第15話 ゲーム/現実
真宙の叫び声が、将典の耳にこびりついて落ちない。
ほんの10分前のこと。
角井了成が真宙の洗脳の治療をすると言うので、将典は隣室からその様子をうかがった。
質素な茶色の法衣を着た彼が数珠を片手に経文のような気術の起動文を唱えると、眠ったままの真宙の首に輪が浮かび出る。
「ほう。洗脳の術を具現化させましたか」
横にいた康嗣の口から漏れ出た声には、感嘆の色がのっていた。
そして、
「えい!」
気合の一声とともに、
パリン
了成は真宙の首輪を破壊した。
叫び声が響き渡ったのはその時だ。
将典が目をつぶれば、まぶたの裏にはその時の真宙の様子がまざまざと浮かび出る。背筋を反らし、白目を剥いたその姿。
目を開けて、彩気を行使する。了成が行った通りに、そっくりそのまま。
けれど、将典の首には輪が現れなかった。
失敗したわけではない。もうすでに、下条の洗脳から脱していた証。
それでも、
――くそっ!
言葉には出さずに自分を罵る。真宙が味わった苦しみを少しも共有できなかった悔しさ。洗脳から解放するこの方法を知っていたら、もっと早く真宙を解放できた悔しさ。それと……。
「若!」
康嗣から掛けられた声で、我に返った。
将典の目の前には応接室の扉。中で治療を終えた了成が待っている。
「洗脳の治療をお願いしたい」
今朝、康則が了成の寺を訪ねて、そう言えば、
「分かりました。ほな、行きましょか」
この二つ返事で彼は屋敷に来た。朝から降り始めて薄く積もった雪に、馬車の轍を刻んで。
――まずは真宙が解放されたことを喜ぼう。
目にした了成の彩気の流れも見事なものだった。十河はもちろん、下条の彩気よりも美しく整った流れをしていた。
――彼は才ある人間だ。
「愚者」の知識によると、了成は気術の使い手として描かれるだけではなかった。ゲーム「パルヴニール」の主人公が行き詰った時には、次に進むためにやるべきことの助言をしていた。
――だからと言って、使える人間とは限らない。
――見極めなければならない。
ギュッと一度、拳を握りしめると、将典は扉を開けた。
開けてすぐ、
――?
違和感を覚えた。
部屋が煙っていない。香の香りがしない。紅茶の甘い香りがした。
窓の向こうで、大粒の牡丹雪が舞っているのが見える。
僧侶を迎える際に焚く香が焚かれていなかった。
「礒橋。香が焚かれていないぞ」
使用人の失策を回復するために、すぐに指示を出そうとしたのだが、
「構いまへんよ。焚いたら、紅茶の香りが楽しめなくなりまっしゃろ」
右手で紅茶が入ったカップを掲げる了成に止められた。その指には指輪は1つもはめられていない。座っている場所は下座。
しかも、紅茶を音を立ててすすったら、
「あないなものは無駄。無駄なことはせえへんでええ。その分、お布施に包む金を増やしておくれやす」
そう言うと、左手で坊主頭をピシャリと叩いて、
「と、いけませんなあ。この歳になっても煩悩の塊。仏さんに怒られますわ」
人好きのする笑顔を浮かべた。
将典も毒気を抜かれて、上座の席に着くまでに、
「そうだな。御坊の煩悩を刺激するような布施を包むとしよう。素直に仏の叱りを受けてくれ」
こんな軽口をたたいてしまうほど。
言外に、康嗣に布施として包む金額を増やすように指示する。
その使い道は想像できたから、惜しいとも思わなかった。
『質素な寺でございました。しかも、孤児を10数人、面倒を見ているようです』
後ろに控える康嗣からこんな報告を受けていたから。
「愚者」の知識も、ことあるごとに金を求める了成の行動の裏に隠れていることを伝えてくる。貧しい自分の寺で保護している孤児たちを養うため、と。
了成が身にまとっている法衣も、ところどころ繕われたあとが見えた。
――角井和尚の言葉遣いは旧都の者の言葉だ。
――確か、旧都出身だったな。だが、実家は大政奉還後、没落した。
これは「愚者」の知識から。
「そうさせてもらいまひょ。せやけど、こんなええもん出しもろて、今日これからのお勤めはしんどいことになりそうですわ」
そんな彼は紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むと、一緒に供されていた菓子にも遠慮なく手を伸ばして、食べる。
「おおっ! これは堪りまへんなあ。美味すぎて、手が止まりまへん。困ったわあ、困ったわあ」
「困った」と口にしながら、手は止まらない。顔はほころんでいる。
今日の菓子は咲哉が考えたもの。将典は指示を出していない。
先日、試作品を作った時に、こう言っていたことも思い出した。
『ホットケーキの生地を焼かずに、蒸籠で蒸しあげてみました。厨房では「蒸しパン」と呼んでいます』
将典も蒸しパンに手を伸ばす。触ると、温もりとともに、ホットケーキとはまた違うフワフワさが指先に伝わってくる。口元に近づければ、甘納豆のかすかな香り。一口食べると、焼かれた香ばしさはないが、もっちりしっとりした食感が広がる。生地そのものの甘さは控えめだが、試作品の時には無かった甘納豆が食感の変化と追加の甘さを伝えてくる。
――美味いな。
――饅頭に近く、人々には馴染みやすいかもしれない。
――難点は華やかさに欠けることか。
――咲哉は甘納豆を追加して、見た目を整えようとしたようだが、まだ足りない。
――それでも彼が自ら考え作り出したことは褒めないといけない。
――これからが楽しみだ。
こんなことを頭の片隅で考えながらも、了成への観察を止めない。
了成も人好きのする笑顔をしながら、時折、探るような鋭い視線を送ってきていた。
どこか台詞めいた言葉も観察の一環なのだろう、と将典はあたりをつける。
気づくと、蒸しパンを食べ終えてしまっていた。これを機に先手を打つことにする。もう1つ食べたい欲求とのせめぎあいを経たうえで。
「礒橋。この蒸しパンも寿慶院への寄進として包もう。厨房に30個ほど追加で作るように伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
背後から礒橋の了解の返事を受けると、
「おっ! これは蒸しパンて言いはるのですか。初めて口にしましたけど、美味しいもんやなあ」
そう言いながら、了成はまた1つ蒸しパンに手を伸ばし、パクついた。将典は口の中に浮かんだ生唾を無視する。
「当家の料理人が作ったものだ。寿慶院の本尊への供え物として受け取ってほしい」
「これはこれはありがたいことですわ」
最後の一口を口の中に放り込むと、了成は明るい笑顔をしながら合掌してみせた。もちろん、寿慶院の本尊に供えられた蒸しパンは、その後、寺で面倒を見ている孤児たちの胃の中に消えるだろう。
彼が合掌する瞬間、その目の奥深くに深い憂いが浮かぶのが、将典には見えた。
了成の指先を見ると、乾燥して硬くひび割れている。手にしている数珠もかなり使い込まれている。下条も十河も指はつるんとしていて、手にしていた数珠は貴重な香木を使った高価なものだった。しかも、毎回、彼らは違うものを手にしていた。
そのことに思い至ると、将典はかすかに眉をしかめてしまう。
けれど、合掌を解いた後に続いた了成の言葉が将典の不快感を消し飛ばした。
「ほんで、この部屋でさっき焚こうとしはった香に、洗脳につながる薬が混ぜてあるっちゅうことはご存じでしたか」
――!
さらに、茶目っ気たっぷりな表情を浮かべて、了成は言葉を続ける。
「砂糖をぎょうさん食べはった人には洗脳の効果は届かへんのですけど」
思わず、将典は康嗣の方を向いて、同じ驚きの表情を浮かべた彼と顔を見合わせてしまう。
了成が茶目っ気たっぷりな表情をする直前に鋭い視線を送ってきたことにも、将典は気づいた。将典たちが了成を洗脳しようとした可能性を疑っていたことを。もちろん、その疑いは将典が顔に出してしまった驚きによって払拭されて、だからこそ、了成は茶目っ気たっぷりな表情を浮かべたわけだ。
「ほんで、この薬が混ざった香は、どこで手に入れはりました?」
顔を戻すと、了成は真面目な顔になって将典たちを見つめて来ていた。
――なかなかの洞察力だ。
――彩気だけではない。彼は本物の才ある人間だ。
「澤渡家のお方さんやったら、拙僧たちの間では洗脳が禁忌やっちゅうことはご存じのはず。拙僧はこのことをしかるべき筋に届け出なあきまへん。せやから、手に入れはったとこを教えとくれやす」
将典に入手先を隠す必要はなく、正直に答えようとしたのだが、
「それならば、秘書である小城真宙に任せてい……」
途中で気がついてしまった。
――愚かな! なぜ、今まで見過ごしていた?
心の中で、自分に向かって言葉の限りを尽くして罵倒する。見落としていたことが、いくつもあったことに気づいたからだ。
ひとつは、応接に使う香の管理を真宙に委ねていたこと。つまり、
「香の入手先は祥雲院だ」
同時に、
――十河は下条のまねごとをしていたわけではなかった。
――下条と同じように、私たちを洗脳しようとしていたんだ。
了成の言葉が正しいなら、
――私と礒橋は砂糖が入ったホットケーキを食べていたから、逃れられた。
知らず知らずのうちに薄氷の上を歩いていた事実が、将典の背筋に寒気を走らせる。
気がつくと、将典は下を向いていた。眉間にしわが寄りすぎて、引きつって痛い。指でもみほぐす。
改めて、顔を上げると、了成も両目を手のひらで覆い、天を仰いでいた。
「祥雲院。……祥雲院はんですか」
呟くような声を漏らすと、さらに絞り出すように了成は言葉を紡ぐ。
「……実は、拙僧は祥雲院の下条玄悔はんとおんなじ師匠のもとで学んだ兄弟弟子なのですわ」
そう言うと、ゆるゆると顔を戻したが、
「実家が落ちぶれて、不本意ながら仏道へ入った拙僧を、兄弟子はんはまるで実の弟のごとく可愛がってくださったん」
将典の目の前にいるのは、人好きのする笑顔を浮かべた陽気な僧侶ではなく、
「もっとも、兄弟子はんはあの頃から、自分を虐げた家族へ復讐せんと狙うておられました。拙僧を可愛がったんも、復讐の手足になりそうなお人が欲しゅうてのこと。それを承知した拙僧は、兄弟子はんから距離を置きはったんです。まだ若うて、修行も浅うございましたさかい、兄弟子はんに仏の教えを説くことがようでけへんかったんですわ」
苦悩し続ける一人の老人だった。実家を失い、故郷の旧都を離れ、今は江都の片隅で祈りの日々を送るしかない。
語る言葉は、己の罪から目を背き続けていた彼の懺悔であった。
「それから幾星霜。拙僧も歳をとりましたわ。風の便りで、兄弟子はんが復讐を果たはったと知りまして、ようやくあのお人が真心から仏さんに向き合える時が来たんやと喜んどったんですけど……」
将典にとって、初めて知ることだった。了成と下条が兄弟弟子だったことは「愚者」の知識には無かった。
「愚者」の知識では、「パルヴニール」の中で了成が現れるのは「悪役令息・澤渡将典」が倒れた後。主人公が下条と敵対するようになると、ふらりと了成が現れ、金と引き換えに手助けをする、そのような関係として描かれていた。下条の生い立ちや復讐を、主人公が知るのは了成の助けを得た後のこと。
――だから、確認する必要がある。「愚者」の知識の信頼度を判断するためにも。
「その下条の復讐の相手とは公森家のことか」
「! ……ご存じでしたか。流石は、武家の名門『澤渡』さんですなあ。おっしゃる通りですわ」
了成が左手で火が点いていない香炉を手元に引き寄せる。
「この薬を見た時、すぐに分かりましたわ。拙僧の師が作りやはったものと同じでしたさかい。見間違えようがおまへん」
ジャリと数珠がこすれる音がした。彼の右手に握りしめられて。
「全円大僧正はんと同じ誤った道を行かはる方が二度と現れることおまへんように、我が師は洗脳について自ら学び研鑽積みはりましたん。その研鑽の成果を受け継ぎはったんは兄弟子で、拙僧は形見としてほんの少しの書物を受け継いだだけ。その形見は今も大切に置かしてもらています。せやさかい、兄弟子が師の遺産を自ら手放しはったんか、まちごうて外に出しはったんか。そればっかり考え、拙僧は真実から目を背けとりました」
そして、了成は合掌すると深々と頭を下げた。
「下条玄悔がしやはったこと、弟弟子として、澤渡家の皆様に深うお詫び申し上げます」
「パルヴニール」の主人公とその仲間たちは下条の洗脳にあうことはなかった。洗脳されたのは「悪役令息・澤渡将典」。彼が倒れた後は、宏徳寺に出入りする人々。その人たちの中に、主人公が不可思議さに気づき、次第に下条の企みを暴き、敵対していく流れに「パルヴニール」はなっていた。
「謝罪を受け取ることは出来ない。そもそも、筋が違う。兄弟弟子だからと言って、御坊が謝罪する必要がどこにある?」
「……おっしゃる通りですなあ」
「パルヴニール」の了成は、常に陽気で、金にうるさい僧侶として描かれていた。
目の前にいる後悔と苦悩に満ちた人間とは全く違う。
窓が風で揺さぶられて、カタカタと音を鳴らした。
将典は結論を下す。
――「パルヴニール」とは物語だな。
――全円和尚の物語と同じ。
――和尚の物語も事実に忠実に書かれているが、どこかに偽りが潜んでいる。
――「パルヴニール」も同じだ。事実であるところもある。けれど、結局は……。
――私たちが生きている今この瞬間とは似て非なるもの。
「それよりも下条玄悔の狙いを知りたい。あやつは何を狙って洗脳という禁忌に手を出した? 御坊は何か知らないか」
「申し訳おまへん。はっきりしたことは何も分からしまへん。ただ、拙僧が小坊主やった時分より、実家の公森家への憎しみは並大抵やありまへんでした。そこから、さらに貴族はんらへの憎しみも尋常やありまへんでした」
「皇国を打倒しようとする目論見はないか」
将典のこの言葉に、了成は驚きで一瞬目を大きく見開いた後、考え込むようにして、
「……全うないとは言い切れまへん。それほど、兄弟子はんの憎しみは昔から深いもんでおました」
「それで十分だ」
将典は鷹揚にうなずく。このことについては、さほど問題ではない。むしろ、
「問題は下条が次に打ってくる一手だな」
これは了成へのふりでもある。
――御坊、そなたはこれからどうするのか。
誘うことはしない。無名の寺院の住職に向かって、澤渡伯爵家の次期当主が誘うことは出来ない。立場が許さない。
了成も理解している。
「もしも、兄弟子はんの憎しみが昔と変わらず今も続いとるようやったら、兄弟子はんは澤渡はんが距離を取ろうとする行いは決して許しまへん。きっと報復に来はります」
彼の言葉に将典の眉間に深いしわが寄る。
――下条との対決は決して避けられないか。
さらには、
コンコン
書斎の扉が鳴らされ、使用人の一人が顔を出した。その顔は青ざめている。
「ご歓談中、失礼します。……家令、申し訳ありませんが」
その呼び出しに応じて、康嗣が中座する。
――何が起きた?
将典が考えをめぐらす間もなく、すぐに康嗣が書斎に戻ってきた。険しい顔をして。
――凶報だな。
康嗣の手には一通の手紙。それが手渡される。
差出人は、
――糾問会。
――早速、下条は動いたか。
すでに封が解かれていた中身を取り出し、さっと目を通す。
それは糾問会への将典を断罪対象者とする召喚状。
将典は息苦しさを覚えた。まるで、下条の悪意に満ちた彩気によって、自分の身体が握りつぶされるような気がした。




