第四話:彼女と町へ(前編)
帰宅してから約三十分後にまどろみの中に消えた俺の意識が、十二分の休息を得て気持ちよく覚醒する。
枕元にある携帯で現在時刻を確認、ただいま八時。
あー、しまった。晩飯の用意なんもしてねぇ。姉貴にどやされるなこれは……。
寝たのが大体二時頃だったから六時間近くも寝てたのか。昼寝としては長すぎたか。
仕方が無いか。自分から作ろうとしない姉貴が悪いんだし、今からでも作ってしまえば文句は言われないだろう。
そう思って寝起きで重くなった体をベッドから引きずり出したところでふと違和感に気づく。
「妙に……明るい」
もう一度携帯のディスプレイを見る、よく見る、じっと見る。
AMとかいてある。
日付を見る。
今日が明日になってる。
つまり俺は、六時間じゃなくて十八時間も昼寝してしまったのか。
恐るべしテスト勉強疲れ。
そして姉貴からの折檻決定。
俺の週末、終わった。
「はぁ……。まぁ仕方ないよなぁ」
寝てしまったもんは寝てしまったんだ。起こさないほうが悪い。
とりあえず朝飯は作ろう。ちょっと遅めだが休日だしちょうどいいだろう。
「その前にシャワー浴びるか……。ベトベトだ」
着替えないで寝たから制服のままだし、よくこんな格好で半日以上も寝れたものだ。
タンスから普段着一式を持ち出し部屋から出て階段を降りる。
「ん……?」
その途中、妙な臭いが鼻についた。
コゲ臭い……?
「まさか……」
イヤな予感がしたので、階段から飛び降り台所へと駆け込むとそこには轟々と燃え上がる赤い炎。青い炎より温度は低いものの、見た目の凶悪さでは圧倒的な赤い炎が我が家の台所で猛威をふるっておられる!
その猛威の奥で見覚えのある後姿が冷蔵庫を物色していた。
「美代さん!火!火、消して!!」
「え?あ、悟さん。おはようございます」
ああおはよう……じゃなくて!
「な、鍋!鍋が燃えてる!」
「鍋?わ、すごいです。燃えてます」
燃えてます……じゃなくて!
「もういい!どけっ!」
滑るようにガスコンロの前に駆け込み火を止める。幸い油とかそういうあからさまに危ないものは燃えておらず、今はもう原型が何だったか知る由もない何かが消し炭になると同時に火も小さくなり簡単に消す事が出来た。残ったのは焦げた臭いと、絶望的に焦げた鍋が一つ。
「だぁぁ……。美代さん、何やってるんですか」
完全に焦げ付いた鍋を無駄だと知りつつ水につけながら放火未遂の犯人を問いただす。
「何って……料理ですよ?朝御飯と今日のお弁当を作ろうと思いました」
起きるのが遅かったら俺自身が直火焼きされるところだったのだが。
朝起きたら目の前が真っ赤、もしくは川べりだった……なんてのは勘弁して欲しい。
しかしこれだけ見事な失敗をしておいて、美代さん自身はこれを失敗と思っていないらしい。
実際にいるもんだ……極度の料理下手な人って。記憶が無いから仕方の無い事かもしれないけど、それにしてはやりすぎではないだろうか。もしかしたら鍋とか溶かしちゃったりするんじゃないでしょうか、この人は。
「もしかして……姉貴の手引きか?今もどこかで覗いているのか?昨日晩飯作らなかった腹いせか?」
姉貴のタチが悪いイタズラは今に始まったことじゃないが物理的に俺を追い詰めるのは珍しい。
「お姉さんならお仕事いきましたよ。ホーコクだけだから昼過ぎには帰るって言ってました。あ、昨日は起こししなくてすいませんでした。お姉さんが疲れてるから寝かせてあげてって。そうそう、晩御飯もお姉さんが作ってくれたんですよ」
な、なんだって?
姉貴が晩飯を?あの仕事以外は万年ぐうたら姉貴が!
俺がまだ料理できなかった時期は姉貴が食事を用意してくれていたけど、俺が料理できるようになってからは一切作ってくれ無かったのに……。
「信じられないな……」
くそっ、やっぱ落ちねぇな、この焦げ。元から焦げてたんじゃ無いかってくらい落ちない。
最初から焦げてるので、これ以上焦げない鍋!絶対売れねぇ、買わねぇ。
とりあえず昨日の晩飯の事は置いといて、朝一番の事件をもう少し追及してみよう。こっちは鍋と違って命に関わる。
「それで美代さんはなんで朝飯作ろうとしてたんですか?今度こそ俺を起こせばよかったのに」
むしろこれからは絶対起こしてくれ。今まで通り夕飯と朝食を兼用するという策は彼女がいるために使えないんだから。
「えっと、あの、そのですね。今日は悟さんにお願いしたい事があったんですけど、朝御飯のために起こしてしまったら頼みづらくて……」
彼女なりに気を使ったのだろうが、見事に逆効果だ。十八時間寝たはずなのに昨日の疲れがぶり返してきた気がする。
「朝飯くらいいつもやってる事だ。それぐらいの事、気にしなくていいから」
焦げ鍋は水につけといて夜もう一度チャレンジしよう。
「どうやら逆に仕事を増やしてしまったみたいですね……。すいません……」
気遣いは素直に嬉しいから今日のところは不問にしておいてあげよう。
濡れた手を拭いて、改めて朝飯を用意するために冷蔵庫の中を覗く。
「それで、美代さんは何を作ろうとしてたんだ?」
「お手軽にサンドイッチを!」
不問は取り消し。無期限台所立ち入り禁止を命ずる。サンドイッチ作るのに鍋使うなんてどういう了見だ。サンドイッチがどんな料理なのか知ってるかどうかも怪しい。
つうか我が家はご飯派なんで食パンは一枚たりとも置いてないわけだが。パンのないサンドイッチとはこれ如何に。サラダか?
目玉焼きに昨日の余りらしい味噌汁。ついでに適当な冷凍食品で朝ごはんの体裁を整える。
姉貴作の味噌汁は不味くはないが、作った人の性格がよくでている。
言うならばお年寄に優しくない仕様だった。
ついでに、
「これがサンドイッチだ」
と目玉焼きを指差しつつカマかけたら、
「初めて見ました!これがサンドイッチなんですね!」
と返ってきた。
「やっぱり知らなかったのか……」
決定。今日の昼飯はサンドイッチにしよう。
「そういえば弁当がどうとか言ってたけど、どこか出掛けるのか?俺に頼み事ってその辺りの事か?」
箸を使って目玉焼きの黄身部分を裂く。我ながらナイスな半熟具合で裂目から黄身が垂れる。
「あ、はい!それなんですけど、悟さんは今日用事とかありますか?」
「いや、特に無いけど」
塩分増長気味の味噌汁を一口すする。
しょっぱいけど、出汁自体は俺より上手く取れてる……。なんか悔しいな。
「もし良かったら今日一日この町の事案内してもらえませんか?私まだ商店街以外行った事なくて」
ふろふきじみた大根を口に運ぶ。でかいくせにこれにもちゃんと味が染みている。
大雑把なのに繊細。どうやって作ってるのかわけがわからない。
「んぐ。いいんじゃないか。天気もいいし、絶好の散歩日和だ」
幸いにもこの町は観光名所とまで呼べる場所は無いが、観光客ではなく新しい住人という意味では見せる場所に事欠かない。
一日退屈せずに過ごすには十分すぎるだろう。
「ありがとうございます!では、準備しますね!」
嬉しそうに胸の前で手を合わせた後、二人とも食べ終ったのを見計らって俺の分の食器も一緒に流しまで下げる。
さて、予想外な所で週末の予定が決まったわけだが先ずはどこに向かうか。
この町は商店街を境目に発展具合がばったりと変わってくる。
こちら側は比較的まだ開発されておらず、散歩に適していると言ったらこっちだ。公園の数も多く、休日なので子供達の声でにぎわっている事だろう。
逆に商店街を越えた先の駅で電車に乗り、二十分ほど揺られれば人の手が入った町並みへと変貌する。商店街には無いちょっと手に入りにくかった物もそこまで足を運べば見つかる事が多い。
とはいえ基本的には田舎なので都心のような高層ビル等というものはないが。
純粋に遊びに行くといったら駅に向かったほうがいいけど……。美代さんはゲーセンとか平気だろうか。
昼飯は……サンドイッチ。これは決定している。具だけ持参して、パンは途中で買って……。
後はどこで食べるかって事だけど……。
ふむ。まだ朝も早いし、時間的にもあそこで食べるのが調度いいか。
「美代さん、弁当は俺にちょっと考えがあるんだけど任せてくれない?」
彼女にサンドイッチとは何たるものかというのを教えておかなければならなかった。
むしろ料理とは何たるものかという根本的な事を叩き込まなければならなかった。
「はいっ。楽しみにしてますね」
楽しみされるほど大した物じゃないんだけど、きっと彼女は思いっきり楽しんでくれるだろう。
作るほうとしても気合が入る。気合いれて変わるような物でもないのだけれど。
「とりあえずシャワー浴びてくるから、少し待っててくれ」
小火事件のせいですっかり忘れてた。丸一日着続けていた制服は、寝汗のせいもあってか少し匂っていた。
俺が起きてから約一時間半。
シャワーを浴びた後、外出用の着替えを部屋から持ち出して着替え、弁当箱にサンドイッチの具を詰め込みこちらの準備が万端になったところで着替え終わった美代さんが階段を降りてきた。
正直に言います。見とれてしまいました。
冷静になって考えたらパジャマ姿だったさっきまでの美代さんもそれはそれで十分にやばかったが……。
現れた彼女が身に着けていたのは涼しげな白いワンピースにつば広の帽子。
それだけでレッドカードを箱買いして封も開けずに投げつけるほど反則だった。
「どうですか?似合いますか?お姉さんに買ってもらった服なんですけど着るのは今日が初めてなんです」
似合ってるどころの話ではない。
今彼女が着ている服を男子高校生に例えたら、明日には校舎裏に呼び出されて袋叩きに遭うな。絶対遭う。俺が率先してボコる。
「ん、似合ってると思うよ」
しかし逆境に慣れた俺にかかれば心の中に広がる動揺を押さえ込んで平静を保つ事など容易い。
「本当ですか!良かったぁ」
だけどやっぱり彼女の笑顔の前に屈する事になり、視線を背ける。
やばい、俺絶対今ニヤけてる。
ちょっと待てって。俺は今から目の前のこの人と二人で町に繰り出すつもりなのか?
それって端から見たらデ、デート……だよな。
頭の中がぐつぐつと煮えていくのがわかる。
落ち着け……落ち着け俺。
ほら、デートが何だってんだよ。もう既に一つ屋根の元で暮らしているじゃないか。
……それってつまり、同棲?
「……………」
逆効果だった。
「悟さん、どうしたんですか?早く行きましょう!」
何のかは知らないが、覚悟を決めよう。
今日一日彼女を退屈させない事、そしてこの町を好きになってもらう事。
それだけを考えて頑張るしか無いのだから。
「先ずはどこに案内してくれるんですか?」
俺の横にくっついて歩いている美代さんが、期待の眼差しを向けてくる。
「最初は商店街だ。期待を裏切るようだけど、パンを買わないと昼飯がサラダになるからな」
徒歩で十分強といった所にある巫山商店街。学校についで俺がよく行く場所である。
しかしあくまで商店街は通過点。本日午前のメインイベントではない。
「お店でパンを買って、そしてまたこっちに戻ってくる」
彼女の瞳に期待の色が一層強まるのがわかる。
「それで、家でお昼ご飯ですか!」
期待してるのか……?家での昼飯。
「あれ?家でお昼ご飯っていつもと同じじゃないですか!」
どうやら彼女も彼女でかなりテンションが上がってきているようだ。
今の彼女ならきっとどんな事でも心の底から楽しんでくれるだろう。
だからといって手加減するわけにはいかない。
「家では食べないよ。こっちに戻ってきたら俺の学校のほうに向かう」
比較的高い所に建っている校舎はここからでも小さいながら肉眼で確認できる。
「悟さんの学校でお昼ご飯なんですね!それは楽しみです!」
む、それはそれで楽しそうだがそれはまたの機会にしよう。
「それじゃまだ昼飯にしては早いだろ。俺達の目的地はもうちょっと遠くて、あそこだ」
指で昼食を取る場所を示す。
それは学校の方角、しかし指はもっと高い所に向いている。
「今日の昼食はあの山の頂上で食べます!」
「山ですか!私、山登るの初めてです!」
そりゃそうだ。初めてじゃなかったら俺の計画が一気に崩れるところだ。
とりあえず午前中、なんとか彼女から退屈を奪い去る事ができるようだ。
俺にとってもきっと最高に楽しい一日になるだろう。
「それでは、しゅっぱーっつ!」