梔子~くちなし~
私の想い、朽ちる事無く、彼方を想う。
梔子~くちなし~
狂ったように命を燃やす蝉の声。
ぬるい風が陽炎を揺らし、軒下に下げた風鈴を鳴らす。
その音色を畳の上で聞きながら、茹だる様な暑さに溜息をつく。
焼き殺すように降り注ぐ太陽光で十二分に熱を蓄えた縁側の向こう、陽炎揺らめく庭の脇、白く輝
く無数の花。咽る様な甘い匂いを漂わせ、可憐に佇む、白い花。
畳の上で横になりながら、俺は庭を見詰める。ぬるい風を量産する扇風機、肌に吸い付く畳、揺
れる電球の着消紐。
午後二時、最大まで上がった気温に茹だりながら居間でぬるい風を受ける。吸い付く畳を剥がし
ながら体を起こす。汗のかいたグラスを手にし、ぬるい麦茶を投げやりに流し込んだ。水が滲みて
色濃くなった畳の上にグラスを置き、もう一度横になる。太陽光を吸収しながら反射する緑、ゆらめ
きを立ち上らせる土、家の周りを回り続ける大きな蜻蛉、盛大に合唱する蝉達。
ふと、甘い匂いが鼻腔を擽る。
視線を白い花に移すと、そこには一人の女性が佇んでいた。
艶のある長い黒髪に鮮やかな着物、特徴的なのは唇の右斜め下にある小さな黒子。柔らかな表
情で白い花を見つめる女性はこちらに気づくと優しく微笑み、その場から立ち去った。眠気で遠ざか
る意識の中でその人物に対する情報を探すが、見つかることなく、意識は眠りの闇に溶けていっ
た。
一陣、ぬるい風が吹いた。
杉の木々を揺らし、笹の葉を歌わせるぬるい風は、梔子の甘い匂いを絡めながら、眼下の村に
降りていく。
風に乱された髪をかき上げ、小さくため息をつく。
眼下の村の小さな木造駅、そこに群がる人の群れ。手に持つ物は輝く日輪を写した小さな旗。旗
を振りかざしながら歓喜の声を上げる人々。
何がそんなに嬉しいのだろう?
御国の為と銃を持たせ、御国の為と戦地に送り、御国の為と人殺しを進め、御国の為に喜んで死
ねという群衆。
何故そんな事が平気でできる?
喜ぶ群集を見下ろしながら薄い唇を噛む。
「また此処にいるのか」
不意に声をかけられ、振り返る。そこにいたのは、兵隊服を着た見知った男、幼馴染、徹馬(とお
ま)さん。
「行かなくていいのか? 親父さん探していたぞ」
その言葉を聞き、眉を顰める。
「そうですか」
探していた……か。あの人が探しているのは私じゃない。坂本家の長女だ。公共の祝い場に家族
全員がいなければ体裁が悪い。だから私を探している、それだけだ。
「行かないのか?」
「……貴方こそ……行かなくて、いいんですか?」
私が突き放すようにそう言うと少し間が空く。そして徹馬さんは普通に答えた。
「俺は、行くよ……御国の為に」
「……そうですか」
「身寄りも力も無い俺が御国の為にできる唯一のことだからな」
そう言って徹馬さんは微笑んだ。
戦場に行くのに。
死ぬかもしれないのに。
「じゃぁ、行くよ。行く前に君に会えてよかった。これで、しつこく君を思い出せる」
そういって徹馬さんは踵を返す。
「あっ……」
一瞬、呼び止めようと手が出たが、私の中の何かが、それを制する。
遠ざかっていく徹馬さんの後姿。
決意で大きく見える徹馬さん。私は徹馬さんを呼び止めて何が言いたかったんだろう? 言葉無く
伸ばした手を、私は複雑な思いで下ろした。
この時呼止めなかった事を、私は一生後悔するだろう。
息を切らせて、砂利道を駆ける。
踏む砂利の痛み、きれる息を吐き出す喉の痛み、そんなものなどお構いなしに私は駆ける。転が
るように駆けて行き着く先は半分朽ちた一軒家。そこの引き戸を開け、目の前に広がった景色に私
の表情は凍りついた。
暗い居間、その奥にある粗末な木台、その上で眠る、遺骨。
言葉無く、遺骨に近づく。遺骨を運んできた兵隊らしき男が涙ながらに事の顛末を言っているが何
を言っているのか理解できなかった。私は崩れ落ちるように座ると遺骨を抱きしめ、人目を憚らず
に号泣した。
何故あの時呼び止めなかったのだろう、何故あの時行かないでと言えなかったのだろう、何故あ
の時いっしょに村を出ようと言えなかったのだろう。
唯後悔だけが頭の中を駆け巡って、涙が出た。
私は何も言えなかった。
何一つ伝えられなかった。
想いはあったのに、気づかないフリをしていた。
気づいてはいけないと思っていた。
身分の違いを気にしていた。
一番家に縛られていたのは……私だ。
私は遺骨を持って、家に帰った。
後悔しかなくても、悲しみしかなくても。
一緒にいられれば……。
一陣、ぬるい風が吹いた。
杉の木々を揺らし、笹の葉を歌わせるぬるい風は、梔子の甘い匂いを絡めながら、眼下の荒地
に降りていく。
遺骨を抱きしめ、眼下の荒地を見下ろす。
何も無い。
でも、貴方がいる。
梔子の甘い匂いが私の世界を満たす。
「ん……」
甘い匂いで意識が覚醒する。
けたたましく鳴く蜩の群れ。夕暮れが山々を燃やし、蛙たちも合唱を始める。頬に張り付いた畳を
剥がし、俺は体を起こす。気だるく、節々が痛む身体をほぐすように背筋を伸ばす。所々間接が鳴
り、少しは楽になった気がする。
何か、夢を見ていたような気がする。
ぼーっとする頭で考えるが、何も思い出せない。変な違和感を覚えながら俺は置いてあるグラス
に目を向ける。すっかり汗の乾いたグラス。その中に活けられた一本の白い花。八重花弁の白い
花は、甘い匂いを放ちながらひっそりとグラスの中で微笑んでいる。頭の隅で強烈に残っている白
い花と甘い匂いの記憶。何処でこんなに強烈に覚えたんだろう?はっきりしない感覚に苛立ちを覚
えながらも、俺はその白い花に見惚れていた。
翌日、俺は散歩がてらに見晴らしの丘に向かう。村全体を見下ろせる丘。特に用事も無いのに、
俺の脚は無意識のうちにそこに向かっていた。道を上へと上り、途中にある寺の石階段を上る、そ
こから林に入り、道なき道をひたすら上へ。その先に開ける空間、そこが見晴らしの丘。杉林と笹林
に挟まれた何も無い丘。そこの隅で、八重の白い花がひっそりと微笑んでいる。デジャヴにも似た
感覚が頭を過ぎる。ひっそりと佇む白い花に近づき、村を見下ろす。昔見た風景と変わらぬ風景。
でも、何か引っかかる。そんな気持ちを心に止めながら俺は白い花を見詰めた。八重花弁の白い
花、独特の甘い匂いが鼻腔をくすぐり、咽る。
「あ……」
不意に、後ろから声が聞こえ、俺は振り向いた。そこには、一人の女性が仏花を持ち、佇んでい
る。艶のある長い黒髪に白いワンピース、特徴的なのは唇の右斜め下にある小さな黒子。
「えっと……貴方も御参りですか?」
「えっ? 」
突然の質問に俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。そんな声を聞いて聞かずか、女性はゆっくりと
白い花の下まで歩み来る。そして、白い花の下で屈み、雑草を掻き分ける。伸びきった雑草の中か
ら現れた小さな岩。微かに文字の彫られた跡のあるその岩は白い花に寄り添うようにひっそりと眠
っている。擦れた文字、徹馬とセツ。女性は仏花を朽ちた竹筒に活けると手を合わせ、目を閉じる。
暫くし、女性は目を開けるとゆっくりと立ち上がり俺を見る。俺も、女性を見詰めるように自然と視線
が向いていた。
『あの……』
同時に同じ言葉を口にし、俺と女性の声が重なる。そんな偶然に焦り、俺は言葉を続けた。
『あ、お先にどうぞ……』
その言葉も重なり、気まずい雰囲気が場に流れた。何となく気まずい、けど、聞かなきゃ。心に引
っかかっていること、知りたいこと。意を決し口を開く。それと同時に女性も口を開いた。
『どこかでお会いしませんでしたか? 』
ぬるい風が甘い匂いを運ぶ。
梔子の花言葉……とてもうれしい・幸福者・私はあまりにも幸せです・喜びを運ぶ・清潔・清浄・夢
中・優雅。
生まれ変わってもまた会おう。
思い出のここで、また会おう。