【診察室】 ーー受診ーー
「…………ええ、どうもそのようです。はい。じゃぁ、後は宜しくお願いします。はい。失礼します。」といって電話を切る輝世。
「ママ、あのさ……」
「なに?」
富士見平での怪事件以来、自分のおかれた立場の尋常ならざる事態を否応無く思い知らされ、いつにもまして洞察の勘が鋭敏となった晴男は、いつになく輝世の表情に僅かながら悲壮が浮かんでいるのを見逃さなかった。
そして最近のモヤモヤ全てを解消する鍵が〝天地医院〟にあることも推測出来た。
只、その鍵を解く事に因って、現在の心地よい生活が、己の身の丈には甚だに過ぎた幸せが、壊れてしまうのではないか。
それを問いただそうと一瞬考えたが、輝世の、この世の果てまでも見透かすかのごとく澄み切った眼差しに杞憂を諭された。
「んぁあ、なんでもねー。行ってくる」
「いってらっしゃい。寄り道すんじゃないわよ」
鉛色の空は晴男の真上だけに重く黒い雲を募らせ、今にもボトリと落ちてきそうに垂れ下がっていた。
天地医院に向かい歩く道すがら、稲荷神社の方角にただならぬ気配。
太古の昔よりこの地域を守護し続ける神社の樹齢1000年を越える指定文化財で天然記念物の大楠の枝葉から緊迫した空気が逆巻いて見えた。
大勢の恐怖と絶望と慟哭が渦巻く方へと足早に向かい、その原因を見て慄然とする。
山間部からさほど遠くないこの街にも出没したとて、なんら不思議ではない。
とはいえ、この街に野生のクマ出現の記録はいまだない大珍事。
「出たか……しかし、よりによってこのタイミングで……」
公園も併設するこの神社にはグラウンドゴルフのジジババ共だけでなく地域の子供達も集っていた。
突然の野獣襲来に、成す術無く立ちすくみ唯々狼狽えるだけの人間と、自分自身もパニクっている様子の熊。
170センチ前後の腹をすかせた野生のツキノワグマの突然の出現に皆腰を抜かしてしまって声も出せずにいた。中には失神した者もいたようだ。
晴男の、「うおぉぉらぁ! てめぇ! くるぁあ!」という怒鳴り声に驚いて晴男に向かって突進するクマ。晴男の捨て身のフライングニーが熊の鼻ッつらに炸裂。
熊あえなく轟沈。まさに疾風迅雷、電光石火。一瞬の出来事であった。
失神し、荒縄で亀甲縛りにされた熊。110番に通報。
現場に居合わせた皆が、晴男を崇めるように称える。まさに救世主降臨だと。
「皆無事でヨカッタ、ヨカッタ!」
握手を求める老人達に対応する晴男も安堵の表情を見せる。
脇と背中が汗でグッショリ濡れていた。
通報を受けソッコーで駆けつける白黒のルーチェ・レガート。
登場したのは若き熱血ポリスメン、カルロス&ホセ。状況説明を受け、信じられぬといったリアクションで驚嘆する。そして、今回ばかりは流石に晴男に対し敬語になる。
「市民の安全が守られなによりです。警察を代表し感謝します」と敬礼。
晴男は何食わぬ表情で極めて平常に敬礼を返し、用事のある旨を伝え後処理を任せ、心の中ではこのポリスコンビをいじってやれぬ歯痒さとともに現場を後にする。
カルロス&ホセも、何か肩すかしを食った様で、どこかしら寂しそうだった。
ーー『天地医院・肛門科・泌尿器科・性病科…………心療内科』
トタンの古い看板にマジックインキの揮発も香り立つ、書き立てホヤホヤの『心療内科』の文字がくろぐろと輝いている。晴男は看板の前で暫し熟慮の末、
「やっぱ、ダメだ! 此処」
と踵を返したその先に、コンビニ袋を提げたナースが眼光鋭く晴男に言う。
「ご予約の南晴男様ですね。中へどうぞ」
真っ直ぐに見据える瞳は、晴男の掌でスッポリ隠せそうな程の小さき顔面の中、際立った大きさをバランスよく収められている。
エキゾチックな浅黒い肌が健康的なセックスアピールを発散しているが、それ以上に、我が愛妻輝世にも通じる気迫に気圧され、言われるが侭、玄関に通される。
晴男にとって、ガキの頃からここのジーサンは苦手だ。何故か分からないが。此処だけは忌避すべき場所に思えてならなかった……
「おう! 待っとったぞ。早速診察すっから、シャツめくれぃ。すってぇー、……はいてぇー、……フムフム。はい目ぇみせてー、上ー、下ー、今度舌ベラ。ベェエっと出して、……よし、良好。」
「(……こんなんでナニが解るのだろう? やっぱ信用できねぇ、このジィサン)」
「あと、血圧と心電図と脳波とるから、ウチのナース、スミレちゃんに従って検査室に行って」
「南さん、コチラにどうぞ。」
促すナース、スミレを黙殺し、天地に問いかける晴男。
「先生、あのさ……、」
「なんじゃ?」
「幾つか質問してぇことがぁあ! ……」
ビシィイッ! と、スミレの手刀が一閃。頸椎に食い込み、晴男は痛みを感ずる間もなく意識を失う。
「私が来いと言ったらさっさと来る!」
既に気を失っている晴男に厳格な表情で見下ろしながら吐く。
「……なんか、大丈夫? 今スンゲー音したけど……」
ドクターは、一応心配してみた的なイントネイションで聞いてみる。
「大丈夫なのはご承知でしょ。このヒト、並じゃない。流石先生の一番弟子ね」
「類い稀なる逸材じゃからな。頼むから大切に扱ってくれよ。うひょひょひょ……」
「イエッサー」
晴男をストレッチャーに載せ、壁のコンソールに鎮座するタッチキーを操作する。
光学迷彩のインヴィジブルゲートが開き、ポリマー樹脂とチタンで構成された物々しくフューチャーなラボが露になる。
衣服を全て剥ぎ取られた晴男はポッドの中、様々なセンサーやデヴァイスを装着される。起動準備を終え、天地にスタンバイ完了を告げるスミレ。天地は手元の小型端末のパネルを確認し、
「よっしゃ、晴男よ、楽しい記憶の旅を! ゴッドスピードハルオ! ポチっとな」
スミレがたまらずシャウトする。
「イェーイ! ロッケンローーーー‼」
「あ、奥に栗蒸し羊羹あるから、お茶にしよ」
「かしこまりました」
スミレは、自らがマキノ原まで出向き、吟味してブレンドした茶筒を開けた……