしまうのだ。
ブルーサーペントは、縄張りに近付く船があれば美しい声で誘惑して縄張りへと引き寄せ、乗組員に男がいれば喰い殺し、船は沈めてしまう。
「伝説の真偽はともかく、サワムー湖を渡る際、水の民セレナ族に航路を誘導してもらわなかった船は、そのほとんどが沈んでしまっているのは事実よ。だからヘンリーは最高の魔除けと経験豊富な魔法戦士と、優秀なセレナ族の協力者を手配していたけれど……、明日は充分に注意してね」
ドロテアは心の底から心配そうに言い、こう付け加えた。
「ヴァルファズル陛下がお認めになったのだから口出しできなかったけれど、本当は皆さんに船で帰っていただくことには反対なのよ」
ファリヤが済まなさそうに言った。
「ごめんなさいね、わがままで」
「あたしとキースが一緒だから、心配ないわ。ファリヤのことは必ず守ります」
力強く言うエマーユに、ドロテアは微笑んだ。
「聞いているわ、あなたたちの武勇伝。でも、私はあなたたちのことも心配なのよ。くれぐれも無理しないでね」
* * * * * * * * * *
キースたちがそれぞれの部屋に戻るため廊下を歩いていたのは、今にも日付が変わりそうな時間だった。
「キース!」
「兄様!」
廊下に居合わせたエマーユとファリヤが、キースの姿を認めるや声をかけてきた。
「あそこに濃い藍色の光が!」
ファリヤの指さす方向に、ひとりの女性が立っていた。長い金髪の、朱色の瞳をもつ女性である。彼女の体から発する藍色の光が立ち上るのと同時に——
「うおっ」
それに呼応するかのように、キースの体からも赤い光が立ち上った。
二つの光は空中で混じり合って濃い紫色に変わるや、滝のように下降し霧散した。
「今の光は一体……。いや、その前に。君は誰だ」
キースの質問に、女性が姿勢を正した。
「はい、キース殿下。私はセレナ族のリサと申します。明日の出航をお手伝いするために来ているのですが、嫌な胸騒ぎがします。出航を一日延期した方が良いかと思いまして、領主様にご相談に伺おうと……」
リサの顔が青ざめている。病気だろうか? ファリヤが駆け寄ろうとしたとき、エマーユが叫んだ。
「外に足音! 何か、鎖のようなものを引きずる音がする。館の東と西に二、三人ずついるわ! ヘンリー様に知らせないと!」
キースたちはまだヘンリーの部屋からいくらも離れていない。エマーユが知らせるまでもなく、ヘンリーはすぐに部屋から出てきた。
「曲者か! 衛兵!」
ヘンリーは遅滞なく命令を飛ばす。
「館の中の者を全員中央の間に集めよ! 衛兵は半々に分かれ、東西の門を守れ!」
「は!」
領主の声を聞いた衛兵は迅速に行動に移った。
「夜襲をかけるからには、敵はそれなりの戦力を用意しているに違いない。一日早いが魔法戦士たちにもご協力願おう」
「は! 我々はここに!」
普段から交替で睡眠をとる習慣を持つ魔法戦士たちは、六人のうち三人が部屋から飛び出してきていた。
その時、地響きを伴う破砕音が轟いた。西の門が先に攻撃を受けているようだ。
東西の門を守るため、衛兵たちが飛び出していく。
「俺も出るぞ!」
はやるキースをヘンリーがおしとどめる。
「客人に頼るわけにはいかん。お前は館内に残り、曲者が館内に侵入することがあれば女性たちを守ってくれ」
「……承知した」
しばらく矢を射る音や衛兵たちの叫び声が続くと、東の門は静かになった。
西の門ではまだ騒ぎが続いている。
「来た!」
館の西側の扉が破られた。矢を数本体に突き刺した状態で、『そいつ』は進入してきた。
怪物だ。狼の顔、人間の体。長い鎖の一方に鉄球――小さなトゲのついた、人の顔ほどの大きさの鉄球――をつなげ、それを振り回している。
「人狼かっ!?」
アーカンドル王国建国以前、あの土地を支配していた『闇の民』ワーウルフ。父王ヴァルファズルが退治することにより、あの土地に人間が住むことが出来るようになった。この館を襲ってきたのは、そのワーウルフだというのだろうか。
怪物の前へとダッシュしていくキース。しかし、彼に背を向ける格好でリサが割り込み、怪物の正面に立ち塞がった。
「やめて!」
重い打撃音が響き、リサの体が宙に舞う。
「グ……!?」
怪物はなぜか武器を取り落とし、その場に立ち尽くしている。
キースが蹴り飛ばすと、その足先は怪物の顔面を強打した。そいつはあっさりと後ろに倒れ、そのまま昏倒してしまった。