第17話 始まりの鐘が鳴らされる
ちら、ちら、と小雪が時折、空から舞い降りてくる。
空は、今にも本格的に雪が降りだしそうな、重く垂れこめた曇天。
そんな曇天の下、将典は、たった一人、宏徳寺の山門をくぐる。黒の帽子をかぶり、右手には祖父譲りのステッキを持ち、黒の外套を身にまとって。
強い北風が吹いた。冷たい空気を遮るように、将典は外套の襟を立ててやり過ごすが、それでも隙間から入り込んできた風に身をすくめてしまう。
と、ステッキに刻まれた澤渡家の家紋が目に飛び込んできた。
――ご先祖様も魔獣との戦いに赴く時、今の私と似たような気持ちだったのだろうか。
右手でギュッとステッキを握りしめる。
――そう。これは下条との戦だ。
――澤渡の家を守るため、私に関わる全ての人を守るため、私が見出した天命を守るための戦だ。
そう考えなければ、足が前に出なくなりそうだった。
その時、小さな男の子が横を駆け抜けていった。かと思えば、男の子は少し先で立ち止まり、後ろを振り返って、
「おっとう、おっかあ、早く早く!」
叫べば、
「元気だなあ」
「急ぐと危ないよ」
後ろから仲の良さそうな両親の声が将典の耳に入ってくる。
少し上を見上げれば、宏徳寺の本堂が目に飛び込んできた。暗い曇天の下でも、重厚感ある瓦屋根と太い柱が威容を誇示している。
足が、船の錨に絡みつかれたかのように重くなる。
あの本堂が糾問会の会場。
立ち止まった将典の横を一組の男女が抜き去っていくと、先にいた男の子を間に挟んで手を繋いだ。楽しそうな笑い声が耳に入ってくる。
本堂の前の開かれた空間には多くの人々が集まっていた。彼らは「糾問会」という催事で「没落貴族」を晒す場に集まった民だ。あの親子連れもその人々の集まりに入っていった。
カチリ
頭の中で歯車がかみ合った音が立つと、1つの情報が浮かびあがってくる。
本堂の前の空間で繰り広げられる「パルヴニール」の主人公と下条の雌雄を決する戦いだ。
月明かりの下、互いに剣術と気術を駆使して命を懸けて争う。
――なぜ、そんな戦いが出来る?
将典は眉をしかめる。本来、武士が扱う剣術と気術は魔獣に対して使うもの。決して、人に向けて使うものではなかった。応用として、犯罪者を取り押さえる捕縛術も将典は過去に一通り習っていたものの、その目的は相手の無力化。「愚者」の命を奪った時はそれこそ例外だった。
――私が時代遅れなのか。
――違う。武士の末裔として私の考えは間違っていない。
――彼らが武士ではないのだ。
ステッキを持つ右手を強く握りしめる。
――もっとも、私は没落の瀬戸際に立たされているがな。
下を向いて、自嘲する笑みを顔に浮かべてしまう。
その時、ふと、鼻を甘い香りがくすぐって、
「さあさあさあ。こいつは新しいスイーツ! 『ドーナツ』って言うんだ。宏徳寺さんへの寄進として、今、タダで配っている。さあ、持ってけ、持っていけ!」
威勢の良い掛け声が耳に飛び込んできた。
顔を上げ、声がした方向に目をやると、そこには普段の洋装姿ではなく、市井の人の格好をした真宙が屋台の前に立ち、呼び込みの声を張り上げていた。その横には同じ格好をした康嗣と咲哉が人々にドーナツを配っている。
「おっとう、おっかあ。これ、とってもおいひい!」
「お! ほんとだ。うめぇな、これ」
「あら! ほんと」
聞こえてくる美味しさを喜ぶ声が、ホットケーキを食べる富士子の笑顔と蒸しパンを食べて顔をほころばせる了成の姿と重なる。握り締めていたステッキから力が抜ける。
ドーナツは了成の助言だ。砂糖をたっぷり使っていて甘く、揚げ油の香ばしさとサクッとした食感がたまらない。
将典の口の中に試食の時に食べた味の記憶がよみがえってきて、思わず生唾を飲み込んでしまう。
――私は一人ではない。
足に絡みついていた錨が外れ、力強さが戻る。
――この場に集まっている人々も守るべき民だ。
――己の目と耳で真実を見極めようとしている賢い民だ。
――彼らに、下条の偽りと誤りを示さなければならない。
――その結果、彼らが本当の真実を見極めてくれればいい。
前へ一歩踏み出す。ドーナツを食べるために、ふらふらと屋台の方へ引き寄せられそうになるのを必死に抑えながら。
将典の糾問会への召喚が公になった後の新聞には、
「第二の公森」「貴族の恥さらし」「民の生き血をすする吸血鬼のごとし」「皇国に仇なす売国奴」
などと散々書きたてられた。詳しい中身には触れないか、支離滅裂な出鱈目ばかり。
それでも、屋敷の塀越しに石や汚物が投げ込まれたり、塀には「非国民」「クズ」「無能」などと落書きもされた。
放火がされなかっただけマシだった。
召喚直前に出した手紙に対して、予想していた仲介に乗り出してくる返事はなかった。手をあげたら、絶賛大炎上中の澤渡家からもらい火してしまうからだ。
将典の父の醜聞に続いて何をしているのか、とある親族が叱りつける返事を送ってきた程度。
婚約者の家から事情を問い合わせる手紙が届いたが、これは婚約を破棄する前段階。
結局、関係者と勘繰られて、もらい火するのを恐れて、直接屋敷に乗り込んでくる者はもちろん、手紙の返事すらろくに来なかった。
将典は、使用人たちを召喚状が届いたその日のうちに全員集め、康嗣とともに状況を説明した。
「このような状況に陥ったことを深く詫びる」
そう言って、使用人たちに頭を下げた後、
「残念ながら、今後どのような状況になるか予測がつかない。より危険な事態に陥ることも否定できない。警察、消防、行政にも頼れないことも予想される。それを踏まえて、危険を避けるために、諸君らには退職を勧める。退職する場合、次の職場に出す慣例の紹介状はもちろん書くが、残念ながら効果は低いだろう。そのため、一緒に慰労金を渡す。生活の足しにしてほしい」
「紹介状」は前雇用主が使用人の働きぶりを評価するもの。これによって、使用人の新しい職場での雇用条件が決まる。当然、評価にも左右されるが、前雇用主の信用でも左右される。公森家断絶後、公森家の使用人たちが新しい職場を見つけられず路頭に迷ったことが、最近の知られている例だ。
「どうしてこんなことになったのですか?」
将典の言葉の後、一歩前に進み出て口を開いたのは咲哉だった。
「ひとえに私の力が至らなかったせいだ」
「違う! 将典様は決して悪くない。悪いのは全て、下条玄悔だ。みんな、違うか?」
さらに続いた言葉に、将典は目頭に熱いものを感じた。
「私は辞めません! 最後まで将典様に従います!」
これによって、澤渡家の江都屋敷で働く使用人たちの流れが定まった。
ただ、糾問会が始まるまで、将典にとって腹立たしいことが起きた。それは、出勤途中だった若い女性使用人が暴漢に襲われかけたこと。幸い、警戒にあたっていた真宙と咲哉が間に入って、事なきを得た。
この一件を受けて、自宅から屋敷に通う使用人は出勤を控えるように指示を出した。すると、使用人たちはこの指示に半分だけ従った。屋敷に泊まり込んだのだ。
「問題がありますか?」
使用人の行動に疑問を漏らした将典に真宙は真顔で返してきた。さらに、続けて、
「これはある意味、籠城戦です。私たち、全員、一致団結して事に当たります!」
結局、糾問会の召喚状が出されてから屋敷を去る使用人は、一人もいなかった。
屋敷に出入りする商人たちも取引を控えることなく通常通り。
――なぜだ?
――澤渡家に仕える使用人としての誇りか? 母上への恩義か?
将典は不思議に思った。
召喚状が出てすぐの頃は、張りつめた日々を過ごすことを覚悟していた。
けれど、屋敷の塀の外の空気はささくれ立っているのに、中の空気は通常通り。
結局、疑問への明確な答えは最後まで出なかった。ただ、肩に重みを感じた。
屋敷の外とのつながりが絶たれなかったため、滄州から一通の手紙が届いた。
『滄州の民からは憤りの声が上がっている』
『たとえどんな状況になろうとも、将典殿とともにある』
叔父からの手紙にあった一節を思い出し、将典の心が温かくなる。
だが、手紙の端々から叔父の苦境がうかがえた。叔父は皇国最大の商会主として内外に多くの敵を抱えている。だからこそ、その足を引っ張り、足元をすくおうとする者たちへの対処に追われていた。
――その中でも、私が叔父の足を最も強く引っ張る人間だ。
本当なら、お守り代わりに手紙を懐に忍ばせたかったが、最悪の事態を想定して屋敷に置いてきた。
――もしも、私が糾問会で有罪にされたら、叔父上には澤渡家を守るために動いてもらわなければならない。
屋敷を出るにあたり、書斎の仕事机の上には最悪の事態を想定した指示書を置いてきた。
トカゲの尻尾のように躊躇なく自分を切り捨てるように、と記してある。
――そうなったときは「パルヴニール」と同じ末路だな。
――江都の路地裏で野垂れ死ぬ、だったか。
本堂の入口にたどり着いた。
――もっとも、何も足掻かず、下条に敗れるつもりはない。
――最後まで足掻いてみせる。
入口脇に立っていた役僧に名前を名乗る。役僧とは寺の事務作業を担う僧侶のこと。江都最大の宏徳寺の本院だけで100人近い僧侶がいる。祥雲院をはじめとする多数ある子院も含めればさらに多くなる。
そのため、将典もこの役僧の顔は知っていても名前は知らない。
彼へ言葉をかける前につばを飲み込んだが、血の味がした。
もう後戻りはできない。
「澤渡将典だ。糾問会からの召喚に従い、参上した」
役僧の顔に驚きが浮かんだ。
将典の声が聞こえた入口近くの人々の顔にも、驚きが浮かぶ。
貴族が、馬車も使わず、馬にも乗らず、従者の1人も率いず、1人で歩いてきたことにだ。
けれど、役僧はすぐに無表情になると、合掌して、
「お待ちしておりました」
一礼した。その目に未来の没落貴族への嘲笑が浮かぶのが、将典は見てとれた。
「どうぞ、中へお入りください」
役僧の招きに応じて、本堂の中へ踏み入る。
将典の眉間に深いしわが刻まれる。嫌悪感を生む香の香りがしたから。
堂内は薄暗い。中央の香炉から立ち上る煙で霞がかっている。
――角井和尚の読み通りか。
香を使って、下条が堂内の人々を洗脳し、支配下に置こうとするのは想定しており、阻止する策も講じている。
残りは、下条の本性を皆が見ている前で暴く。
――……できるか、私に?
――相手は高僧であり、百戦錬磨の糾問官だぞ。
本堂内陣に安置されている本尊の顔が、将典の立ち位置からだと、ちょうど外陣とを隔てる欄間によって上半分が隠されていて、口元しか見えない。その唇が、将典にはまるで自分を嘲笑っているように見えた。
唇を噛みしめる。
――慄くな!
――私は澤渡家18代目当主。
――良き貴族として、私に関わる全ての人を守るために、前を見ろ!
役僧が声を張り上げ、堂内の人々に将典の到着を告げた。
「澤渡将典様、ご入来でございます」
将典に人々の興味好奇の視線が集まるが、将典は気に留めず、堂内の様子を観察する。目立たないようにいる了成の姿を隅で見つけた。
他に気付いたことが2つ。1つは糾問会の準備を進めるために働く役僧たちを2種類に分けられることを。片方は宏徳寺で働いている役僧たち。もう片方は、
――見覚えがない。旧都の教義院から来た者たちか。
と予測を立てる。
気づいたことのもう1つは、堂内の人々の中に私服警官が混ざっていること。その立ち居ぶるまいから、他と容易に見分けることが出来た。
――下条の糾弾の内容次第では、そのまま私を警察署に連れていくつもりか。
だから、叔父からの手紙を屋敷に置いてきた。連行された時に、手紙を悪用されないように。
一際多くの僧侶たちが集まっている方向へ視線を向けた。糾問会で裁判官役を務める僧侶たちだ。当然、そこには下条もいる。
彼らがいる辺りだけ照明で照らされ、
――仮初の神々しさを与えているようだな。
皮肉るように将典の口角が少し吊り上がる。
下条と目が合った。「愚者」と出会った時に見た悪意で満ちた顔ではなく、僧侶らしい柔和で落ち着いた表情をしている。
逆に、下条の背後に控えている十河は嗜虐的で、すでに勝ち誇った顔になっていた。
――僧侶がする顔ではない。
他の僧侶の様子も確認する。目に入る者は皆、豪奢な刺繡が施された袈裟を身にまとい、宝石がはめられた指輪で指を彩っている。ただ一人、指輪をはめていない僧侶に将典は目を留めた。
――彼が古閑妙隠大僧正。了成が旧都にある古刹から呼んだ高僧。
妙隠も下条と同じく老成して落ち着いた顔をしながら、将典を見つめてきていた。
――さて、鬼が出るか、蛇が出るか。
将典は歩みを進め、下条たちの前まで来ると、腰を下ろした。
ゴーン
本堂の外にある鐘楼で時を告げる鐘が鳴らされた。
同時に、これが糾問会の始まりの合図。
本堂の中にいる人々も三々五々その場に腰を下ろし始める。
唯一開かれていた背後の入口の扉が閉められた。開いている窓はない。この場所はほぼ密閉空間となる。
下条が前に出た。
「御仏の御照覧の下、これより糾問会を開会する。糾問官たる私はここに澤渡将典を告発する」
彼の朗々とした声が本堂に響き渡る。
「その罪は、華美を極め、贅沢を貪り、困窮した隣人に手を差し伸べることなく、仏の教えを悪戯に曲解し、あまつさえ、無辜の隣人に偽りを囁いたゆえである」
下条の言葉が区切られる。
「さあ、被告人。御仏の慈悲の下、弁明の機会を与える。何か言いたいことがあれば答えよ」
――腐ってやがる。
将典は心の中で軽蔑する。
見上げると、下条と目が合った。彼の表情は変わらず僧侶然としたものだが、その目は雄弁に彼の本心を語っていた。
――もう勝ったつもりか。
――飽くなき権力欲と貴族への復讐心の塊だな。
――公森家への復讐を果たしたことで、完全に道を見失っている。
清貧と謙虚さで仏に仕える者には全く見えなかった。
グッと奥歯を噛み締める。
――この男には絶対に負けない。




