P3-19.5 空白はおちる
もともとは19の前に入れようとしていたお話です。
ちょっとテンポが悪くなりそうだったのでこちらに。「忘れる話」です。
ジュペスがはっきりとその異常を確信したのは、すぐ横を共に歩いていたロウハが足を止めた瞬間だった。
「ロウハ?」
不自然に空いた彼我の距離に、ジュペスは振り返り相手を呼ぶ。
返り越しに顔を見て、彼は少なからず驚いた。わずか前には意気揚々と情報を挙げるべく輝いていたはずのロウハの顔は、今は困惑の一色に塗りつぶされて、そこで止まっていた。
止められても兄貴はとんでもねえなぁ俺たちも動くしかねえよな! などと、嬉しそうに張り切っていた様子はかけらも残っていない。彼はただ視線の先で困っていた。途方に暮れて、何が何やら分からないような表情をしていた。
そわりと、背筋に心地の悪い感覚が走った。
――何の話だ
魔力を持たない人間は、最初から何も「認識」すら不可能だった。
魔力を少し持つものは、時間が異常に経過していたこと、それを指摘された瞬間だけ驚愕する。だが、その刹那の後には、もう「なにもない」ように違和感が捨てられる。
彼らの意思など何もなく、まるで条件反射のように一瞬で削り取られ、根こそぎ奪われてどこかに放り捨てられる。一方的に「知る」方は、尋常でない違和感と状況の重篤・異質を刻み込まされる。
ジュペスは固唾を呑んだ。
目の前のロウハの表情が、ひかりが、その「一瞬」を過ぎた人間のそれと重なる。消えていく、消されている。もし本当なら、それは誰にも真実と証明できない、おそろしい現実であった。
悪寒の正しさを示すように、ロウハが困り切っている。
「俺、何しようとしてたんだっけ、ジュったん」
「……っ!」
ぎゅっと眉間に力が入る。奥歯を噛みしめる。
なんだ、これは。明白な「なにか」の意図は、もはやその意図の実在すら、こちら側から嘲って剥ぎ取り打ち消していくかのようだ。
彼らは今、動けないリョウに代わっての情報収集の真っ最中だった。
患者がひとりいなくなった。短い第一報を耳にした彼は、少なすぎる情報を前に、しばらく考え込んだ。扉の前を守るジュペスたちを扉ごと押しのけるようにして中へ突進していった託けの調子から言っても、詳細な第二報が「国外の人間」、リョウ・ミナセにまであがってくるには、相応の時間がかかりそうな雰囲気だった。
当時の現場もだいぶ混乱していたらしく、実際、もう少しばかり詳しい情報を、それこそロウハがリョウの部屋に持ってくるまでも、30フィオ(30分)ほどの時間がかかった。
いわく、動けないはずの病人、ヴォーネッタ・ベルパス病の第3症例が誰の目も掻い潜って消えた。
即座に行われた遡行の魔術は、「いた」次の瞬間にベッド上の血痕だけを残して消え去る異質の光景だけをただ拾い出した。
その情報から、もうひとつの失われたものが判明した。その、消えた時間の記憶、意識。それらすべてが、すべての人々から欠落していたのだ。
ロウハが告げるそれらを難しい表情で聞いていたリョウは、少しばかり沈黙してから、こう言った。
――本当に、誰も例外なく、ここにいた全員から欠落してるのかな。
実際に指摘されるまで「欠落」すら意識できなかったジュペスたちへ、彼は首をかしげながら言った。俺はたぶん、動いたらめんどくさいことになるんだと思う、だから、皆に調べてもらってもいいかな、と。
だからジュペスたちは今、情報を集めて回っていた。
ぽつりぽつりと集め出したばかりのそれは、まだまともな線になっておらず、彼の仮説を肯定する強度はない。今日の朝、ある、ひとつの時間が「消えた」こと。さらにはその「消えた」ことを、完全に忘れてしまうこと。最初に消えたのは無魔のクレイの記憶であり、リョウの世話をする、無魔の使用人たちの記憶だった。次には少しばかりの魔力を持つ使用人たちの記憶が落ち、その次は――位階を持てるほどの力はまだないだろう、ピアと、リベルトの記憶だった。
何とはなしに、ジュペスは懐から取り出した時計を見た。調査を始めてから1ネーレ(1時間)、患者の失踪が明らかになった時間からは、もうすぐ3ネーレ(3時間)が経過しようという頃合いだった。
ロウハの魔力量はもともと、詳しくは知らないが「大したもんじゃない」と笑いながら言うのをジュペスはもう何度も聞いていた。情報に、それが己から喪われないことに特化している、とも聞いたことがあった。
胸が悪くなりそうだ。堪え切れない動悸に、ジュペスは思わず胸に左手をやる――つまり。
「どうしよジュったん、俺今超絶に気持ち悪ぃんだけどどうしよう」
「……」
「くっそ、なんだよこれ、なんでこんなモヤモヤすんのだけ物凄い残ってんだ。ジュったん、おかしい。本気で相当にヤバい。普通ならあり得ないんだってこんなん、俺から落ちたとか、カイゼイが、落とすとか、さぁ」
ロウハは見たことがないような表情をしていた。
今にも泣き出しそうな、喚きだしそうな途方に暮れ切った声であり言葉。そのすべてはジュペスに気味の悪い感覚しか生まない。リョウの「疑念」が、非常に悪い意味での正解を穿っていたと、確信せざるを得ない。
消されている。本来であれば消えようもないものが、暉かな何かの意思によって奪われていっている。
見えざる手の悪意が、透けて感じられるような気がする。だれか、なにかも分からぬ「それ」の、歪み切った、おぞましい笑みの姿すら。
もはやジュペスとて、どれだけ保つか定かではない。
彼は目の前の彼の腕を掴んだ。
「……戻ろう、ロウハ」
「ジュったん」
「リョウさんのところに戻るんだ。きみだって、僕だって、いつまでこれがわかるか、わからない」
異常なほどの焦燥に駆られる。有無を言わせずジュペスはその場から踵を返した。彼を引っ張って進んでいく、カーゼットへと与えられた場所へと、半ば走るような勢いで戻る。感覚には一切の根拠はなく、だが、己のその類の感覚は、ある程度の信用に足るものだと、ジュペスは知っていた。
でなければ己はここにいない。
さまざまのことの、ひとつも越えられずにとうに命を擂り潰している。
「……っ」
「何の変哲もない」日、「何の変わりもない」朝に、血相を変えて廊下を走るように渡る自分たちは相当に不審なのだろう。
向けられる目は、ただ怪訝のそれだった。迷惑そうな、鬱陶しい騒々しいものを見るような、感覚を隠しもしない目も、おそらくはいくつもあった。
だが気にかけられるような余裕は、もはやジュペスにはかけらもなかった。
放置してはいけない。明白に過ぎる「意思」の実在、引かれている糸、そこに染まり切った悪意、害意。彼が、リョウ・ミナセが向かい合うものは、立ち向かってゆかねばならないものは、当初にジュペスたちが考えていたものより、ずっと深く暗くドス重く、吐き気がするほどに悍ましく救いなど与える気がなく、徹底した負しかない。
消えた人間、欠落し、思い出しても消えていく、消し潰されていく記憶。
目的はただの国家の崩壊程度か? ひとつの国を、その壊滅を願う程度か?
違う、と反射的にジュペスの奥底の感覚が否定する。そんな程度の理由で、ここまで完璧に悪意が溢れた瞬間に削り取られることがあってたまるか。
もう、あとみっつ、ふたつ、ひとつ。
戻るための角を曲がる途中、ロウハがジュペスに抗おうとした。
感覚すら完全に消されたのか。また猛烈な怖気が彼の全身を巡り抜けた。
「……リョウさんっ!!」
「ジュペス? どうしたんだそんな、血相変えて……ロウハ?」
騒音を立てて扉を開く。飛び込むように内側へ足を踏み込み彼の名を呼ぶ。何か書き物をしていたらしいリョウは顔を上げて驚いたようにジュペスの顔を見、彼のすぐ後ろのロウハの顔も見やり、同時にどこか納得したような、少し痛そうな顔をした。
何も読めなくなったロウハが常の軽さで言う。
「いやあのなんかいきなり、ジュったんが兄貴んとこ戻るって俺ごと走りだしちゃって」
「……っ……!」
「ジュペス」
ぐっとまた奥歯を噛みしめたジュペスの名を、静かにリョウは呼んだ。
彼はもう、驚いてはいなかった。変わらず痛そうではあったが静かだった。最初に、クレイから記憶が消えたとき、誰より一番驚いていた彼の姿はもうそこにはなかった。
代わりのように、小さく首を振って彼は告げてくる。
「少し前に、ヘイとリーさんからも完全に消えた」
何をジュペスが伝えるよりも前に、確信するように。
もはやそれを捉えられないのだろうロウハは、口をへの字に曲げた。曲げたまま、するりと室内から外へと抜け出ていった。情報を求める彼であれば、まずあり得ないはずの行動だった。
何かを堪えるように、重いため息を一つ吐いたリョウがその後ろ姿を目で追う。すべて消えていく、意図を持って消されていく。もう憶えているのは、彼と自分のふたりしか周囲にはいない――そこまで考えて、あまりに今更な疑念がジュペスの中に浮かぶ。
どうしてリョウさんからは消えない?
無魔であるはずのこの人は、何が違って、何の差異で、すべてを今も覚えたままここにいられる?
「普通じゃ、ないんだよな?」
疑念を途切るように、リョウが問いかけて来た。
震える息を、ジュペスは吐き出した。考えようとする、彼へと廻らせようとする思考を、己を制した。
今、いつ失うか分からない己が伝えるべきは、確信に変えるべきは、この状況の異常であった。彼の異端ではなかった。それこそリョウの異質は、いまさら考え出したところできりがないような気もした。
だから彼の問いに対して、はっきりとジュペスは首を横に振る。
「絶対に、違います。……絶対に、あってはならない類の、現実です」
「そっか」
「でも、それならどうして、」
どうしてあなただけが。
問おうとした瞬間、――ジュペスは欠落した。
「……」
「ジュペス?」
有無を言わせず真っ白に塗りつぶされる。捉えかけていたものが、確かに抱いていた感覚がすべて、片っ端から声なき嘲笑とともに嬲り殺すようなてのひらですべて抉られて抜け落ちていく。
目の前の黒すら見えなくなる。声が出ない、奪われていく、戻らなくなる、戻れなくなる、消される、失う、伝えることすら。
震える唇は言葉を紡げなかった。
次に声を出せたときには、もう、なにもみえなくなっていた。
「……何か、僕が言いましたか? リョウさん」
堪え切れないように、顔をくしゃくしゃにして手で覆ったリョウが、その理由が。
もう、ジュペスには決して、わかることが、できない。




