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英雄伝説の担い手

 降りしきる雨に濡らされながらも、バネッサの髪は生きもののように逆立ち揺らめいた。

「聞け、ロレイン族の出来損ないども。エルフの小娘になんかびびってんじゃねえ」

 にせ土蜘蛛の女頭目をやっていた時よりさらに乱暴な言葉遣いで、湖面に向けて怒鳴る。

「もう食っていいから、全員上がってきな。——エルフの小娘。おまえの相手はあたしだ」

「悪いけどあたし、本当に手加減なんてできないわよ。あなたと違って」

 稲光はエマーユの整った顔面にも濃い陰影を落とす。彼女はうっすらと笑みさえ浮かべ、挑発的に応じる。

「しばらく任せるぞ、エマーユ」

 キースは短く告げるとファリヤたちへと振り向く。

「舳先に集まれ。一か所に固まるぞ」

 返事する彼女らに目で頷き、舳先へと走る。

「船長、魔法戦士を起こせ。総力戦だ」

「はい、殿下」

 応えつつ、彼は躊躇なく魔法戦士の頬を張った。

「起きろこら! 女の子に助けてもらっておきながら、いつまでも寝てるんじゃない!」

「いや、あの。戦士さん頭打ってるし。気絶させたの私だし——、あひゃっ!?」

 その様子を猫背になっておろおろと見下ろすスーチェは、突然両肩を掴まれて仰け反り気味に姿勢を正した。

「加勢ありがとう。それと、すまん。腕、動くか? 無理なら——、えっと。スーチェ?」

「ふふ。あったかい。ちっちゃい時以来だ。うん、ひさびさにキース分補給っ」

 スーチェは満面の笑みでキースの胸に飛び込んだ。

 一方キースは、反射的に背に回そうとした手を慌てて広げる。スーチェの素肌がむき出しであることに、いまさら気付いて狼狽えたのだ。

「——よし! 元気回復っ。本当は抱きしめてくれた方がよかったんだがな」

「剣は振れそうか?」

 あえて聞こえないふりをする王子に不満げな表情を向けつつも、幼馴染みの少女は身を離して首を振る。

「腕なら問題ない。多分、鎧のお陰。だが、私の剣は湖の底だ」

 どうやら元々の身体能力を超える膂力を発揮できたのも、浪費したはずのスタミナを急速に回復できたのも白銀の鎧によるものなのであろう。

 しかも、バレグ作製のパウダーは防御・回復系の魔法は受け入れ、攻撃系の魔法は跳ね返すという秀逸なアイテムだったようだ。現在のスーチェは間違いなく超人と言って差し支えない戦士である。

「ところで、魔法を跳ね返すアイテムとやらの効果、残り時間はあとどのくらいだ?」

「さあ。短ければあと五、六分ってところだと思う」

「わかった」

「あっ」

 ごく自然な動作で、キースは両手でスーチェの右手を包み込んだ。軽く赤面する彼女に構わず、呪文を詠唱する。

「業炎の竜王よ。炎龍の加護の下、この者に火剣を貸し与えよ」

 キースが手を離すと、束の間オレンジ色の炎が彼女の手を燃やすかのように包む。熱さは全く感じないらしく、少女の表情は落ち着いていた。

 同じことを左手にも施してからキースが言った。

「実は王室警護隊の志願者に同じ術を施そうとしたことがあってな。結論を言えば、彼らにはできなかった」

 この術は、キースを含む炎の眷族以外の者にも一時的に炎剣技を使えるようにするものなのだ。だが、魔力の量や相性の問題があり、誰にでも施せるものではないらしい。少なくとも、志願者たちは全員火傷を負うはめになってしまった。

「そのアイテムが効いてる間ならスーチェにも炎剣を扱えると思ったんだ。いいか、手が熱いと感じたらすぐに相手に投げつけるんだぞ」

 キースは言いながら顕現させた炎剣を、スーチェに手渡した。

「ワルキュリア殿! 後ろだっ」

 魔法戦士の声である。どうやら目覚めたらしい。

 雨に濡れて重くなったポニーテールを揺らし、少女は振り向きざまに炎剣を一閃。

 今日に限って言えば、その剣技はキースよりずっと鋭い。

 半魚人は顔面を横薙ぎに斬られ、上顎までの部分が胴体から離れて落ちた。

 連続して水飛沫が上がり、その都度船体が揺れる。

 少なくとも十匹は乗り込んで来た。

 甲板のどこかに備え付けられていたものか、船長と操舵手は銛を手にしている。

「よし。ファリヤとリサを中央へ。あとは個別に戦うぞ」

「ファリヤ殿下だけで。私も戦います!」

 声を張り上げたリサは、複数の光弾を飛ばす。

 着弾し、怯んだ敵をめがけ、船長と操舵手が銛で攻撃した。

 突き刺した銛が相手の体から抜けず、難儀しているところへ襲いかかる新たな敵。

 割り込んだキースと魔法戦士が、乗組員らの左右の敵を一掃した。

 スーチェの剣技はますます冴える。

「今日の私は絶好調だ。なにせキース分を補給したからな!」

 よくわからないことを口走っているが、親友が元気ならそれに越したことはない。ゆっくり回復させる暇のなかった右腕をかばいつつ、キースも炎剣で次々と敵を屠った。




 最後の一匹となった半魚人が斃れた時点で、船が大きく揺れた。

「なぜだっ! 力を分け与えられただけのエルフ風情が、なんであたしと互角にやり合えるんだっ!」

 バネッサの表情からは余裕がなくなっている。一方、エマーユも肩で息をしていた。

 キースとスーチェが駆け寄っていく。

「すまん、無理をさせたなエマーユ」

「ぜ……んぜん、だい、じょうぶっ」

 親指を立てて見せるが、彼女の着衣はあちこち裂けて素肌が覗いていた。

 治癒能力を持つ彼女の肌には傷跡一つ見当たらないが、バネッサを見るキースの視線は氷の刃と化していた。

「この俺をここまで冷やすことができたのは、バネッサ。貴様が初めてだ」

「あぁら。お姉さんが王子様の初めて、奪っちゃったのねん」

 その一瞬で余裕を取り戻したのか、あるいは単なるハッタリか。バネッサはいつもの態度でふざけてみせる。

 この発言に、キースの左右に並んだ二人の少女が肩を怒らせた。

 スーチェに至っては、実際に炎剣を投げつける。

 バネッサは妖艶に笑いつつ掌をかざした。同時に、飛沫を飛び散らせる青い壁が出現してバネッサの盾となる。

 炎剣は水の壁に激突するや、大量の水蒸気を発生させた。

 しかし壁に吸い込まれるようにして消えてゆく。

 同時に壁も消えたが、バネッサからは隙が窺えない。

「キース、スーチェ、気をつけて。あいつ、魔力が上がってる。ようやく本気を出したってことなのかも」

 エマーユが言い終えたタイミングで、バネッサは大声で笑い出した。

「今日は本来快晴のはずなんだよ。それなのに、この雨が止まないのはなぜだかわかるかい? ブルーサーペントはね。不死身なのさ」

 魔法により作り出されたらしき雲はいまだに低く垂れ込めている。言われてみれば、大蛇の頭部が静かになった後もその胴体は船から離れることはなく、相変わらず雨が降り続いていた。

 バネッサの掛け声もないのに、船がごとんと揺れた。


 そして、これまでの揺れとは違う、細かい振動が長く続く。

 振動に続けて、唸りを伴う低い音が聞こえてくる。

 低い音は、ゆっくりゆっくり大きくなっていく。


 やがてそれは、魔物の咆哮となってワルキュリア号の甲板を震撼させた。

 ブルーサーペントの両目に光が灯っている。

 縦に長い虹彩を赤く光らせ、甲板に居並ぶ面々を睥睨する。

 二つの頭部がゆっくりと起き上がり、鎌首を擡げて牙を見せた。


「…………………」

 無言で身構えるキースたちの背後、ワルキュリア号にほど近い湖面で、何か大きな物が水面を叩く音がした。水飛沫が甲板に降り注ぐ。

「…………っ!」

 ファリヤとリサが大きく目を見開き、口に手を当てて固まっている。呑み込んだ息が音を立てた。

 カールに切り落とされた頭部。胴体から離れた蛇の首が、水面から上がってきたのだ。

 バネッサが勝ち誇った哄笑を響かせる。時折耳障りな音を立てて息継ぎし、わざわざ乗組員たちを見回しながら笑い続ける。

「おい大蛇。この王子様はなぁ。船に弱いようだ。ゆらゆらと揺らしてやりな」

 言われるまま、ブルーサーペントは太い胴体をゆっくりと、そして大きく揺らす。

 足が滑る。明らかに湖水とは違う、油のような液体が靴底と甲板との摩擦を奪う。

「うふふふ。滅多に使わない技だけど、この大蛇ったら粘液の分泌とかもできるのよねん」

 水の民であるバネッサとリサ、そしてドラゴンのブーツを履いたスーチェ以外の全員が立っていることができず、転倒してしまった。

「きゃああああ!」

 ファリヤとリサの悲鳴が重なった。

 甲板を睥睨するブルーサーペントのそれぞれの首が伸ばした舌に巻き取られ、空中に吊り上げられてしまったのだ。

 バネッサは上機嫌となっていた。

「感謝しなさいよぉ。あたし、こういう遊びだあい好きなのぉ。だから、遊んであげるわよぉ」

 くすくす笑いながら、キースを見据えて楽しげに言う。

「離れた位置に女が二人。さて、どうやって助けるか、見物させて貰おうかねえ。二十秒あげるわ。それで助けられなかったら溶解液で溶かしちゃうからぁ」

「勝手なことを! ——あうっ」

 真っ先に動いたエマーユを、しかし大蛇のもう一つの首が邪魔をした。

 胴体と繋がっていないはずのその首が舌を伸ばし、彼女の背後から巻き付いてきたのだ。

「訂正。三十秒あげるよ。それで三人助けられるかなぁ? 誰が最初に溶けちゃうかなぁ」

「まだ時間がある! キース、炎剣を私に!」

 炎剣を受け取ったスーチェは滑る甲板をものともせずに走る。

 一方、ろくに動けないキースは、魔法戦士に指示を出してスーチェが向かったのとは別の首を同時に攻撃した。

 大蛇の鱗は魔法への耐性が高いことは判っている。

 彼らは大蛇の目と舌の付け根を狙い、あわよくば口の中を破壊すべく狙いを定める。

「させないよん」

 バネッサは水の壁を展開し、それらの攻撃魔法を相殺してしまった。

「やあっ!」

 気合いとともにエマーユの瞳がオレンジ色に染まる。炎のオーラが彼女の身を包んだ。だが。

「きゃああああああ!」

 大きな悲鳴がエマーユの口から迸った。

「どうしたエマーユ!?」

「対策、対策。さっきそのエルフと遊んでたとき、大きな魔法を使ったら発動するマジックアイテムを服にくっつけておいたのよぉ。うふ。まあ、ちょっとだけ痺れて、ほんの少しの間だけ魔法が使えなくなるというしょぼいアイテムだけどねん。本気で互角だとでも思ってたぁ? ぐふふ」

「てめえ……」

 歯ぎしりするキースに対し、バネッサは目尻を下げて笑ってみせる。表情とは裏腹に、先程のキースに勝るとも劣らない氷刃の視線を突き刺してきた。

「あたしに構ってる場合? あと十五秒よん」

「たあっ!」

 気合いの乗ったスーチェの炎剣が、ファリヤを縛る舌へと振り下ろされた。

 大量の水蒸気が上がる。

「なんだと!」

 水の壁に阻まれ、剣先は舌に届いてすらいない。

 スーチェの炎剣が消滅した。相殺されたのだ。

「あああっ!」

 直接引きちぎるつもりで伸ばした手も水の壁に阻まれる。触れた瞬間何らかのダメージを受けたらしく、スーチェはその身を仰け反らせた。

 キースの髪が逆立つ。

「三人とも助ける。そしてバネッサ。てめえはここで終わりだ」

 業炎の波動が彼の髪をオレンジ色に染める。グラウバーナの発動兆候だ。

「やれるもんならやってみな。あと十秒」

 バネッサは新たな水の壁を作ると、複数のそれをキースへと押し出すようにしてぶつけてきた。

「竜王の業火よ!」

 水の壁が彼の詠唱を中断させる。続く言葉を言わせる前に、次から次へと壁に呑み込まれる。

 何枚目かの壁に濡らされた後、そこには普段の金髪少年がいた。悔しげに唇を噛み、それでも左手から炎剣を投げつける。

「ほいほいっと。……ああ楽しい」

 連続で繰り出される炎剣を、しかしバネッサはことごとく相殺してしまった。

「あと五秒」

「おあああ!」

 炎剣を量産するキースだったが、バネッサの手数とほぼ互角である。大蛇の舌には届かない。


 その様子をよそに、魔法戦士はリサを縛る舌に直接攻撃しようと転がっていた。

 攻撃魔法を飛ばす傍ら、苦しむスーチェに愛用の杖を投げて寄越す。

「ワルキュリア殿!」

 スーチェが杖を受け取るのを確認してからリサ救出に向かった魔法戦士は、一瞬バネッサと目が合った。

「雑魚は参加資格ないのよん」

 飛沫が滴る水の矢を形成したバネッサは、リサを助けようとして手を伸ばす魔法戦士の腕へとそれを投げつける。

「ぐああ!」

 戦士は矢に腕を貫かれ、そのまま甲板に縫い止められてしまった。

「魔法戦士さんっ!」

 場に飛び交う絶望的な声を、バネッサは実に嬉しそうに聞いている。

 ろくに攻撃が届きもしないためか、大蛇の首は三つとも大口を開けていた。

 のどの奥から霧状のものが漏れ出している。

 やがてそれは、液状の質量を伴った溶解液となって三人の少女に降り注ぐのだ。

「三、二、一、はい時間ぎ——」

「翔烈の竜王よ! 神速の烈風で薙ぎ払え」


 轟音を伴い、強風が吹き荒れる。

 バネッサは尻餅をつき、場の全員が目をきつく閉じた。

 鋭く唸る風の音が世界の全てとなったかのような轟音の中、本来なら大きいのであろう水の音がかすかに聞こえ、船が揺れる。

 大蛇の溶解液は、いつまで経ってもはき出された様子がない。

 一分くらいか、それとも五分以上か。

 しばらくして、唐突に風の音が止んだ。

 雨が止み、雲の切れ間から陽光が降り注いでいる。




 静寂という名の音が谺する。

 いつのまにか粘液の影響がなくなったらしく、ほとんどの者が甲板上に立っていた。

「どうした、大蛇! どこへ行ったぁ!」

 バネッサは声を荒げ、周囲を見回した。

「なっ……!」

 いた。しかし、首は三つとも胴体から離れ、湖面に横になって浮いている。

 切断面が見える。かつて胴体とつながっていたはずのそこは、青緑の魔法陣が貼り付いて輝いていた。

 肝心の胴体が見当たらない。

「胴体は湖底に沈んで行ったよ」

 男の声。

「ああっ?」

 威嚇の声とともにそちらを睨むバネッサ。

 青い髪の男が、空中に立っていた。彼の腕の中で、ファリヤがお姫様抱っこされている。

「できればもう、水中戦なんてしたくないね。胴体とつながってないくせに、あの大蛇しつこくて」

 その言葉に、モノケロスの背に跨がった狼男が応えた。

「はい、なかなかしんどかったです」

「誰だ貴様らっ」

 青髪の男は、焦れて叫ぶバネッサを一瞥した。しかしそれには応えず、キースを見下ろす。キースはエマーユのそばに寄り、いとおしそうに撫でているところだった。

「悪かった。無理させたな」

「平気よ」

 そんな様子の彼らと自分との間にバネッサを挟む位置関係を変えることなく、空中の男は声をかけた。

「無事か? キース」

「ああ、兄貴のおかげでな。本当、感謝してもし足りないぜ」

 傷口が広がっている右腕をだらりとさせ、キースは無事な左手の親指を立ててみせた。

「リサ!」

 狼男が叫び、モノケロスの背から甲板へと飛び降りた。

「ああ、グレッグ」


「答えろ! てめえ、何者だ」

 もうすっかり事件が解決したかのような空気の中、ヒステリックにバネッサが喚く。

 しかしそれでもやはり、青髪の男はバネッサではなくキースに声をかける。

「こういう場合どう名乗るのが正解なんだ? 俺、よく知らなくてな」

「ああ、じゃ、俺から紹介するよ」

 弛緩した空気を醸す敵の中、バネッサの顔面は鋭い牙を覗かせた醜怪な半魚人へと変貌を遂げている。ぎらつく赤い瞳が放つ眼光を柳に風と受け流し、キースは軽い口調で続けた。

「サーマツ王国外遊騎士、カール・セイブ卿だ。もう気がついているだろう。彼は翔烈の竜騎士でもある。そう、セイクリッドファイブの一人さ」

「くそが! くそがくそが! こうなったら全員道連れに——」

 地団駄を踏んで喚くバネッサに対し、少女の凜とした声が叩きつけられた。

「どうしてあなたはそうなのですか! この方たちの力の使い方を見習ってくださいませ!」

 リサである。グレッグに支えられながら、真っ直ぐにバネッサを睨んでいた。

 一瞬ぽかんとしたバネッサであったが、吹き出すようにして笑う。

「ばかかてめえ。力ってのは他者を蹂躙するか、それができなきゃみんな巻き込んで自滅するためにあるんだよ」

 それが呪文だとでも言わんばかりに、茶褐色の魔法陣が顕現した。

「なにもかも消滅しやがれ!」

「おやめなさい! 渦潮の竜王よ! 不浄を呑み込む扉を開け」

 リサの口から、呪文と思しき言葉が放たれた。

 バネッサのそれに倍する大きさの濃紺の魔法陣が顕現する。リサの正面で輝くそれは、逆巻く波に形を変えてバネッサを押し流す。その途中、茶褐色の魔法陣が消滅してしまった。

 そのままの勢いで湖面へと押し流すと、バネッサの怨嗟に満ちた声が聞こえた。

「覚えていろ! あたしは必ず復讐を果たすぞ!」

 ほかにも何事か叫んでいるようだ。次第に遠くなりながらも、彼女の声は長いこと聞こえ続けた。


 ふと、我に返った様子のリサが沈んだ声で呟く。

「も、申し訳ありません。私のせいで逃がしてしまいました……」

 そんな彼女の肩に、キースは穏やかに左手を置いた。

「いいさ。あいつとは因縁があるが、俺にしたところで誰かと殺し合いするには、まだ覚悟が足りてないんだ。正直、ほっとしてる」

 バネッサとは必ずまたやり合うことになる。殺すにしろ、生かして改心させるにしろ、それまでに覚悟を決めればいい。

「リサの言葉が響かなかったんだ。どう考えても、次に奴と合う時のためには最悪の覚悟をしておく必要がありそうだがな」


 * * * * * * * * * *


 その後、バネッサの罠から解放されたエマーユが怪我人に治癒魔法をかけた。

 キースは完治したが、魔法戦士の右腕はそうはいかなかった。

「骨が砕けているわ。安静にしていればつながるところまでは修復できたから、しばらく添え木をあてて動かさないようにしてね」

「すまない、魔法戦士さん。私のせいでいろいろと……」

 深く頭を下げるスーチェに対し、魔法戦士は朗らかに笑って見せた。

「ワルキュリア殿のためならこのくらいどうってことありませんよ! ……なんて、私など何の役にも立ちませんで、お恥ずかしい」

「だから、ワルキュリアなどではないというのに」

 揺れる船の上で、カールはキースに詰め寄るようにして質問をしている。

「セイクリッドファイブって何だよ。何を知っているんだ。教えてくれ」

「説明する! するから。悪いが、岸に着くまでまってくれ。それに、リサのことも気になるし。……うっぷ」

「もう、無理するから」

 戦闘前よりさらに酷い形で船酔いがぶりかえしたキース。エマーユが寄り添い、船室へと降りていく。


 獣人現象を起こしていたグレッグは、今はもとの人間の姿に戻っている。カールに助けられたとは言え、呼吸のできない湖の中で長時間、大蛇の首と追いつ追われつの戦闘を繰り広げたのだ。彼は疲れ切り、リサの膝で安らかな寝息を立てた。

 その様子を微笑ましく見つめるファリヤだったが、どこか気もそぞろな様子も垣間見える。

「おや?」

 スーチェはめざとく気付いた。彼女の視線の端に、カールがいる。

「ローラさんに、パーミラに……。あと、チャーリーもか。まあ、チャーリーは別としても。カールは競争率高いぞ、ファリヤ」

 声には出さずに呟くと、スーチェは嘆息した。

 そんなスーチェの身には、この時点では思いもよらないことが降りかかろうとしていた。

 『ワルキュリア』スーチェの武勇伝である。

 この後、カールはブルーサーペント退治の英雄として祭り上げられることはなく、専ら彼女の武勇伝が語り継がれることになるのである。最初は真偽不明の逸話として。

 もちろん先頭に立って話題を広めたのは『ワルキュリア号』のクルーである。それは酒の席などで、船乗り仲間と魔法戦士を中心に、ことあるごとに話題に上った。

 話を聞いた彼女が口止めをする時点においては、すでに武勇伝は独り立ちをした後なのだ。それはやがて英雄伝説と化していくのであった。

「私は何もしていないぞ。しかしせめて、英雄ではなくヒロインと言って欲しいものだ」

 そして、王立学園卒業後は王室警護隊に入ることがほぼ決定しているスーチェは、入隊前から『戦乙女』の二つ名を持つ剣豪として勇名を馳せることになるのだが、それはまだ先の話。




 そこから先は快調なセーリングを続けたワルキュリア号が、バレグの待つサワムー湖南端の湖岸に到着するまで半日とかからなかった。その間ずっと寝ていたキースは、岸に着いた後エマーユに弱音を吐いた。

「俺、二度と船には乗らないからな」

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