第九話:憧れの人
巫山高校第二グラウンド。
綺麗にならされた土の上を何十人もの生徒が走り回っている。
この場所に、この時間に制服で立ち入るとは思ってもいなかった。
手には一枚の紙。
ボールペンで俺の名前が書かれている。
「さて、と。監督はどこかな」
その紙を渡すことがどういう意味を持っているかという事を理解しているのに俺の心はいたって平穏だった。
きっと俺自身もそうしたい、そうしなければならないとずっと思ってたのだろう。
「江藤?」
後ろから声がかかる。
「速水部長……」
振り返った先にはこの部をまとめている部長の姿があった。
「制服ってことは、今日も参加していかないのか。それとも、後輩の指導にでも来てくれたのか?」
思えばこの場所に立ち入るのも大分久しぶりだった。
部活用のグラウンドなので体育の授業では入らないし、テスト期間中やテスト本番中は部活中止だし、テスト終わってからは一度も参加していなかったからだ。
「いえ、これを……出しに来ました」
一枚の白い紙を見せる。
それが何の紙なのかは書いてある内容を見ないでもこの人にはわかったようだ。
「……そうか。監督ならいつもの場所だけど、俺が代わりに出しておくか?」
その申し出に甘えて、俺はその紙を部長に渡す。
本来なら、こんな大事なものは自分で出すべきなのだと思う。
だけどどうしても、監督を目の前にしたら俺はきっと出せないだろう。
あの日、俺に文句なしの合格だと期待に溢れた目を向けてくれたあの監督には。
そしてきっと渡す姿はあの子にも見られてしまう。
監督の事と同じくらいに、俺のそんな姿を見せたくない人だった。
「すいません。よろしくお願いします」
深く頭を下げて礼をする。
申し訳なさで頭が一杯になる。
結局俺はこの人との約束も……。
「江藤。俺は諦めてないからな」
下げていた頭を上げた時には、すでにグラウンドの中央へと歩き始めていて背中しか見えなかったが、その背中が確かに言った。
「お前と同じユニフォームを着てプレイしたい。この学校で果たされるはずだった約束、いつか必ず守ってもらうからな」
そういって歩きを走りに変えて遠ざかっていく。
体が震える。
今すぐこの制服を脱ぎ捨ててグラウンドに溢れる熱い声の中に混じりたい衝動を必死に抑える。
今は、そう今は耐える時なんだ。
いつかまた、戻るために。
そう心に決め、俺は踵を返してグラウンドを後にした。
思ったよりも早く用事が終わったので、陸上部が練習をしている隣の第一グラウンドを覗きに行く。
とはいえ、主に視界に入ってくるのは高跳び、幅跳び等で綾の姿は見えない。
ロードワークか、競技場にでも行ってるのか……。
綾の頑張っている姿を見ると、今みたいな憂鬱な気分を払拭できるから少し見学して行きたかったのだが……。
男として格好悪い事だとは思うけど、俺が頑張れなくなってからその分綾に頑張ってもらう……というよりも身近な人が頑張っている姿を見て自分を落ちつけている。
「いたとしても邪魔になったら悪いし、さっさと戻るか……」
今頃オカルト研の部室で美代さんと会長が待っているだろうし、さっさと靴を履き替えて行くとするか。
校舎よりに第一グラウンドを横切り、下駄箱へと向かう。
まばらだがまだ他の生徒の姿が見える。
そのほとんどが校門へと向かう中、その流れに逆らって校舎の中に入る。
「先輩!」
靴を履きかえ校舎の奥に進もうとした時、女の子の大きな声が反響した。
固有名詞の無い呼びかけだったが、それが自分に向けられているという事を感じ振り返った先には体操着を着た女の子が立っていた。
息切れした肩と一緒に、栗色のセミロングの髪が上下に揺れている。
彼女の大きい瞳が、俺を射抜くように真っ直ぐこちらを見つめていた。
「メグ……、どうした?マネージャーとはいえ部活を抜け出したら駄目だろう」
彼女は初瀬巡、愛称メグ。俺が先ほどまで所属していたサッカー部の一年生マネージャーだ。
元から人懐っこい性格ではあるものの、俺には特別に懐いていてくれていた女の子だ。
まぁ、それはこの高校に入る以前から知り合いだったという事からなのだけれども。
「そんな事はいいんです!それよりも……それよりもっ」
顔を伏せながら一歩一歩近づいてくる。
そして手が届く距離まで歩いてくると俺の制服の裾を強く握る。
「辞めないでください……。行かないでください……」
泣きそうな声で、そう懇願した。
もうメグにも伝わってしまったのか……。
何となくこうなる予感がしていたので、監督に直接渡さず部長に渡してもらうよう頼んだというのに……この分では部長、直接彼女に話したんだろうな。
「メグ……俺がもうサッカーできる体じゃないって知ってるだろ?だというのに、俺がサッカー部にいる必要なんて……ないだろ」
あの日事故に合って何週間も生死の境を彷徨った後、病院内で目覚めた俺を見舞ってくれた人達の中にメグの姿もあった。
姉貴や、家族同然の綾や雄と同じくらいメグは俺の事を心配して、想ってくれた。
そして……誰よりもボールを蹴れなくなった俺を惜しんでくれた。
「でも……でも、でもっ!一年生の指導とか、きっと出来る事は一杯あるはずです!何も……部活自体辞めなくたって……」
精一杯俺が部活に残って欲しいと説得を続けるメグ。
その気持ちは嬉しい。
だけど……。
「自分が蹴れなきゃ、意味がないんだ」
メグが俺の言葉に反応して伏せていた顔を上げる。
その瞳にはうっすらと涙がにじんでいた。
自分でも我がままな言い分だと思う。
「自分の足で走って、自分の足で蹴る。そうじゃないと、俺は嫌なんだ」
自分のしたいサッカーをやりきれたのなら、後から続く者を育てる楽しみなんてのも出てくるんだろうけど、今の俺にはそういうものは無かった。
「それに俺は諦めたわけじゃない。いや……思えば、今まで諦めていたのかもしれない。今にしがみついて、出来もしない事を続けていた」
そのせいで部には迷惑をかけたし、この足だって悪化してしまったかもしれない。
姉貴が頑張ってくれている事だって、知らないわけじゃなかったのに。
「メグ、俺は確かに部を辞めたけど、サッカーを辞めたわけじゃない。高校では無理かもしれないけど、きっと……」
子供の頃から夢に見ていた舞台に立つ事を諦めきれるわけがなかった。
ずっと俺は中途半端に壊れてしまったせいで、諦めきれずに自暴自棄になっていた。
いっそ無くなってしまえばいいと思っていた時もあった。
今思えば何て恥ずかしい自分だったのだろう。
「先輩……。そっか、先輩は先輩でたくさんの事を決めたんですね」
彼女の瞳からにじみ出ていた涙がいつのまにか無くなっている。
そしてその涙の存在を消すかのような笑顔で彼女は言った。
「私、先輩の事が好きです」
唐突に、そして真っ直ぐで純粋な告白。
彼女の笑顔に朱が混じっていく。
「メグ……」
急すぎて驚くと共に周りに人がいないかを確認してしまう。
馬鹿か俺は。
そんな事をするより先にする事が、何か言う事があるだろうが。
「先輩を追いかけてこの学校入って、腑抜けた先輩を見た時は正直がっかりしました。でもやっぱり、先輩は先輩です」
言葉が出せない俺をたたみ込むように言葉を重ねていく。
そこには今まで感じた事がない種類の暖かい想いがあった。
「私、サッカー部のマネージャーなんかより、先輩の……先輩だけのマネージャーになりたいです」
ちょっと、くさいかな……と、頬をかきながら下を向いてしまう。
俺は俺で、彼女とは逆に恥ずかしさで上を向いてしまう。
何か言わなければ、こんなに真っ直ぐ想いを告げてくれている彼女に何か言わねばと思っても言葉が出てこない。
「でも、無理ですよね。私なんか」
言葉が見つからないまま、再び彼女が言葉を重ねていく。
しかし、重ねる場所は先ほどとは違っていた。
「先輩、モテますもんね。今日転校してきた人もすっごい綺麗な人だったし、あの……先輩と同居してるって」
「いや……美代さんは従兄妹で同居というより下宿みたいな感じで……」
そして俺は、白々しい嘘を重ねていく。
「それにツキちゃんだって……」
「いや、会長は違う」
これだけはきっぱり言えた。
会長とそういう付き合いになるとは到底思えない。
会長自身もそう思っているはずだ。
「今の言い方、ツキちゃんが聞いたらきっと怒りますよ?」
笑顔に少し儚さが混じる。
「それに私、綾先輩には絶対勝てる気がしませんから」
そしてやはり、最後には綾の名前があがった。
あれだけ一緒にいれば勘違いされるのも無理は無いのだけれど、綾とは決してそういう関係じゃない。
恋人とか、そんなのよりもっと大切な……家族みたいなものだ。
「格好いいですよね、綾先輩。背も高くて、明るくて、陸上部のエースだし、家事だってこなせる。私の理想そのものです」
頭は悪いけどな、と茶化す気にはなれなかった。
確かに俺だって、すごい女だと思う。
だからこそ、綾には綾にふさわしい人がいるだろう。
「だから……格好いい先輩二人は、とてもお似合いだと思います。私がなりたいのもきっと二人のマネージャーなんだと思います」
メグは俺なんかを綾にふさわしいなんて言ってくれる。
自分の気持ちを押さえつけてまで。
俺は、そんな彼女に何を言うべきなのだろうか。
「ごめんなさい。変な話してしまって。私、そろそろ部活に戻りますね。先輩、また!」
結局俺は何も言えないまま、走り去って行くメグを無言で見送ってしまう。
暫く彼女が走り去って行った方向を見ながらぼんやりと考えていた。
思えば、これが初めてだった。
自分でいうのもなんだけども、地元では結構有名人だったのでそれなりにモテていたといえばモテていた。
だけどそれはあくまで有名であったからであって、現にサッカーができなくなって以来はさっぱりだ。
でもメグは違う。
こんなになってしまった俺でも想っていてくれていた。
そしてそれを俺に真っ直ぐ伝えてくれた。
悪い気はしない、するはずがない。
それだけに俺は彼女に何て言っていいかわからなかった。
部を辞めてしまったので、きっと彼女と会う回数は減ってしまうだろう。
でも次ゆっくりと話す機会があったら、何を言うべきか考えておく必要があるだろう。
そうやって俺はとりあえずの結論を出し、待たしているオカルト研会員の元へ向かうため校舎の中へ向かう。
───その瞬間、メグとは違う走り去る影が見えた、気がした。
「で、何やってるんだよ二人とも」
校舎へと入ってから一分程度でオカルト研部室へと到着し、部室のドアを開けた瞬間広がったのは机に並べられた沢山の本とその中の一つを手に持ってまじまじと見ている美代さんとぶら下がり健康機で遊んでいる会長だった。
「あ、おかえりなさい。悟さん」
「サ、トー……くん。お、かえり」
会長は何やら苦しそうだ。
苦しいのならその手を離せばいいのに。
ぶら下がり健康機なんて先週までなかったはずなのに一体どこから持って来たんだろうか。
「サ、サトーくん……」
全身を震わせながら会長が俺の事を呼ぶ。
何か話したい事があるなら手を離せばいいのに。
「お、降ろして」
「…………」
あー、つまり会長は掴まるだけ掴まって手を離すのが怖くなっちゃったのか。
まったく……妙な所で世話を焼かせる会長だこと。
とにかく会長を優しく抱き抱えてそっと地面に降ろしてあげる。
「ありがとう、サトーくん……。陵先生がいらないからって置いてったんだけど、使えないね。槻実じゃ誰かに手伝ってもらわないと掴めないし離せないよ」
掴むことも無理なのか。
相変わらず可愛らしい会長だ。
「それで、美代さんは何を読んでるんだってそれは!?」
美代さんが持つ本の表紙には『悪魔召喚・入門編』と書かれている。
いつぞや俺も会長に薦められた本だが、まさか美代さんにも薦めるとは。
「読んでるというよりも、見てるだけですけど……。私、まだ漢字があまり読めなくて……」
それでいいのか会長。
「いいのいいの!この分野は結構気合と根性でなんとかなるんだから!」
オカルトは体育会系な分野だったのか……。
「ま、今日はサトーくんも帰って来たし、お開きかな。新しい生活にドキドキワクワクしてるサトーくんには悪いけど、今日は槻実、ちょっと予定があるの」
ワクワクというよりハラハラしているわけですけどね。
とにかく、する事が無いのなら今日の所は帰るとしますか。
「あ、美代さん、その本持って帰ってもいいよ!暇があったら実践すると尚ヨシ!」
「はいっ。出来る限り頑張ります!」
頑張らなくてよろしい。
きっとそのせいで俺に被害が及ぶだろうから。
まったく……これから今までに増して騒がしくなりそうだ。