P2-48.5 持ち物の話
第二節49、にしようとして、途中で止めてしまったもの。
椋がエネフから荷物を返してもらう話。
外の小鳥がさえずる声に、ふっと椋は瞼をあげた。
カリアが帰っていったあとも色々と、一人ベッドの上で考えこんでいるうちにいつの間にか眠りこんでしまっていたらしい。起き上がって壁掛けの時計を見上げれば、針の指す時刻は朝の七時より少し前だ。まあこの世界の標準からすれば決して、遅くはない時間帯である。
しかしそんな考えはどうやら椋だけのものであったようで、ベッドのすぐ近くにあるサイドテーブルには、銀のふたがされた何かがどんと鎮座していた。もしかしなくともそれは自分の朝飯なのだろうと、想像はつく。
まだ若干眠い目をこすりつつ、これまた用意されていた銀製のタライの水とタオルで顔を洗った。なんかヘイの家で居候してるより豪華だ、などと思いつつ、勿論そこに嬉しさはない。
いくら待遇が良いとは言え、現在の椋がこの部屋に軟禁状態に置かれていることには変わりが、ない。
「…わー」
しかし本当に豪華である。銀の蓋の下には、スクランブルエッグに似た何かと燻製肉、レタスにキャベツにトマトにホウレンソウや果物もろもろ(勿論このひとつひとつにはこの世界の名前がついているのだが、味も見た目もほぼ変わらないので椋は便宜的に野菜をこう呼んでいる)、ぱっと見にはコーンクリームスープに似た汁物に、パンは三種類もあった。どれもまだあたたかく湯気を立てている。
軟禁の対象にこれでいいのだろうかと少し思ったりもしつつ、情けなく音を立てた腹の飢餓感には逆らえない。毒が入っている可能性も否定はできないが、そんな七面倒くさい消し方をしようとするくらいなら、椋を捕らえたときにすぐ殺してしまった方が明らかに楽なはずである。
とりあえずはスープから口をつけることにして、ふと昨日は昼以降、何も食べていなかったことに今更ながらに椋は気づいた。
フォークとナイフを手に取りおかずやサラダにも手をつけつつ、集中し過ぎの結果として低血糖でいきなりぶっ倒れるヘイの姿がふと脳裏に浮かぶ。まあ冷蔵庫にまだそれなりに食料は入っていたはずだから大丈夫だとは思うが、あちら二人の状況どころか、椋自身が置かれている状況すら伝えることのできない現在に思わずため息をついた。
しかしまあ、できない分からないとそれだけを言っていても何も変わらない。
とりあえずは朝飯を済ませてしまおうと、二つ目のパンを手に取ったくらいのときだった。
「お、起きたのか。さっきやった使用人の話ぶりからすると、まだぐっすりかと思ってたんだが」
「エネフさん」
真ん中から二つに割ったパンの一方をぽいと口の中に放り込むとほぼ同時に、ガチャリと外側から部屋のドアが開いた。こちらへと投げられる声に視線を向ける。
丁度そのとき口の中にあったパンのかけらを飲みこんで、どことなく飄々とした笑みとともに中に入ってきた人物の名を椋は口にした。
何の用だろうと思いつつ、手にしていたパンを皿の上へ戻す。しかしなぜかエネフは変わらぬ笑みで椋を眺めているだけで、特に何を話しだそうという気配がまるで感じられない。
奇妙な沈黙が場に落ちかける。何とも言いがたい居心地の悪さのままにとりあえず、椋は口にできる言葉を探した。
「あー、えーと、…おはようございます」
そうした結果出てきたのは、結構に間抜けな朝の挨拶だった。
なんでだよ! 我がことながら思わず内心突っ込んでしまった椋に、何をどう可笑しくとってくれたのか、ぷっとエネフは楽しげに吹き出した。
「うん、おはようミナセ君。昨日はよく眠れたかい?」
「まあ、ええ。おかげさまでそれなりに」
その笑いのまま問われる言葉に、変に安堵めいたものを覚えてしまいつつ椋は応じた。ものすごく間抜けだったことに変わりはないが、とりあえず笑いは取れたらしい。
マイペースに椋の方へと歩いてきたエネフは、どこからともなく引き出したもう一つの椅子にひょいと腰をかけた。このサイドテーブルには現在椋の座っているもの以外の椅子はなかったはずなのだが、突っ込んだところで結局「魔術」の一言で済ませられそうなので敢えて何も言わない。
ふっとひとつ息を吐いて、改めて目前の人物を椋は見た。
まずはやろうとそう決めた、一つの事柄について彼は、口にする。
「エネフさん」
「ん?」
「こんな朝から申し訳ないんですが、実はひとつお願いしたいことがあるんです」
ざっくり切り出した椋の言葉に、わずかに驚いたようにエネフはひょいと眉をあげた。
しかしそんな椋の言動はどうやら非常な予想外というわけでもなかったようで、割合すぐに彼は表情を普通に戻してわずかに首をかしげる。
「早速かい? だがどんなに頼まれたって部屋の外には出してやれないよ」
「それに関してはもう昨日、何回も念を押されたじゃないですか」
小さく苦笑して、椋はひょいと肩をすくめた。
本当になにもしていない椋にしてみれば無論、その処遇もまた物凄いまでに不条理である。だがもし同じ容疑をかけられた平民がいたとするなら、確実にその人物は既におまえより数段ひどい目に遭っているぞ、自白を強要されず自由な発言も許可されている現状はむしろ破格と言った方が正しいぞ、と。至極真面目にクレイに言い切られてしまったのだ。
おまえの意思云々の前に、今はここにいるのが一番の前にとっては安全なのだと。
表向きそして裏向きの理由もきっぱりと説明されてしまえば、もはや反論する気力も椋には湧かない。――命が狙われる可能性がある。誰に何を強要されるか分からない。少し前までの椋にはフィクションでしかなかったはずの物事が、雪崩を打って目前まで迫ってきている。
またひとつ椋が息を吐くと、何となくそれはため息じみて部屋の中で響いたような気がした。
「そりゃ勿論、できるならすぐにでもここから出たいとは思ってますけどね」
「まあ、だろうね。しかしそれなら、君の言うお願いっていうのは何なんだ?」
あくまで不可能は不可能であると、さらりと断じその一線は動かさないエネフが問うてくる。
この部屋で一人でいることしか許されない現在の自分に、最も必要なものを手に入れるための言葉を椋は口にした。
「中身を全部検分したあとで構わないので、俺の手荷物を返してもらえませんか」
外に出られない、他人との接触も不可能。
となれば椋にできるのは、限られた人物からの限られた情報を少しでも自分なりにまとめ、この「殺人」に関する自分の無関係を導き出すことだけだ。
昨日はバタバタして結局今も連絡がつけられていない、ヘイやリー、クラリオンの皆にもとりあえずのところを伝えてもおきたい。ヘイたちはともかくクラリオンの面々には、真実をそのまま話すことはさすがに、できないが。
彼にとって多くの「手段」が詰め込まれたバッグの返還を願った椋に、エネフから返ってきたのはあまりにあっさりした声だった。
「奇遇だな。俺がこんな朝っぱらから君を訪ねてきた理由もそれなんだよ。ミナセ君」
「へ?」
「いや、なにしろ俺たちには、誰一人としてこれが開けられなくてね。中身を確認しようにも、やりようがなかったのさ」
「……あー」
俄かには彼の言葉が理解できなかった椋も、続いて発されたエネフの言葉で何となく納得した。
思い出す。そんなに気にいったんならやるよ、テメエだけが使えばいい。この亜空間バッグをヘイから貰い受けたとき、椋へと渡す直前に、バッグの表面にヘイが模様をいくつか、もぐしゃぐしゃと乱雑につぎ足していたことを。
今から考えれば要するにあれは、バッグのセキュリティ対策を強化するためにヘイが即席に魔具に付け加えた魔術だったのだろう。
カギも暗証番号も本人認証もなしに、便利なもんだと今更ながらに感心してしまう。ウエストポーチくらいの大きさしかないのに、その中に簡単におおよそB5A4サイズのノートや、手紙の束に筆記用具、果てはかなり大玉のキャベツやらかぼちゃやらに至るまで当然のように出し入れができてしまう光景は、もはやただの詐欺である。
ぽんと無造作にバッグを手の上に置かれ、エネフの視線に促されるがままいつもの通りに椋はそれを開いた。
開く瞬間少し驚いたような表情を彼が浮かべたような気がしたのは、マグネット式のそれに似て簡単に開く、はずのカバー部分が、彼らにはどうやっても開くことができなかったという言葉の証左なのだろう。小さくひとつ笑って、椋は無造作にバッグの中へと手を突っ込んだ。
ごそりと探って出てくるのは、すでに何十枚もの紙が乱雑に挟まれた三冊のノートに、ヘイがくれた色鉛筆、ペンが数本、サイフ。
いったいどういう理論でか無限に出せる醤油やらだしやら、「あちら」にしかない調味料の入ったヘイ作特製瓶がいくつか、ヨルドたちからの手紙が何通か、一見すればただの装飾品にしか見えない治癒魔術四種の魔具に局所麻酔代わりのあの魔具、専用のペンで名前を書けばその相手に連絡をつけることができるメモ帳もある。
結構な量のお菓子やらコーヒー豆やら、試しに買った調味料などもバッグを漁るうちに次々出てきた。なぜか鉢植え用の小さな鉢とじょうろが出て来た時には、我ながらどうしようかと椋は思った。
一通りの中身をすべて出して並べるころには、ダブル程度の大きさがあるはずのベッド上がほぼ一杯に手荷物で埋め尽くされていた。
「これはまた、なんというか」
「自分で詰めて自分で出しといて何ですが、俺もこんなに中身入ってるとは知りませんでした」
呆気に取られたエネフの声に、椋も苦笑するしかなかった。知らなかったというより、半分くらい本気で忘れていたと形容する方が状況の説明としては正しいのかもしれない。
後はエネフに問われるがまま、一見すれば用途の分からないものたちの説明を椋はしていった。
さすがに治癒魔術の魔具四つについては、もらいもので気に入ってるから持ち歩いているのだということくらいしか言えなかった。
「……うん。まあこれなら大丈夫だろう」
一通りの説明をやり終え、しばらく何か考え込んでいたエネフが最終的に下したのはそんな判断だった。
あっさり通ってしまった許可に、自分から願い出たことながら驚いてしまう。結構に長い間五つの魔具を眺めていたエネフの視線は多少気になったが、下手につつけば藪蛇にしかならないような気がしたので口をつぐんでおいた。
「それにしてもなあ」
ふと、そんな言葉とともにエネフが笑う気配があった。
もう一度中身をバッグの中へと放り込み始めていた手を止め、椋は己の後方を振り返る。面白がるような目で笑うエネフは、どことなく優雅な所作で椅子から立ち上がった。
「君の名前や髪と目の色からしても、この国の人間じゃないんだろうとは思っていたけどさ。ここまで奇怪な文字の羅列なんて、初めて見たよ」
「え? ……あ!」
笑いながら椋へとノートを差し出すエネフを見て初めて、実はノートが一冊ベッドの上から消えていたことに椋は気づいた。
誰に見せるわけでもない、自分のためだけに色々なことを好き勝手に書き殴ったノート。その中身は絶対に、エネフには理解ができないはずだ――なぜならあえてノートの中身を、椋はすべて自分の母語、日本語で記述している。
理由はまったく分からないが、異世界であるこの地の自分のものとは違う言語を椋は自在に操ることができる。椋の喋る言葉は自動で相手が分かる言語へ翻訳されて届くし、意識さえすればこの国の言語、リナクス語も普通に椋は書くことができるのだ。
しかしやはり「意識さえすれば」という但し書きがつくため面倒だから、というのが、椋が落書きノートを日本語で書き出した非常に些細なきっかけだった。
今となってみれば、別の意味でもそれは正解だったのかもしれないと思う。まあ今のような場合においては、余計な詮索の原因にしかならないが。
だがたとえこのノートをどこに置き忘れたところで、記述されている内容が椋以外の誰にも理解できなければ。
中に書いてあることが何であったとしても、今回のような無茶苦茶な影響の仕方はまず、ただ「書いてある」それだけである限りは有り得ないのだろうから。
「……」
「悪いね。君を疑いたいわけではないんだけど」
どうも笑っていると断定できない表情で笑う男に、小さくひとつため息で椋は応じた。
ベッドの上に残っているもう二冊を拾い上げながら、ぱらぱらと自分自身の決して「きれい」とは言えないいくつもの書きなぐりの結果を眺める。ふと目についた、自分で書いたはずの知識をほとんど忘れかけていることに気づいて背筋にうすら寒いものが走った。
増えないどころか削れ、薄れていく一方の知識。何を用いて確認することもできない、新たに得ることは不可能なものの羅列。
わずかに目を細め、もうひとつ椋はため息をつく。
「これは本当にただの、俺の覚書です。今回の件に関係するようなものはどこにも書いてなんていませんよ」
「そう嫌そうな顔をしないでくれよ。言ったろ、俺だって君みたいなやつにわざわざ、こんなことはしたくないんだ」
「……要するにこれは俺には戻せない、と?」
「これも含めて今君が出したもの全部、本来ならば君に返すべきではないんだろうけどね」
どこか至極面倒そうに、エネフはそんなことを口にして天井を仰いだ。
「まあ、色々と今は言い訳が必要でね。どうしても必要というのであれば、俺が今のように、君の目の前にいるときにだけ要請して使うようにしてくれ。少なくとも、君の疑いが晴れるまではね」
「……なんだかなあ」
「おいおい、その台詞は俺のだよミナセ君。大丈夫だ、絶対に君のような人間に、あのような計画的な殺人などできるわけがないんだから。
ちゃんと君が無罪放免になるまで、これは俺が大事に預かっておくよ。俺たちには、どういう奴でも多分こりゃ絶対に読めないと思うけど、相当に大切なものなんだろう?」
「……はい」
なにしろ日に日に薄れる一方の、椋が持つ医学知識を片っ端から書き出したノート達だ。
取り戻せなければ、もう二度と思い出せないものがどこに転がっているかも分からない。せめて総論みたいな本が一冊あれば、とは思うが、どうしようもない。
少なくとも彼、エネフは椋の敵ではない。椋自身が変なことをしない限りは、その言葉は守ってくれるだろうと思う。
何でこんなに、何もかんもさっぱりワケわかんないことになるんだか……。
何度目とも知れないため息は、空気にぬるく溶けて消えた。
ちなみにきちんと色々が解決した後、エネフは椋に、ちゃんと本当にノートを返してます。
色々お小言というか愚痴つきで。(笑)