巻き戻しの時間職人
どうしようか、と。
呟いた声がどこか他人のもののように響く。
いつもと同じ、平凡な日常が今日も始まるはずだった。
明日なんてこなければ良い。
時間が止まれば良い。巻き戻れば良い。
受験勉強漬けの毎日。そんな幻想めいた感情を、今まで1度も抱かなかったと言えば、嘘になる。しかし、いきなりこの仕打ちは、あんまりではなかろうか。
朝、目が覚めて。おはようと、いつもの食卓に向かうと、両親が静止していた。点けっぱなしのテレビは、朝のニュースのキャスターが、同じ姿勢のまま動かない。父が口に運びかけているコーヒーは、良い薫りをさせて、カップに添うように斜めに、絶妙な角度で止まっていた。母親はキッチンで目玉焼きを皿に盛っていたところだ。フライパンから目玉焼きを滑らせるようにしたまま、止まっている。
「どうなってんだ、これ」
静かな世界に、自分の声だけが響く。キッチン、トイレ、寝室、リビング。行ったり来たりしても、何も変わらない、何の動きもない。自分以外は。何が起きているのかわからない。自分の理解を越えた現象だ。外に出ようかと、足を出した時だった。
「あら、綻びの正体はキミ?」
よいしょっと、いう軽い声と共に、天井から女の子が降ってきた。僕は、急な出来事に驚いて1歩飛び退く。赤色のフード……どこか童話、赤ずきんちゃんを思わせる格好をした、小さな女の子が立っている。右手には自分の身長ほどの長い杖、左手には懐中時計が握られている。僕の腰くらいの小さな外見とはうらはら、大人びた口調で話しかけてくる。少し気だるそうな丸く大きな瞳が僕を睨み付けるように見てくる。その表情は、不機嫌というか、なんだか、退屈そうな顔をしていた。
天井に穴もなにも無いことを確認して、改めて上から降ってきた女の子を、見た。
「なんなんだ、お前、これは……?」
僕は、新たなる謎の出現に困惑しつつも、自分以外の人間……ではないかもしれないが、とにかく、自分以外の動くものが現れた事に、少し安堵もした。無駄かもしれないと思いつつ、女の子に尋ねる。
「時間が巻き戻る準備よ」
女の子の幼い声が告げた。
「時間が、巻き戻る?」
「そう。人間が知らないだけで、この世界の時間は、たまに巻き戻ってるのよ。貴方もない? あれ? これどこかで経験したな、って感じ」
デジャヴというやつだろうか。確かに、1度や2度、もしかしたらそれ以上の経験があるかもしれない。考えても仕方ないことだから、気にもとめないが。
黙ったままの僕。沈黙を肯定と捉えた女の子は、そういうことよ、と頷く。
「それは、戻される前の貴方のとった行動の、消えずに残った僅かな記憶に引っ掛かった出来事よ。同じ時間の地点に進んだ時、全く同じ行動してるのね」
「でも、今回みたいなこんな、時間が止まったなんてのは経験した事がない」
「たまにあるのよねー。イレギュラー。戻している時間の流れからなにかの拍子に外れちゃう人。それをこの懐中時計が、時間の綻びとして、私達時間職人に教えてくれるのよ」
左手の懐中時計を掲げ、退屈そうな顔が、一段とめんどくさそうな表情をつくる。僕は、聞き慣れない単語に食い付く。
「時間職人?」
「まあ、言われた通りに時間を操ってる人ね。進めたり止めたり、直したり?」
「時間を、直す?」
って言うとまた違うわね、と、少し言葉を考えるような沈黙があった。やがて女の子は、たんっと長い杖で床を打って、口を開いた。
「まあ、キミみたいな綻びを、時間の流れに入れ直す事よ。じゃないと、巻き戻しが終わったとき、キミだけ巻き戻した時間に入れなくて、キミの時間が巻き戻しされないの。それは、正確な世界の巻き戻しにならないから。キミだって、このまま巻き戻した時間が始まったら混乱するでしょ? 本来その時間にキミがいなくちゃいけない場所に、キミはいないし、過去に進んだ時間の記憶も経験も流れも持ったままよ。わかる?」
いまいちピンとこないが、つまり、このまま放っておかれると僕は、今この自宅のリビングにいる、という状態のまま、過去に戻されるらしい。戻される時間がどれくらいなのかは分からないが、仮に10年戻したとして、10年戻したあとの世界に存在する僕は、10年後の今の僕なんだろう。だとしたら大事だ。曖昧に頷くと、女の子はそんなわけだから、と続けた。
「大人しく時間の巻き戻しの流れに入った入った」
「あ、待って。最後に!」
懐中時計を、ポケットに仕舞ってから、背中をぐいと押してきた女の子に待ったをかける。女の子は面倒そうに顔をしかめたが、待ってくれるらしい。
「時間を巻き戻してるのは、誰なんだ?」
来ると思った。顔にそう書いてあるかのように、表情が読み取れた。
「神様よ、かみさま」
「か、神様?」
「そ。地球上は生き物がいっぱい。特に人間なんかちょこまかと動き回るもんだから、神様達も色々と判断しなきゃいけない場面で、見逃したりするシーンが出てくるわけよ。あ、今の見逃した! 巻き戻して! っていう。わかるでしょ、この感覚」
「……録画した、テレビみたいだな」
神様なんて聞き慣れない、信じられない単語の後に、現代的なセリフをあてられてしまい、少し呆れる。
「そういうこと。それの世界規模。案外、そんなもんなのよ世界の時間の流れなんて。放っとけば進むから、進めるとか早回しはしないけど、巻き戻しや一時停止は結構あるの」
言いながら、女の子はまたぐいぐいと背中を押してきた。時間の流れに戻すというのは、どうやら力業らしい。押しながら、ここかな、と立ち止まる。そのタイミングで、疑問を述べた。
「なんで、色々教えてくれたの?」
「知ってた方が、納得してくれるでしょ」
「まあ、そうだけど、世界規模の時間の巻き戻しだろ? 守秘義務とか、そういうの」
「ああ、そんなの心配ないわよ」
「え?」
現れてからずっと退屈そうな顔をしていた女の子が、ニヤッと笑った。
「巻き戻れば全部忘れるもの」
え? と、呟いたのかそうでないのか。瞬間、女の子が持っていた長い杖で頭を殴られ、世界が歪んでいく。ぐるぐる、ぐるぐる、と。経験したような、そうでないような出来事が一気に頭に流れ込み、ぐるぐる、ぐるぐる、と明るい渦と暗い渦を作っている。やがてそれは、混ざりあったコーヒーとミルクのようにひとつになり、僕は、意識を手放した。
ふと気づくと、僕は、本屋で立ち読みをしていた。
……ふと気づくと? 自分で思った事に、違和感を感じる。気づくとも何も、受験対策の参考書を探しに本屋にきて、新刊の漫画に気をとられたのはつい先程の出来事だ。妙な違和感を抱きながら、読んでいた漫画を棚に戻し、参考書を探しにコーナーを移動する。ほどなくして見つけた目当ての参考書を手に、レジヘ向かう。本屋の名入のカバーだけかけてもらったそれを、鞄に仕舞う。帰ろうかと出口に向かう途中。
「ママ、これ買ってー!」
小さな女の子の声に妙に反応して、姿を目で追う。子供向けの大きめの絵本を抱えて、母親らしき女性の元へ走る。赤ずきんと書かれたその絵本に、意識が向く。なんだか、最近赤ずきんをどこかでみたような気がしたのだ。だが、受験勉強漬けの毎日で、テレビ、ましてや絵本など見ていない。学校のポスター? 何かイベントでもあったろうかと考えたところで思考を止める。まあ、考えても仕方ないことだ。
ふと、女の子が僕を見ていた。気づけば、最初に目線をむけたまま、すっかり凝視していたようだ。誤魔化すように曖昧に笑うと、女の子は笑顔で手を振ってきた。良かった、警戒はされてないようだ。ホッとして、手を振り返し、僕は女の子に背を向けた。だから。
「どうやら、ちゃんと記憶は消えたみたいね」
ニヤッと笑った女の子を、目撃する事はなかった。
「さてと、これから……」
どうしようか、と。
呟いた声がどこか他人のもののように響く。
end




