国王の手紙
その頃、ヴァルファズル王は手紙を書いていた。
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親愛なるキースへ
本当はそなたに面と向かって言うべきことなのだが、誤解なく伝えるにはやはり言葉よりも書面の方が良いと思ったのだ。
もっと早く伝えておくべきことなのに、何かと理由をつけては先延ばしにしてきた愚かな父を許して欲しい。
そなたは間違いなく余の子供だ。
余の気持ちはこの一行に尽きる。これを最後まで読み終えた時、もし混乱と不信に苛まれるようであれば、もう一度上の一行だけを読みかえしてほしい。
そのことを覚えておいてくれ。その上で、続きを読んでほしい。
なぜ今の今まで余が伝えることをためらったのか、その理由を察してくれることを望むのは、余の傲慢であろうな。
では、そなたが一番知りたがっているであろう、そなたの実の母親について、今こそ伝えよう。
そなたの母親は精霊フレーミィだ。
すぐに理解するのは難しいことだろう。なぜなら、私の二番目の妻はアルマイラ・ガンラードであってフレーミィではないのだから。
順を追って説明しよう。
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それは十七年前。キースの出生に関する話であった。
* * * * * * * * * *
長い金髪と碧い瞳を持つアルマイラ・ガンラードは貴族の娘である。だが、いくら着飾っても派手さがなく、どこか儚げな印象の女性だった。
儚げな印象とは言え、深窓の令嬢としての気品が漂う美しさを備えた女性であることについては多くの男性が同意するであろう。
実際、彼女には十代の終わり頃から多くの縁談が来ていた。しかし、恋人がいる様子もないのにどの縁談もまとまることはなく、二十一歳になっても独身であった。
その日、彼女は独りだった。そして山道を彷徨うかのように歩いていた。その出で立ちは貴族らしからぬものである。革製の軽鎧に身を包み、さながら冒険者という装いであった。
左手には剣を携えている。しかし腰から剣帯ごと外しており、剣先は地面につけて引き摺っていた。
彼女の虚ろな目は、ろくに何も見ていないようだ。その意識は、少し前の自宅での出来事に占められていた。
「医者から聞いたぞ。説明しなさい、アルマイラ。お腹の子は誰の子なんだ?」
アルマイラの父親であるガンラード家の当主は、額に青筋を立ててアルマイラを問い糾した。
アルマイラは妊娠していたのだ。妊娠約三か月にしてようやく気付いた。悪阻と知らずに医者の診察を受け、初めて発覚したのだ。しかし、彼女には全く身に覚えがない。
そのことを父親に訴えても、彼は聞く耳を持たなかった。
「お前はもう二十一歳だ。見合いが嫌なら嫌と言ってくれれば良かったのだ。……相手は貴族か? たとえそうでなくても、真面目な男なら交際を認めないこともないのだぞ。過ちを責めるつもりはない。ただ、正直に言ってくれないか」
何と言われても、アルマイラの答えが変わることはなく、彼女がそのように訴えれば訴えるほど父親の感情を逆撫でする結果となった。
しかし、アルマイラが身に覚えがないのは無理もないことだった。彼女の妊娠は『闇の民』インキュバスの仕業だったのである。
夢魔、あるいは淫魔と呼ばれることもあるインキュバスは性別を持たず、寝ている人間のそばに現れ、悪夢を見せたり淫らな夢を見せては生気を吸い取ると言われている。
インキュバスが実際にそういうことを行うのは事実である。だが、それは彼らが普通の状態の時で、かつ気に入った人間を見つけた場合に、ごく稀にしか行わない。
アルマイラの場合は事情が異なる。繁殖期を迎えたインキュバスに目を付けられ、彼の子を産む道具にされてしまったのだ。
インキュバスは生殖能力を持たない。そこで、女性型のサキュバスに変身して人間の男性から精子を奪い、男性型のインキュバスとなって人間の女性にその精子を植え付ける。そうすることで種を保存するのだ。
したがって、インキュバスには繁殖期間が周期的に訪れる。長寿であるためその周期は非常に長く、繁殖期から次の繁殖期までは軽く百年を超える。それに比して、世紀に一度の繁殖期間はわずか数日という短さだ。
繁殖期間中は、インキュバスやサキュバスは人間を誘惑するような面倒な手間はかけない。種の保存を最優先するため、夜の間に手っ取り早く『作業』を済ませてしまうのだ。被害を受けた女性が気付く頃には、すでに胎児が育ち始めている。
そして、堕胎はおろか妊婦本人の自殺すらほぼ不可能である。そうならないよう、インキュバスは被害者の女性が無事出産するまでの間、魔法的な保護を施しておくのだ。
しかし、それはあまり有名な話ではない。
ガンラード家当主はこのことを知らず、まさか娘が『闇の民』に襲われたなどとは考えもつかないのだった。激昂した彼はアルマイラをふしだらな娘として勘当してしまう。
しかし、妊娠三か月の女性を放り出したら命に関わる。娘を追い出した後でそのことに気づき、慌てて考えを改めると勘当を取り消そうとした。
——生まれてくる子供に罪はない。父親がわからないなら、ガンラード家のコネを全て使い、娘に相応しい男をあてがえばよいのだ。
大貴族でもないのに傲慢な予定を立て、頭を冷やしたつもりになった当主は、娘を必死で探した。娘の家出を周囲に感づかれないように配慮した上で、ぎりぎりの人数かつ信用できる人間を集めて探させた。
しかし、当主も捜索隊も、まさか妊婦が山道を歩いているとは思わない。もうじき日が落ちるというのに、まだ見つけることができずにいた。
同じ頃、アルマイラは山道を彷徨っていた。
「ふへへへ。冒険者見習いのお嬢ちゃんがふらふら歩く時間じゃないぜえ」
盗賊だ。柄の悪い大柄な男たちが五人いる。いずれも濃いブラウンの髪と目をしており、言葉に強い訛りがあることから、土着の盗賊ではなく流れ者だと思われる。おそらく、盗賊ギルドの縄張りを平気で破る程度には腕に覚えのある荒くれ者たちなのだろう。
一方、虚ろな目で彷徨うアルマイラの様子は、とても走って逃げる体力も気力も残っているようには見えない。
盗賊の一人に腕を掴まれた。引き摺っていた剣が地面に落ちる。彼女は振り払おうともしない。
「ほほう。抵抗しないとは素直ないい娘だね。どうやら好きにしてもいいらしいぜ」
後半の言葉は他の四人に呼びかけたものだ。男たちの視線が絡みつき、下衆な笑いが浴びせかけられる。
「まあまあ上玉じゃねえか。金目の物なんか持ってなくてもいいや。俺たちと一晩楽しもうぜえ」
もう一方の腕も別の盗賊に掴まれた。残りの盗賊に取り囲まれ、アルマイラは完全に逃げ道を失った。
そんな状況でも、彼女の虚ろな表情に変化はない。
真正面の盗賊がにやにやしながら近寄ってくる。
彼女の革鎧をはぎとるつもりなのか、盗賊が手を伸ばす。
しかし、その指先は肩の留め具ではなく胸元に向かってきた。
服の上から撫でさすり、だらしなく涎を垂らす。
「なかなかどうして、いいもん持ってんじゃねえか」
「ほう、どれどれ」
アルマイラの背後に立つ盗賊が感触を確かめようと手を伸ばしてくるが、正面の盗賊はその手を乱暴に払った。
「がっつくんじゃねえ。まずは生で拝ませてもらってからだ」
肩の留め具に指先が触れた刹那——
「んごえっ!」
真横に吹っ飛んだ。
手を伸ばした姿勢そのままで地面に落下し、派手な摩擦音と共に土埃を巻き上げる。気絶しているが口許が緩んだままなので、もしかしたら自分が吹っ飛んだことにも気付いていないのかも知れない。
さっきまでそいつがいた場所に、金髪の偉丈夫が自然体で立っている。提げ持つ剣は鞘に収めたままだ。
「てめえ、いつからそこにいやがったっ?」
盗賊の誰もが、偉丈夫が忽然と現れたとしか思えなかった。まるで獲物を狙う肉食獣のように、気配など微塵もなかったのだ。
沈みかけた太陽を背にして立つ偉丈夫の顔は、逆光のためによくわからない。
「誰だてめえ!」
アルマイラの腕を最初に掴んだ盗賊が怒鳴る。
「チンピラに名乗る名などない」
偉丈夫は言い終えないうちに、鞘ごと剣を振る。無造作に振っているようだが、盗賊たちにとっては早過ぎて目が追いつかない。
盗賊たちの奇声が四つ連続で張り上げられた。
偉丈夫は剣を振り抜いた姿勢から自然体に戻す。
まだ立っている盗賊もいる。それなのに敵からの反撃など微塵も考えていないようで、鞘から抜きもしなかった剣を腰の剣帯に挿した。それを合図にしたかのように、盗賊が地面に倒れ伏す。
一人目が吹っ飛んでから時間にして十秒にも満たない。それだけの間に、盗賊たちは五人全員が気絶していた。
「無事か?」
「別に」
優しく声をかけた剣士に対し、アルマイラは投げやりな返事をした。
「名前を伺っても?」
気を悪くした様子もなく、剣士は尋ねた。
「アルマイラ。勘当された身なので苗字はありませんわ」
口調こそ丁寧だが、やはり彼女の様子は投げやりなままだ。
「……差し出がましいようだが、もし行くところがないなら余のところに来ないか。それなりに快適な寝床を提供できるが」
「遠慮しておきます。私は一文無しなので」
「世話好きの気まぐれだ。金など取らぬ」
「……」
「こう見えても裕福な暮らしをさせてもらっておる。そなたに何を要求するつもりもない。それに、立場上さまざまな知識がある。話だけでも聞いてさし上げるぞ? 安心せい、余は口が固い」
アルマイラの表情が動いた。目尻を下げ、唇を噛み、やがて、決然と顔を上げた。
ほとんど睨みつけるように剣士を正面に見据えると、彼女は自分の身に起きたことを正直に話し出した。
この時点においてはまだインキュバスに犯されたことを知らぬ彼女は、身に覚えのない妊娠を恥じ、自殺を考えて彷徨っていたことを打ち明けた。
しかし、上手くいかなかった。
怖じ気づいて実行できなかったのではない。実行したのに助かってしまったのだ。
ナイフで手首を切ったが、刃が折れて手首には傷ひとつつかなかった。
大木の太い枝に丈夫なロープを巻いて首を吊ったが、枝が折れた上にロープも千切れた。
流れの急な川に飛び込んでみたが、次の瞬間にはまるで濡れていない状態で岸に立っていた。
普段の冷静さがあれば、これら一連の事態における異常性に気付くであろう。いや、気付かない方がおかしい。だが、この時の彼女にはその程度の判断力さえなかった。
そこで、自殺ではなく誰かに自分を襲わせることを思いついた。
とは言っても、町なかだと、たとえ荒くれ者の巣窟に我が身を投げ出したところで、また何かの偶然が働いて助かってしまうのではないか。
それなら、周囲に盗賊くらいしかいない山の中で襲われたら。しかし、あまり身なりのよい格好をしていると、殺されることなく身売りされるに違いない。
そこまで考えた彼女は、手持ちのお金を全て使って冒険者のような格好をすると、そのままふらふらと山の中に入ったのである。
結局、殺されることなく犯されそうになったところを、やはり偶然通りかかった剣士に助けられたのだ。
「事情はわかった。その妊娠なのだが、必ずしも人間の男との性交によるものとは限らぬのではないか」
はっとして顔を上げた彼女に対し、剣士は初めて名乗る。
「余はヴァルファズル。ヴァルファズル・アーカンドル」
訝る視線を剣士の顔に据えた彼女は、その目を限界まで見開いた。
「ま、まさか本当に……、そんな。へ、陛下!?」
その後、彼女はほぼ口を半開きにしたままヴァルファズルの話を聞き続けた。
「これからするのは一国の王としては実に恥ずかしい話だが、アルマイラ殿にだけ話をさせてこちらが黙っているのは不誠実だからな。聞いてもらおう」
実は、ヴァルファズルは女性に擬態したサキュバスに精子を奪われていたのだ。
並みの人間であれば気付くことはない。しかしヴァルファズルは目を覚ました。残念ながら事後ではあったが、驚異的な身体能力を発揮してサキュバスと互角に殴り合う。
何度も『闇の民』と戦った経験を持つ王は、サキュバスについての知識も一般国民よりは少し詳しい。
——この場で留めを刺さねば、こやつは誰かを孕ませてしまう。
彼はサキュバスをあと一歩のところまで追いつめた。
しかし、詰めが甘かった。
見た目が女性であるサキュバスの命乞いに、とどめの一撃を躊躇ってしまったのだ。
その隙をつかれ、逃げられてしまう。
国王は、あらゆる手段を講じてサキュバスの行方を追った。
グリズの協力を得て『森の民』の結界を利用した他、探索系のマジックアイテムもふんだんに使って探し続けた。
捜索は三か月にも及んだ。そして今日、ようやくあの日のサキュバスと同一の個体と思しきインキュバスが見つかったのだ。
そしてその個体は、いまこの山の中にいる。
「断言はできぬがアルマイラ殿の赤子……。余の子かも知れぬ」
インキュバスの個体数はそう多くない。加えて、ヴァルファズルが精子を奪われたのは三か月前。アルマイラの胎児の月齢と一致する。
「あのとき、余がサキュバスを逃がしたばかりに。責任を感じておる」
アルマイラは無言で首を横に振った。何を言えばいいのかわからなかったのだ。
「そのインキュバスだがな。すでに拘束されておる。余に協力してくれているエルフから連絡を受けたのだ」
「それで、この山の中まで陛下おひとりで……?」
驚いて聞くアルマイラに、ヴァルファズルはにやりと笑って答えた。
「余が組織した王室警護隊を連れてきたのだがな。あやつら、訓練が足りておらぬ。まだまだ余の脚力に敵う隊員がおらぬのだ」
そう言って登ってきた山道を振り返る。すると、禿頭の大男が走ってくるのが見えた。シグフェズル・サンダースである。
「あれが隊長だ。余の八つも下の三十一歳だというのに体力が足らぬ」
隊長はその年齢で十代や二十代の隊員を上回る身体能力を誇るが、ヴァルファズルのそれは少々規格外なのだ。この体力溢れる王は自分を基準にしてしまうため、他者への体力の評価は辛辣である。
ようやく追いついたシグフェズルを伴い、残りの隊員を待つことなく、ヴァルファズルたちはインキュバスのところへと歩いていった。
「人間。『森の民』を味方につけるとは恐れ入った。どんな取引をしたんだ?」
エルフの得意とする魔法『草結び』で拘束されたインキュバスは、ヴァルファズルの姿を認めると落ち着いた声で話しかけてきた。
「相互不可侵。人間は種としてはまだ幼い。魔族と対等につきあえるようになるまでは、せめて迷惑をかけないようにしようと思ってな」
「殊勝な心掛けだこと」
言いながらインキュバスは女性型のサキュバスに変身した。
「あたしは構わないのよ。その女が宿した、あたしの子を無事に産んでもらえれば、それだけで」
「その言葉は遺言か。だが貴様等『闇の民』は排除の対象でしかない」
ヴァルファズルは無感情に言い放つ。
するとサキュバスは再びインキュバスに変身し、冷酷に告げた。
「その女に植え付けたのはお前の精子だ。しかし産まれてくるのはインキュバス。そして無事出産するまではインキュバスの魔法がその女の身を守り続けるぞ。ふはは――」
斬。
インキュバスは笑った顔のまま、胴体を真っ二つに斬り裂かれた。『草結び』の草ごと両断する、ヴァルファズル神速の斬撃であった。
相当歳古りた個体だったのであろう。斬られたインキュバスは塵となり、たちどころに消滅してしまった。
王の剣は銘をカレドヴルフと言う。ドワーフの祖先が鍛造したと言われるこの剣は、『闇の民』をも一撃で退治し得る可能性を秘めている。
手応え充分だったとは言え、万が一の復活を警戒し、しばし気配を探る。
その沈黙を、エルフの族長たる大木のグリズが破る。彼には珍しく、鋭い叫び声で呼びかけた。
「ヴァルファズル殿!」
次の瞬間、アルマイラが倒れた。
ヴァルファズルはあわててアルマイラを抱き起こしたが、その口の端からは真っ赤な血液が漏れ出てきた。
同時に、血に染まった金属片が口から落ちた。
「なんと……、早まったことを!」
ガンラード家の家宝たるマジックアイテム、〈ピースメーカー〉。肌身離さず持ち歩いているがゆえ、彼女は普段その存在を忘れている。
くの字形の小さな金属片で、ペンダントにして身につけているのだ。これの使い方は、影響を与えたい生命体ひとつに押し付け、なるべく具体的なことを命令形で一言呟くだけ。呪文として特定の言葉を必要としないのだ。
ペンダントを咥えながら彼女が呟いた言葉は「私の舌よ、ずたずたに千切れて喉に詰まれ」。
最早インキュバスを産む運命から逃れられないことを絶望したアルマイラは、真っ暗に閉じかけた意識の底でようやく最後の可能性に思い至ったのだ。
尊厳を護る最後の賭けとして〈ピースメーカー〉を利用する。
賭けは成功し、マジックアイテムの魔力はインキュバスの守護魔法を凌駕した。
ヴァルファズルは〈ピースメーカー〉を知らないが、類似のマジックアイテムは知っている。金属片の形状とアルマイラの状態から、何が起きたか察することはできた。
そしてほどなく、彼女は絶命した。
「自ら命を絶つとは……。なるほど、生まれてくるのは闇の民かも知れぬ。しかし何とかして、人間として――我が子として育てる方法を探りたかった」
悲嘆に暮れるヴァルファズルに語りかける者がいた。
「この一件、我が預かろう」
突然、揺らめく炎がヴァルファズルの目の前に現れた。
それは見る間に人の姿に変わっていく。その大半は炎に包まれたままだが、炎ごしに顔面が露わになる。赤い髪と赤い瞳をした若い女性だ。
「おお……。フレーミィ様」
グリズが呼びかけた。
その名は精霊のもの。その中でも神に近い存在であり、滅多に人の前に姿を現さぬ炎の大精霊である。この世界の誰もが名前を知っていて、しかし実在しない伝説の類いとしての認識が広まっている。
「なんと。それではこの方が」
大精霊に比べれば、グリズはずっと人間に近い存在だ。しかしその知識量は多い。彼が言うからにはこの精霊はフレーミィなのだ。
端から疑ってなどいないが、フレーミィを纏う炎は真偽を確かめようとする気持ちそのものを焼き尽くすかのように強い輝きを放つ。
あまりにも目映い光に、ヴァルファズルもシグフェズルも目を細めて立ちつくす。
大精霊は厳かな中にも柔らかさを覗かせる声でグリズに告げた。
「案ずるな。我が炎がエルフを傷つけることはない」
「お心遣い、感謝します」
鷹揚に頷くと、フレーミィは視線を下げた。
「その子は――」
炎に包まれた右手でアルマイラの腹を指差す。
「――この世界に『炎の民』を残すための希望。だから出産まで、我がその命を預かる」
場の誰もが口を噤み、大精霊の言葉に耳を傾ける。
「我ら古の精霊は、このままの姿ではこの世界に長いこと留まることができぬ。しかし、その子を放置して立ち去るわけにはいかぬ。この世界にはいま『炎の民』が一人もおらぬゆえ」
フレーミィによると、この世界に『火の民』はいるが、その上位存在たる『炎の民』がいないと言う。いつからいなくなったものか、後継者不在のまま長い年月が流れてしまったというのだ。
「『炎の民』は世界の力の均衡を保つ役割を担う。これ以上不在が続くならば、この世界は頻繁に災厄に見舞われることになるだろう」
世界の力の均衡を保つ。その予言めいた言葉は、アルマイラの腹で眠る胎児が、生まれる前から何かと戦う運命を持つことを意味しているのだろうか。
いや、その前に。この胎児はどうやって生まれてくるというのだろうか。
「よい子じゃ。母体が死んでも生まれる気が満々じゃな」
「余の子供は死んでおらぬのか」
ヴァルファズルは他の全てを棚に上げ、子供が生きているというただ一点のみを注目して嬉しそうな声を上げる。
「人間。この子のこと一旦お主に託す」
「しかし」
暗い声でヴァルファズルが言う。
「アルマイラは死んでしまった。たとえ子供に生まれる気があっても、それは出来ぬのでは」
「造作もない。出産の瞬間まで、我がアルマイラとして振る舞えばよいこと」
フレーミィの言葉の意味を、ヴァルファズルはすぐには理解できなかった。
「は……?」
「我がアルマイラの体に入り込むのだ。我はこのままの姿ではこの世界に留まれぬ。だが、彼女に憑依し、その間肉体を生かしておくことならできる。そして、出産の時点まではこの子のインキュバスとしての要素を全て抑え込んでおいてやる。半年もすれば無事に生まれよう。それまでは、我を――この女をお主の第二夫人として王城に置くがよい」
精霊がアルマイラの体に入り込む。子どもが無事に生まれることは約束されたようなものだ。しかし、安心すると同時に懸念が生じる。
「この子は、成長の途中でインキュバスとして目覚めてしまう可能性があるのでは?」
「お主に託すと言った。闇の力を全て消し去ることは我にもできぬ。よいか人間、育て方にかかっておる。この子に、自分が人間であることを強く自覚させてみせよ」
「願ってもないお申し出。謹んでお受けいたす」
ほとんど即答だった。
一同の周りに赤い炎が舞う。熱さのない、暖かい炎だった。
しばらくしてフレーミィの姿が見えなくなると、アルマイラが自ら身を起こした。彼女の雰囲気からは儚げな印象が掻き消え、生命力に満ちあふれている様子が窺える。
いまこの瞬間こそ、大精霊フレーミィが『炎の民』の後継者を自らその胎内に身籠った瞬間である。
「フレーミィ様」
呼びかけるヴァルファズルを、彼女は制した。
「アルマイラと呼べ」
「アルマイラ、ひとつ頼みがある」
「なんだ」
「子どもの名前をつけさせてくれ」
「構わぬ。申して見よ」
「キース……。キースと名付けたい」
フレーミィ――アルマイラは柔らかい笑みを浮かべた。
「キース。良い名ね」
その瞬間から彼女は、出産までアルマイラを演じ続けた。それと同時に、この半年はキースを身籠ったまま『業炎の竜騎士』をも担うことになるのだ。すでに『凍獄』、『天雷』として目覚めていたドレン卿とバイラスを警戒してのことである。
この時点においてヴァルファズルには知る由もないことだった。