第二十一話:憧れの日
それは、今から六年前。
一人の少年が、一人の少女に負かされた事により始まった。
暑い夏の日。飽きる事無く降り注ぎ続ける日差しは、市営のグラウンドをまさしく灼熱へと変えていた。
誰もがその暑さにうなだれて、視線を地面に向けたくなるような熱気の中で、大勢の観衆の視線は一人の少年に向けられていた。
少年の名前は江藤悟と言う。
地元のサッカー団の選手として、彼はちょっとした有名人だった。
入団直後からその才能を惜しむことなく見せつけ、今では県外にもその名前が届く事がある。
その彼の元にボールが大きな弧を描いて飛んできた。
試合は同点で試合終了を直前に控えていた。
ラストプレーになると踏んで、ほぼ全員で攻撃に出ていた相手チームからボールを奪い見事なカウンターを仕掛けたのだ。
「信じてたぜ!綾っ!」
自分の元にボールを届けてくれた幼馴染の少女に礼を言いながら、少年はひた走る。
その時点で既に残すはディフェンス三枚と、キーパーのみ。
ボールを奪いにくるのを一人、二人と難なくかわしていく。
残りはキーパーと……。
彼は既に逆転できるという事を確信していた。
自分を信じて、信じた通りにボールが動く。その先に──。
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試合は終わった。思った通り負けた。
予想外だったとすれば、延長戦までもつれこんだと言う事。
もっと点差の開く試合になると思っていたのに。
「前に出してくれてたら勝てたかもしれないのに……」
小さな声でぼやく。誰にも聞こえないように。
でもよく考えたら、私が守ってたからこの点差で済んだのかもしれない。
前も後も、安心して任せられない。任されない。
私がやりたかったのは、こんな事だったのだろうか。
少し離れた所で、チームメイト達がお互いの健闘をたたえあっている。
でも、誰も私の事を話していない。時折私に意地の悪そうな視線を送ってくるだけだった。
男の子の中に一人紛れ込んだ私。
半ば実力があったせいで、私はいつだってこんな扱いを受けてきた。
嫉妬とか、そういう。
「そういえば、向こうのチームにも女の子いたなぁ」
ふと思い出す。
男の子だらけの中に、違和感なく溶け込んでいた女の子。
私と違い、チームから頼りにされ必要とされていた。
「いいなぁ」
思わず溜め息が出てしまう。まさしく自分が望んでいたのはああいうのなのだから。
私はチームの中で一人。チームの中なのすら怪しい。
試合後に必ず湧き出る憂鬱に、視線を下に向けていた。
「いたぁーーっ」
いきなり大声が響き、気分が沈んでいた私は思いっきり驚いてしまう。
何だろうと思って顔をあげると、声の主がこちらへ猛然と走ってきた。
江藤悟、さっきまで試合をしていた相手チームの男の子だった。
「え?え?」
回りの注目を集めながら彼は私の所へとどんどん近付いてくる。
集まった注目はそのまま私にも向けられて、うろたえてしまう。
「さ、悟君……。いきなり押しかけちゃまずいよぉ」
その後ろに隠れるようにあの女の子もいた。
「な、何か用?」
勢いに負けて、後ろに下がってしまいそうになる。
その瞬間、両手を握られて目を輝かせながら言った。
「お前、すげーな!あそこで止められるなんて思ってなかった!」
きっと、私が恋に落ちたのはその瞬間だった。
誰からも認められずに一人でサッカーをし続けていた私には彼が眩しくて仕方が無かった。
そして私は、その一ヶ月後所属していたクラブを抜けた。
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倒れ込んだベッドが軋む。
自分がした事がどれだけ恥ずかしい事か。時間が経つ毎に自己嫌悪が沸き上がってくる。
結局あの後部活には戻らずそのまま無断で家に帰ってきてしまった。
マネージャーとはいえ部員の一人だ。無断で早退するなど許されない。
もちろん、激しいお怒りは逃れられない。
「監督の怒鳴り声が勝手に再生されてる……」
でもそれ以上に、あの教室での出来事が私の心を重くしていた。
勝手な事を一方的に言ったうえに、泣いてしまった。
「でも、しょうがないじゃん……」
自分の中で考えうる限りの言い訳の並べていく。
先輩に告白した日、綾先輩にあんな事を言われた日。
あれから私の心は不安定の極みに達していた。喜びとも、怒りとも、戸惑いともいえない……それらが全部混ざり合ったような感情にとりつかれていた。
私にとって二人はどんな有名人より憧れの対象だった。
初めてであった試合の後、いつも一人だった私の心をすくいあげてくれた先輩。
そして、私には出来なかった事をし続けられている綾先輩。
私は恋をして、好きな事が出来なくなった。
あの後から、私は自分が女の子だと言う事を強く意識するようになった。
何十人もの男の子の中で一人女の子。その状況を以前なら気にもしなかった。
それがそうじゃなくなった原因はすぐにわかった。
私は、あの人に恋をしてしまったんだ……と。
自分の中でそう確信した私は所属していたクラブを辞めた。それと一緒に、自分がサッカーをするという事もどこかに置いてきてしまった。
それからというもの、私は先輩ばかり追いかけていた。
当時から既に有名人だった先輩の事を調べるのは子供でも簡単だった。
どの学校にいるとか、いつどこで試合をするとか。思い返せばちょっとしたストーカーだったかもしれない。
「そっか、昔からか……」
ずーんと再び自己嫌悪にのしかかられた。
でもお陰で先輩と、知り合いから友達くらいにはステップアップできたと思う。
でもそのステップアップと同時に知った事があった。
それは先輩の近くに行こうとすればおのずとわかる事実だった。
二人の先輩の間柄。
試合後に先輩に会いに行くと必ず先輩の後ろに隠れるように綾先輩がいた。
今からじゃ想像できないけど、昔は随分人見知りが激しかったという印象がある。
正直な話、二人が中学に上がるまでは綾先輩に対して強い印象は持っていなかった。
でも、それ以降二人はすごかった。
先輩はそのままサッカーで、綾先輩はサッカーを辞めて陸上で。
通う学校は別だったけど、そんな事関係なく二人の実績はすごかった。
その頃から綾先輩に憧れを感じていた。
二人の関係はすぐに噂になりだした。私にとっては噂ではなく確信だった。
そして私が持っていた二つの憧れは、やがて一つに纏まっていった。
それぞれの夢に向かって走っていく二人の姿に。
憧れは恋心を越え、私は二人を応援し続ける事を決めた。
だというのに……。
「綾先輩がそれを否定してどうするの……」
あれ以来、憧れと恋心の二つでバランスを保っていた所に違うものが迷い込んできた。
それは希望。
もし本当に二人にそういう感情が無かったとしたら……という考えが頭の中に生まれ、希望に後押しされた恋心が憧れを超えてしまった。
でも結局、先輩達にとってお互いは誰よりも大事に思ってるのは確かだ。それが私が抱いてる恋心のようなものじゃないかもしれないけど、とても強いもの。
それにどうしても勝てる気がしなくて、どうしようもなく悔しかった。
その想いをあろうことか先輩の前で吐き出してしまった。
「うううー……」
結局私はいくら言い訳を重ねても自己嫌悪から逃れる事が出来なかった。
だけど吐き出したおかげで少し得た事がある。
憧れてるからとか、お似合いだからとか言って、自分の気持ちを抑えてたのは本当に正しい事だったのかという疑問と、それならばがんばってもいいんじゃないかという意思。
「よしっ、気合!気合いれろー!」
思い切り立ち上がり気分を入れ替える。
今の状態に満足いかないのなら、自分が動いて何かを変えてみせる。
どう動くなんて予想もつかないけど、今より悪い方向にはいかないはずだから。