第70話 運命の日
そして、この日を迎えた。
解職請求を決める学生投票が行われる日だ。
投票会場に指定された学園の講堂は、不快なほど暑い空気に包まれていた。
開け放たれた扉から差し込む強い日差しが、今日の暑さが尋常ではないことを伝えてくる。そんな日差しから日陰に逃げるように、全ての学生たちが床に腰を下ろしている。
将典は脇の下を汗が伝うのを感じながら、その目は演壇に立つ真一郎の後姿を捉えていた。
万雷の拍手に迎えられた彼が手振りで鷹揚に静まるように促す。堂々とした立ち居振る舞いは、新入生総代として学生たちの前に立った時と同じように、強さと頼りがい、そして傲岸さを、将典に感じさせた。
そして、静寂に包まれた空間を真一郎の力強い言葉が裂いた。
「今回、澤渡会長の無法な支配を打破するため、私は、武樋貴郎とともに、学友会会長職の解職請求を行った」
講堂の軒先に吊るされている風鈴が音を立てたが、どこか場違いな感じを抱かせた。
当初、演壇には解職請求を行った貴郎が立つはずであった。けれど、前日に真一郎が立つと通告された。
これが彼らにとって、予定通りなのか、そうでないのか、は、将典には分からなかった。
冨迫伯爵からは、話したことを将家当主に報告し、了承を得たと連絡があった。真一郎まで伝えられたか、までは分からない。
――若君らしい。
とは思った。
演壇に立つ前、目が合った時、真一郎の目は、絶対に勝つ、と言わんばかりに力がみなぎっていた。
『結局は君が勝てばいいんだよ』
冨迫伯爵の別れ際の言葉だ。
解職請求の結果を決める学生投票で将典が多くの支持を集めれば、伯爵と交わした約束は白紙になる。将典は面目を保てる。
問題はどの程度の支持を将典が真一郎と比較して集められるか、だ。僅差であれば、真一郎の面目は傷つくものの、「学園に通う子供のいさかい」の範囲内。
大差となると、報復だ。「子供のいさかい」とは、将家の大人たちは決して見ないだろう。
「学友会会長就任の経緯は不透明であり、予算配分案は不平等であった。学生同士の争いにも無秩序に介入し、不公正な裁定を下した」
真一郎の力強い言葉は講堂全体に響く。さらに、彼の言葉が切れるたびに、真一郎を賛美する声も上がった。声を上げる者たちは、貴郎を始めとする真一郎の取り巻きではなかった。貴郎の金を真っ先に受け取ったと聞いている学生たちだ。彼らは、以前から「貴族と名族は平民より優れている」と当然のように口にしていた。
「澤渡は国の藩屏の一人でありながら、不正義な行いを続けている」
『一応、伝えておくけど。君が負けても、皇国大学に入学できるように裏から手を回すことができ……。うん。やっぱり、聞かなかったことにして』
真一郎の演説を聞きながら、将典は冨迫伯爵の言葉を再び思い出す。この時の自分は顔に笑みを浮かべるのを抑えられなかったことも。
「この解職は正義の遂行である。賢く分別ある学生諸君には、公正で平等な未来の新しい秩序のため、正しい選択を行うことを期待する」
真一郎の演説が終わった。講堂が万雷の拍手で満ちる。熱心に拍手しているのは貴郎たちだが、先の学生たちは立ち上がり、貴郎たちを上回るほど力強く手を打ち鳴らしていた。
同時に、白けた空気も漂っていた。とりわけ、真一郎が「正義」を口にした時は講堂の空気がひんやりと冷えたように、将典は感じた。
と、一馬の声が拍手で満ちていた空間を切り裂いた。
「一部の学生が、金銭と引き換えにあなたへの支持を求めています。この行為についてのあなたの見解を聞かせてください」
立ち上がった一馬に、真一郎が目を向けた。その横顔に一瞬だけ苛立たしげな様子が現れるのを、将典は見た。
「正義を遂行するための規則に則った行為だと認識している」
真一郎が力強く言い切ると、再び、講堂は彼を賛美する声で満たされた。一馬をヤジる言葉も混じる。同時に、白けた空気がより濃くなるのも、将典は感じた。
演説会で司会を務める教員の静粛を求める声が響く。
真一郎が演壇から降りたものの、将典とは目が合わない。顔から感情も読み取れない。
――喧嘩を買うようなことはされなかったか。
将典が知るこれまでの真一郎なら、一馬の言葉を受けて、感情に任せた傲慢な反応か攻撃的な態度をいくらかでも示しただろう。
演説も、新入生総代として語った時と同じ傲慢さは感じられたものの、その時と同じように真一郎が将家の人間であるから無条件に従うようには求めていなかった。「貴族」と「平民」の言葉も使っていなかった。自分の正義を押し付けるのではなく、万人に通じる正義を受け入れるよう求めている、と感じた。
こんなことを考えながら、将典は演壇に立った。
「引っ込め!」「暴君はくたばれ!」「田舎者!」「人でなし!」「冷血漢!」
ヤジという名の罵声が飛んでくる。司会者の静粛を求める声が重なるが、一向に収まらない。
ヤジを飛ばしてくるのは、平民より優れていると主張する学生たちだ。意外にも、貴郎を始めとする真一郎の取り巻き達は彼らに向けて苦々しい顔をしていた。それでも、ふと、将典は、
――どうしてここまで悪し様に罵られなければならないのだろう。
と考えてしまった。
――ここまで罵られても、自分は良き貴族にならなければならないのだろうか。
とも考えてしまう。亡き母の声が聞こえた気がしたが、何を言っているのか、分からなかった。
その時、一馬と目が合った。力強く頷くのが見えた。
将典は口角がクッとかすかに上がるのを感じた。
そのまま、ヤジを飛ばす学生たち一人ずつと目を合わせていく。責めるつもりはなかった。けれど、目が合った学生は一人また一人と気圧されたように口を閉ざし、床に座り込んでいった。
ついに、講堂はしわぶきひとつ響かない静寂に包まれた。
――さて、演説をどうするか。
真一郎の演説の時に漂った白けた空気に乗じれば、真一郎を徹底的に追い詰めることはそんなに難しくない、と将典は判断する。
と、学生たちから少し離れた講堂の一角に、真宙の姿を見つけた。
『ご武運をお祈りしております』
講堂に入る前に彼からかけられた言葉が蘇る。
真宙の近くに利奈子と行子がいることにも気づいた。久しぶりに目にした利奈子の姿に喜びを、彼女の声が聞こえない距離の遠さに寂しさを感じてしまう。
けれど、そんな感情を心の奥底に優しく沈ませると、腹に力を込めた。
「まずは学生諸君に謝罪を行いたい。私の至らなさゆえに混乱を引き起こした。深くお詫びする」
そう言うと、将典は深々と頭を下げた。講堂がかすかなざわめきに包まれた。
そして、下げた頭を戻し始めるのと同時に、真一郎を徹底的に追い詰める案を捨てることにした。成功した時の代償が大きすぎるからだ。将家からの報復が怖い。
『もしかして、若君が大差で負けても文句を言うな、ということかい?』
冨迫伯爵が醸し出した厳しい空気を思い出す。
利奈子や真宙たちを傷つかせ、失いたくなかった。なにより、それで得られるのが将典の面目では、
――そんなちっぽけなモノのために賭けるものではない。
――……ならば、負けるか。
そうすれば冨迫伯爵と結んだ約定通りになる。将典は自由を得る。けれど、
――一馬たちを裏切ることになるな。
軍に入って、民のために魔獣を倒しても、文句は言われない。大学で学びたければ、皇国大学の代わりに外国の大学に行けばいい。幼い頃の夢だった貿易商人になることもできる。
大人たちは文句は言わない。言わせない……。
一馬の横には、碧井光星たち3人の姿もあった。一馬と初めて会った時に、彼をいじめていた3人だ。講堂に入る前に一馬から引き合わされた。光星たち3人は一馬が解職請求の反対運動を始めたら真っ先に加わった。爵位持ちの家の出である彼らのおかげで、運動を身分を問わずに広げることが出来た。そのように、一馬から教えられた。
――残るは一本のかすかな隘路だな。
そこを目指してどのように学生たちに語りかけるか、と考えた時、将典はひとつの事実に思い当たった。
学園の学生たちのために、なにひとつ尽くしていないことを。
思わず、眉間にしわが寄ってしまう。
倶楽部の予算案は恒例の出来事でしかない。困りごとを抱えた学生が学友会室を訪ねてきた時もあったが、将典が学友会室の外へ積極的に出たことは無かった。美海が会長を務めていた在学中には、彼女は折に触れては外に出て、学年も性別も生まれも問わずに学生たちの話に耳を傾けていた。不満があれば、解消できるように動いた。不正があれば、正すために動いた。そうしたことを将典はしていなかった。美海と真一郎の面目を潰さないよう、目立たず地味に、を心掛けていた。
もしかすると、将典の顔を見たことも声を聞いたこともない学生がいるかもしれない。このことに思い至ると、将典は語る言葉を見失ってしまった。
けれど、語らなければならない。
顔を戻し終えた将典の身体には、学生たちの視線が突き刺さってくる。
「私が語ることは多くない」
言葉を失ってしまった将典だが、その口は勝手に動き始めた。
チリンと風鈴が音を立てたのが聞こえた。
「投票をどうするか、すでに決めている者もいるだろうが、まだ決めていない者もいるだろう。もしかすると、決めたくないと思っている者もいるかもしれない。ただ、自分の選択の結果がどのような影響を及ぼすか、は誰もが考えたであろう」
こぼれおちた声は響かない。辛うじて、学生たちの耳に届く程度だ。
「栄光に続く道につながっているかもしれない。あるいは、破滅へ至る道かもしれない。不安はあるだろう。だが、歩み進む道は選ばなければならない。誰かに委ねるものではなく、誰かから与えられるものでもない。ましてや押し付けられるものではない。自らが選びつかみ取るものだ」
なんて力の欠けた声だ、と自嘲したくなった。
「ゆえに、諸君らは誰にも縛られることなく己の判断で、投票の選択をしてほしい」
目は利奈子の姿を捉えた。情けないと顔を歪めているだろうか、と思ったが、違った。彼女の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
腹に落ちるものを将典は感じた。これが己がするべきことだ、と。最初で最後になるかもしれないが、学友会会長として学生たちに向けて、今、行うべきことだ、と。
勝手に動いていた口が止まった。それでも、次に紡ぐ言葉は何か、分かっていた。惜しむらくは、今少し、言葉を選りすぐりたかった。
「賛成票を投ずるのも反対票を投ずるのも自由だ。ただし、そこに己の未来がかかっていること、選択の責任は自分自身にかかっていることは肝に銘じてくれ」
――ああ。なんて、無様な演説だ。




