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聖女になれなかった少女は故郷に帰る

作者: あうまる
掲載日:2026/06/26

「ミア・ローデン。聖女認定試験、最終不合格」


 大神殿の広間で私の名前はさらっと読み上げられた。


 さらっと、である。


 こっちは七年も王都の聖女院に通い、朝は鐘より早く起き、夜は祈祷文を読みながら寝落ちし、春は花粉で鼻を詰まらせながら治癒訓練をし、冬は凍った水盤に手を突っ込まされてきた。七年分のあれこれが紙一枚と神官長の声で終わった。


 私の前に立っているのは金糸の刺繍が入った白い法衣の神官長。


 横には王家の役人が二人。さらに奥には今回聖女として認定されたクラリッサ・レインフォード侯爵令嬢が座っている。


 クラリッサ様はきれいだった。座り方も、指先の揃え方も、まぶたを伏せる角度まで教本みたいだ。ただ癒しの力は弱い。


 それは私だけが知っている話ではない。試験を受けた候補生なら全員知っている。水盤の聖水に手をかざしたとき、クラリッサ様の光は杯一つぶんしか広がらなかった。対して私の光は水盤の縁からこぼれ、隣の神官のあかぎれまで治した。


 その神官、治った手をあわてて袖に隠していた。見ましたよ。


「あなたには癒しの才があります」


 神官長は書類を閉じた。


「しかし聖女に必要なのは、力だけではありません。血筋、品格、祈りの姿勢、王国への奉仕の心。それらを総合的に判断した結果です」


「はい」


「不服ですか」


「いえ」


 私は首を傾げた。


 不服ではある。かなりある。けれどここで不服ですと言っても、結果が変わるとは思えなかった。


 なにしろ今年の試験は最初から変だった。


 産声だけで神殿の鐘を鳴らしたサーラは二次試験で「祈りの響きが大きすぎ、民を驚かせる恐れがある」と落とされた。


 病舎ひとつをまとめて癒したネリーネは三次試験で「出自確認に不備あり」と言われ故郷の港町へ帰された。


 山道で倒れた馬まで癒したイーリスは王都へ来る途中に急に奨学金を止められた。


 そして最後に残ったのは侯爵令嬢のクラリッサ様と、平民の私だった。


 結果は見えている。見えていたけれど試験の水盤くらいは正直であってほしかった。


「ミア」


 広間を出ると聖女院の女教師だったベラ先生が待っていた。


 灰色の髪をきっちりまとめたいつも背筋の伸びた人だ。怒ると怖いが風邪を引くと蜂蜜湯を作ってくれる。そういう人だった。


「荷物はまとめた?」


「はい。今日の夕方の馬車で帰ります」


「早いわね」


「昨夜のうちに準備していましたから」


「あなた、仕事が早いのはこういう時だけね」


 先生は息を吐いた。教本を抱える手に力が入っている。


「あなたはもっと怒っていいのよ」


「怒ったら馬車代が返ってきますか?」


「返ってこないわね」


「じゃあ故郷で怒ります。うちの村、畑が広いので」


「鍬を振るう方向に怒りを使わないで」


「薬草の根を掘るのに便利です」


 先生はそこでやっと口元を緩めた。


「ミア。あなたが不合格なのは神の判断ではないわ」


 廊下の向こうを王家の役人が通った。先生はその背中が曲がり角に消えるまで待った。


「上から名前が消えていった。強い子から順番に」


「やっぱりですか」


「やっぱりって顔をしないの」


「していました?」


「していたわ。生まれたての子馬みたいな顔」


「その例え、褒めてます?」


「走れる子は強いわ」


 先生は私の手に小さな革袋を握らせた。


「餞別。蜂蜜飴と傷薬。あなたに傷薬はいらないでしょうけど、馬車で隣に座った人が転ぶかもしれない」


「それはありそうです」


「故郷に帰ったらちゃんと寝なさい。あなたは癒せるからって自分の疲れを後回しにしがちだから」


「はい」


 返事をすると先生は一瞬だけ私を抱きしめた。


 すぐに離れた。廊下に人がいたから。


「帰りなさい、ミア。聖女院ではなく、あなたを待っている場所へ」


「はい。帰ります」


 私は頭を下げた。




 聖女にはなれなかった。それでも荷物は案外軽かった。七年もいたのに、木箱ひとつと鞄ひとつで終わる。王都で増えたのは、教本と手紙と妙に丈夫な靴下くらいだった。


     


 聖女の力があるかどうかは生まれた時の産声でわかる。


 赤子が泣いた時、その声で周囲のものが癒える。母の産後の痛みが引く。立てなかった犬が立つ。枯れかけた花が少し戻る。範囲が広いほど力が強いとされる。


 私が生まれた時は産婆さんの腰痛が治り、家の前にいた馬の脚の怪我がふさがり、村の井戸端で熱を出していた男の子の呼吸が戻ったらしい。


 その男の子がカイルだった。


 カイル・バートン。私の幼馴染。鍛冶屋の息子で昔から声が大きく、手も大きく、物の扱いは意外と丁寧だった。


 本人はその話をあまりしない。私が「産声で命を救ったらしいよ」と言うと、毎回「赤ん坊に恩を着せられるのは難しい」と返してきた。


 たぶん照れている。


 たぶん、と言っておく。


 カイルは顔に出ない。出ないくせに耳だけ赤くなる。ずるい。




 王都から故郷のローデン村までは馬車で二日かかった。


 一日目は乗合馬車の車輪が泥にはまり、二日目は隣の席のおじさんが干し肉を噛み続けていた。あれはもう移動ではなく干し肉の音を聞く修行だった。


 村の入り口に着いた時、夕方の鐘が鳴っていた。


 木の門の横に見慣れた男が立っている。荷車にもたれ、腕を組んで、こちらを見ていた。


「ミア」


「ただいま、カイル」


「荷物はそれだけか」


「寮に置いてあった鍋は置いてきた」


「鍋は大事だろ」


「聖女院の刻印入りだったから、持ち出すと面倒そうで」


「それは置いてこい」


 カイルは私の鞄を持ち上げた。


「軽いな」


「七年分の思い出が入っている」


「教本の重さしかないぞ」


「思い出にも紙質があるの」


「そうか」


 真面目にうなずかないでほしい。こっちが変なことを言ったみたいになる。実際少し変なことを言った。


「試験は」


「落ちた」


「そうか」


 カイルはそれ以上聞かなかった。慰めもしない。怒りもしない。笑いもしない。ただ荷物を荷車に載せ、手綱を握った。


「帰るか」


「うん」


「おばさんがシチューを作ってる」


「母さんが?」


「ああ。鍋の底を焦がしてた」


「帰って最初の仕事が鍋洗い?」


「聖女候補だったんだろ。焦げくらい癒せないのか」


「焦げは傷じゃない」


「不便だな」


「神様に言って」


 荷車が村の道を進む。小麦畑の匂い。干し草の匂い。家畜小屋の匂い。王都の香水よりこっちの方が鼻に馴染んだ。ちょっと馬が強いけれど。


 カイルは前を向いたまま言った。


「聖女にならなかったんだな」


「うん」


「じゃあこれからは村にいるのか」


「そのつもり」


「そうか」


 短い返事だった。でも荷車の速度が少し落ちた。私は気づかないふりをした。


 こういう時のカイルは気づいたと言うと黙る。昔から面倒な男である。


     


 家に帰ると母が本当にシチューを焦がしていた。


「おかえり、ミア」


「ただいま。鍋の底、見せて」


「久しぶりに会って言うことが鍋?先に抱きしめるくらいいいでしょ?」


「もちろん」


 母は私を抱きしめた。


 腕が細くなっていた。七年前より少し低くなった気もする。私は母の背中に手を回し指先で肩の張りを探した。癒しの力を少しだけ流すと母の息がゆるんだ。


「また勝手に癒したね」


「抱きしめたついで」


「ついでで肩こりを取る子があるかい」


「ここにいます」


 母は笑った。その笑い声で私はやっと帰ってきた気がした。


 夕食には焦げ味のシチューが出た。鍋底の焦げは削ったが味までは戻らない。聖女の力は万能ではない。焦げは焦げである。カイルは何も言わずに食べた。母も食べた。私も食べた。


 焦げていた。かなり。


「カイル、無理しなくていいよ」


「無理してない」


「顔が鍛冶場の煙を吸った時みたい」


「それはだいぶ無理してる顔だな」


「うん」


 カイルは木匙を置いた。


「次は俺が作る」


「鍛冶屋が?」


「鍛冶屋でもスープくらい作れる」


「鍋を打つところから?」


「お前、王都で口が悪くなったな」


「聖女院では上品にしてた」


「無理したな」


「した」


 母が向かいで笑っていた。


 王都の神殿では笑い声にも決まりがあった。口を大きく開けるな。手を叩くな。姿勢を崩すな。ここでは母が笑い、カイルが木匙を持ち直し、窓の外で犬が一回吠えた。


 聖女にはなれなかった。でも焦げたシチューを前にしている方が私には息がしやすかった。


     


 ローデン村での暮らしはすぐに忙しくなった。


 帰って三日目、隣の家の子が膝を擦りむいて泣きながら来た。


 五日目、粉挽き小屋の犬が足をくじいた。


 七日目、馬が柵に頭を突っ込んで抜けなくなった。


 最後は癒しではなく柵を壊した。


「聖女の力、使わないのか」


 カイルが斧を持ってきた。


「馬の頭は治ってる。問題は柵」


「柵は癒せないのか」


「木材に祈ってみる?」


「やめておけ。村長が見たら聖なる柵とか言い出す」


「それは困る」


 カイルが柵を割り、私は馬の脚の傷を治した。


 馬は礼も言わずに草を食べ始めた。こいつは聖女認定試験なら一次で落ちる。品格がない。


 村人は私を聖女様とは呼ばなかった。


 ミアちゃん。ミア。ローデンの娘。癒しの子。そのどれかだった。


 たまに聖女様と呼びかける人もいたが、母が「うちの子は聖女院を落ちたんだよ」と言って黙らせた。


 言い方。間違ってはいないけれどもう少し包んでほしい。


 王都の話はときどき新聞や商人の口から届いた。


 クラリッサ聖女様が王都の大聖堂で就任祈祷を行った。


 王家が盛大な祝宴を開いた。


 教会が新しい巡礼税を設けた。


 聖女様が初めて病舎を訪れた。


 そこまではよかった。


 一か月後、新聞の見出しが変わった。


『聖女様、王都西区の病舎を御訪問。治癒は限定的』


『大聖堂、追加の祈祷師を募集』


『王家、聖水備蓄の増産を命じる』


 母はそれを読んで眉間にしわを寄せた。


「限定的って何だい」


「たぶん、数人は癒せたってこと」


「病舎全部ではなく?」


「クラリッサ様の力なら、たぶん」


「それで聖女なのかい」


「認定はされています」


「変な話だね」


「変な話です」


 私は新聞を畳んだ。王都では今、クラリッサ様が一人で倒れそうになっているのかもしれない。


 あの人が悪いわけではない。少なくとも私が見た限りクラリッサ様は命じられた椅子に座り、命じられた笑みを作り、命じられた祈りをしていた。


 弱い力で強い役目を背負わされた人だ。それを選んだのは、王家と教会の偉い人たち。


 偉い人たちは、自分で病人の横に立たない。だから、水盤の光が杯一つぶんでも王都全体を癒せる気になるのだろう。


     


 秋の初め、王都から神官が来た。


 白い法衣に銀の飾り。靴には泥除けの魔法がかけられている。村道を歩くには便利そうだが馬の糞は普通に避けていた。魔法にも限界はある。


 神官は村長の家ではなくまっすぐ私の家に来た。


「ミア・ローデンですね」


「はい」


「王都大聖堂より通達です。あなたには聖女補佐として王都に戻っていただきます」


 母が台所から顔を出した。私は干していた薬草を束ねる手を止めた。


「補佐ですか」


「ええ。正式な聖女ではありませんが、癒しの才を持つ者として聖女クラリッサ様を支える栄誉が与えられます」


「栄誉」


「はい」


「給金は?」


 神官が瞬きをした。


「祈りに給金を求めるのですか」


「馬車代は?」


「奉仕の心があれば」


「宿は?」


「聖女院の空き部屋を」


「食事は?」


「質素なものになりますが」


「つまり、認定はしないけど働けと」


 神官の口が閉じた。母が鍋の蓋を置く音がした。少し大きかった。


「ミア・ローデン。あなたは聖女試験の落第者です。本来ならこのような名誉ある務めに呼ばれることは」


「なら呼ばなくていいです」


「何ですって」


「私は故郷に帰りました。畑もあります。馬もいます。今日の午後は村長の腰を診る予定です」


「村長の腰より王都の民が」


「王都の民を癒す聖女様はすでに認定されたはずです」


 神官は顔を赤くした。


「口を慎みなさい。平民の娘が」


「その平民の娘を王都へ連れて帰りたいんですよね」


 自分でも少し意地が悪いと思った。


 でもこちらも七年分の荷物を馬車で運んだ身だ。今さら空き部屋と質素な食事で呼び戻されるのはさすがに雑すぎる。


 その時、外から足音がした。カイルだった。


 手には鍛冶場の前掛けを持っている。仕事の途中で来たらしい。袖に煤がついていた。


「ミア」


「どうしたの」


「村長が王都の神官が来たって聞いてうちの腰は後でいいから行ってこいって」


「腰を理由に逃げる気だったのに」


「知ってた」


 カイルは神官を見た。


「ミアを連れていくんですか」


「あなたには関係のないことです」


「あります」


 カイルは短く言った。


「ミアはこの村の人間です」


「王都の命令です」


「試験で落としたんでしょう」


 神官の頬がひくついた。


「それは正式な判断です」


「なら、正式に諦めてください」


 母が台所で吹き出した。私は下を向いた。笑うと面倒が増える。


 神官は震える指で書状を差し出した。


「拒否するのですか」


「はい」


 私は書状を受け取らなかった。


「聖女補佐として戻る気はありません。怪我人や病人がいるなら旅費と宿を用意して普通に診療依頼を出してください。私にできる範囲なら診ます」


「王都が、平民の治療師に依頼を出せと?」


「聖女ではないそうなので」


 神官は何か言おうとしてやめた。


 庭先で馬が鳴いた。間が悪い。いや、今回はいい方かもしれない。


「後悔しますよ」


「それ、王都で流行ってるんですか?」


「何?」


「いえ。前にも似た話を聞いたので」


 神官は書状をしまい、背を向けた。


 帰り際、馬の糞を踏んだ。


 泥除けの魔法はそこまでは面倒を見てくれなかった。


     


 その夜、カイルが家の裏に来た。


 私は井戸で薬草を洗っていた。秋の水はもう冷たい。手を入れると指先が赤くなる。自分で温められるけれど、少し冷たいくらいの方が葉の泥は落ちやすい。


「手、冷えないか」


「平気」


「嘘だろ」


「平気寄り」


「それは平気じゃない」


 カイルは私の横にしゃがみ、桶を引き寄せた。


「半分やる」


「鍛冶屋の手で薬草洗うの?」


「手は洗った」


「そういう問題?」


「たぶん」


 彼は不器用に薬草を水に入れた。


 葉が折れそうになったので私は慌てて止める。


「違う違う。根元を持って軽く揺らす」


「こうか」


「そう。鍛冶より優しく」


「鍛冶も優しいぞ。鉄が言うことを聞かないだけだ」


「鉄のせいにした」


 しばらく二人で薬草を洗った。


 井戸の横には古い木箱がある。昔、カイルがそこに座って私の練習台になってくれた。転んだ膝。火傷した指。熱を出した犬。私の力は王都へ行く前からこの村にあった。


 でもカイルの命を救った話だけは、本人がほとんど触れない。


「カイル」


「何だ」


「今日、なんであんなに怒ったの」


「怒ってない」


「鍛冶場の火より顔が怖かった」


「それは怒ってるな」


「うん」


 カイルは薬草を桶に置いた。


 水が跳ねて彼の袖にかかった。カイルは気にせず濡れた袖を握った。


「俺はお前に一回命をもらってる」


「産声の話?」


「ああ」


「覚えてないでしょ」


「覚えてない。でも親父とお袋が何度も言った。お前が泣いたら俺が息をしたって」


 カイルの声は大きくなかった。


 鍛冶場で鉄を打つ時とは違う。井戸の水音に混じるくらいの声だった。


「だから恩返しをしたいとか、そういう話にするとお前は嫌がるだろ」


「嫌がる」


「だと思った」


「わかってるなら言わなくていいのに」


「でも言わないと王都の神官みたいなのがまた来る」


 彼は私を見た。


 顔は暗くてよく見えない。けれど濡れた袖を握る手だけは見えた。


「俺はお前に役目として戻ってほしくない。王都が困ってるなら依頼を出せばいい。礼も金も出せばいい。お前を落としたくせに都合が悪くなったら戻れって言うのは嫌だ」


「うん」


「それと」


 カイルはそこで言葉を切った。水桶の中で薬草の葉が一枚くるりと回った。


「聖女にならなかったなら、言おうと思ってた」


「何を」


「結婚してほしい」


 薬草を落とした。


 水面に葉が広がる。私は慌てて拾おうとして桶の縁に指をぶつけた。痛い。癒すより先に普通に痛い。


「何で今?」


「神官が来たから」


「流れがおかしい」


「王都に戻るかもしれないと思った」


「戻らないって言ったよ」


「聞いた。でもお前は頼まれたら診に行く」


「それは病人がいたら」


「そういうところだ」


 カイルは困ったように眉を寄せた。


「俺はお前のそういうところも知ってる。だから先に言う」


「先にって」


「王都に行くなとは言わない。治せる人がいるなら行けばいい。でも、帰る場所はここにしてほしい」


 井戸の横に薬草の匂いが広がっている。


 遠くで母が戸を閉める音がした。たぶん、聞かなかったふりをしている。聞こえている。絶対に。


「カイル」


「うん」


「恩返しじゃない?」


「違う」


「産声の話、関係ない?」


「ある。でも、それだけじゃない」


「じゃあ何」


「お前が焦げたシチューを真顔で食べるところとか、馬に品格がないって言うところとか、薬草を洗う時だけ妙に細かいところとか」


「褒めてる?」


「褒めてる」


「へた」


「知ってる」


 私は桶の中から薬草を拾った。葉の先が少し折れていた。あとで乾かす時に分けよう。


「私、聖女じゃないよ」


「知ってる」


「試験落ちたよ」


「知ってる」


「村長の腰と馬の脚と、たぶん王都から来る面倒な依頼を抱えるよ」


「知ってる」


「焦げたシチューは癒せないよ」


「それは困るな」


「でしょ」


 カイルはやっと笑った。


 私は薬草を桶から上げ布の上に並べた。指先の水を払う。冷えていたはずの手はいつの間にか熱くなっていた。


「考えます」


「今じゃなくていい」


「うん。明日の朝でもいい?」


「早いな」


「聖女試験よりは考えやすい」


「そうか」


「うん」


 家の窓の向こうで、母が咳払いをした。やっぱり聞いていた。


     


 冬の初め、王都から正式な依頼書が届いた。差出人は大聖堂だった。


 封蝋は立派で紙も厚い。香まで焚きしめてある。病人の手紙というより、王都の偉い人たちがまだ自分たちを偉いと思っている匂いがした。


『王都における癒しの儀に支障が出ております。元聖女候補ミア・ローデンは、至急大聖堂へ出頭し、聖女クラリッサ様の補佐として奉仕すること』


 私はそこまで読んで手紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。


「旅費は?」


 母が聞いた。


「書いてない」


「宿代は?」


「書いてない」


「給金は?」


「奉仕って書いてある」


 母は手紙を受け取り、眼鏡を少しずらして読み直した。


「紙だけは高そうだね」


「紙代を旅費に回してほしかった」


 カイルは鍛冶場から戻ったばかりで袖に煤がついていた。手紙をのぞき込み眉を寄せる。


「行くのか?」


「行かない」


 自分でも驚くくらい早く答えが出た。


 私は椅子に座り直し手紙の端を指で叩いた。


「病舎から依頼が来たなら考える。村から助けてくれって言われたなら行く。でもこれは王家と教会が困ってるから戻れって話でしょ」


「そう読めるな」


「じゃあ知らない」


 カイルが黙った。母も何も言わなかった。


 王都で誰かが困っているのはわかる。病人がいるなら、手紙の宛名を書いた人を通さずに頼めばいい。旅費と宿代と、治療を受ける人の名前を書けばいい。


 私を落とした人たちが今さら大聖堂の椅子を守るために呼ぶなら、それは私の仕事ではない。


「国が傾くとか言われたら?」


 カイルが聞いた。


「傾けた人たちが、まず柱を持てばいい」


「かなり言うな」


「七年分、今まとめて出てる」


 母が小さく笑った。


「それでいいよ。ミアは王都の柱じゃない」


「柱にされた覚えもないしね」


 私は返事を書いた。


『不合格者につき聖女補佐としての資格はありません。治療依頼を出す場合は、患者名、症状、旅費、宿代、報酬を明記してください。王家および教会の体面維持を目的とする奉仕には応じません』


 書き終えるとカイルが横からのぞいた。


「最後の一文、強くないか」


「弱く書いたら読まないでしょ」


「それはそう」


 封をして村の配達人に渡した。


 配達人は宛名を見るなり口笛を吹いた。


「大聖堂かい。返事、丁寧に書いた?」


「丁寧には書いた」


「優しくは?」


「必要?」


「いや」


 配達人は笑いながら手紙を鞄に入れた。


     


 その返事から十日後、王都の噂が届いた。


 クラリッサ聖女様は三日に一度しか大聖堂に出られなくなった。


 王家は「聖女様の神聖な御静養」と発表した。


 教会は癒しの祈祷を予約制にした。


 貴族たちは順番をめぐって揉め、平民の病舎には祈祷師が足りなくなった。


 ベラ先生からの手紙には蜂蜜飴が二つ入っていた。


『ミアへ。あなたの返事を読みました。大聖堂の廊下で神官長が三度読み直していました。三度読んでも奉仕しないという意味は変わりません。よい返事です』


 先生らしい文章だった。


『クラリッサ様は悪い方ではありません。悪い方ではないから余計に倒れそうです。けれど椅子に座らせた者たちが椅子を支える気もなく逃げているのなら、まずそこを直すべきです。あなたが自分の足で帰ったことまで王都の都合でなかったことにしてはいけません』


 最後に一行、細い字で足されていた。


『病舎から正式な依頼が出た場合はあなたの判断で。大聖堂の面子なら畑の雑草より後回しで結構です』


 私はその手紙を母に見せ、蜂蜜飴を一つ渡した。


 もう一つはカイルに渡した。


「何だこれ」


「先生から。王都の味」


「甘い」


「飴だからね」


「高そうな味がする」


「飴の感想が田舎者」


「お前も田舎者だろ」


「王都帰りです」


「聖女試験落ちの?」


「そこは言わなくていい」


 カイルは飴を口の中で転がしながら作りかけの棚を見ていた。


 私の新しい作業部屋に置く棚だ。薬草と包帯と、王都から持ち帰った教本を並べるためのもの。


「で」


「何」


「返事は」


「昨日したでしょ」


「聞き間違いかもしれない」


「都合のいい耳」


「鍛冶場で耳が悪くなった」


「結婚しますって言いました」


「もう一回」


「嫌です」


「そこを何とか」


「結婚します」


 カイルは棚板を落としかけた。


「危ない」


「お前が急に」


「言わせたのそっち」


「そうだな」


 棚板を持つ手が少し震えていた。


 私は見なかったふりをした。見たと言うとカイルはたぶん三日は拗ねる。


     


 春になって王都からまた手紙が来た。今度の差出人は王都西区の病舎だった。


 封蝋は粗く紙も安い。けれど文章はまっすぐだった。


『病人が増えています。聖女様の祈祷は貴族区を優先され、こちらには月に一度しか回ってきません。旅費と宿代、治療費を用意します。どうか三日だけ来ていただけませんか』


 私はその手紙を母とカイルに見せた。


「行くのかい」


 母が聞いた。


「行く」


「そう言うと思った」


「三日だけ。薬草園はお願い」


「馬は?」


「カイルに」


「俺か」


「婚約者なので」


「婚約者の仕事に馬が含まれるのか」


「含まれます」


 カイルは腕を組んだ。


「王都がどうなろうが知ったことじゃないって顔で大聖堂には返事したくせに」


「病舎は別」


「別か」


「王家の面子は知らない。教会の失敗も知らない。でも熱を出した子どもがいるなら、それは知ってしまった」


 カイルは少し黙り、私の旅鞄に古い手袋を入れた。


「じゃあ行ってこい」


「いいの?」


「帰るんだろ」


「うん」


「ならいい」


 母は乾燥薬草を紙袋に詰めた。


 村長は腰をさすりながら「帰ったら続きを診てくれ」と言った。


 馬は柵の向こうから顔を出して私の袖を噛もうとした。見送りなのか草と間違えたのかは不明。たぶん後者だ。


 私は馬車に乗った。


 聖女にはなれなかったし、聖女補佐にもならなかった。


 でも依頼された治療師として王都へ行く。


 大聖堂の鐘がどう鳴ろうが、王家が何を言おうが、私の知ったことではない。


 帰る場所も返事を書く相手も、もう自分で決める。


     


 王都西区の病舎は想像より混んでいた。


 廊下にまで寝台が並び窓際には咳をする子どもがいた。洗濯物は足りず薬瓶は空に近い。神官の姿はあるが皆目の下に濃い影を作っている。


 そこにクラリッサ様が来た。


 白い法衣。青い宝石。取り巻きの神官。王家の護衛。王都の新聞で見た姿より頬が痩せていた。


 彼女は私に気づくとほんの一瞬だけ足を止めた。


「ミア・ローデンさん」


「お久しぶりです、クラリッサ様」


「あなたが、こちらに」


「依頼を受けました」


「そうですか」


 彼女は唇を結んだ。


 手袋の指先が、法衣の袖を押さえている。


「私だけでは、足りないのね」


 周囲の神官が慌てて顔を上げた。


「聖女様、そのようなことは」


「足りないわ」


 クラリッサ様は神官の言葉を切った。声は疲れていたけれど、弱くはなかった。


「最初から足りなかった。あなたたちは知っていたでしょう」


 誰も答えなかった。


 クラリッサ様は私を見た。その顔には、怒りよりも疲れがあった。強い椅子に座らされた弱い人の顔だった。


「私、あなたに謝るべき?」


「私にですか」


「ええ」


「試験を決めたのはクラリッサ様ではありません」


「でも私は椅子に座ったわ」


「座らされても座ったことにはなりますね」


 少しきつかったかと思った。


 クラリッサ様は怒らなかった。手袋の指先が袖を押さえたまま動かなかった。


「そうね」


 私は病室を見た。


「先に子どもたちを診ます。話はあとで」


「ええ。私もできるところを」


「無理はしないでください」


「聖女に向かって?」


「病人が増えます」


 クラリッサ様は口元を押さえた。


 その日、私は病舎の三分の二を癒した。


 残りはクラリッサ様と神官たちが少しずつ回った。彼女は一人を癒すたびに椅子に座り手を温め直した。それでも逃げなかった。




 三日後、帰る時クラリッサ様は病舎の裏口まで来た。


「ミアさん」


「はい」


「私は聖女を辞められないと思う」


「はい」


「でも椅子の座り方くらいは変えるわ。王家と教会に平民病舎への巡回を増やさせる。補佐ではなく治療師として契約を結ばせる。あなたのような人を落としたあとで、ただ働きしろなんて言わせない」


「それを言うと偉い人が嫌な顔をしますよ」


「もう十分見たわ」


 彼女は手袋を外した。


 指先には小さなあかぎれがあった。


「私も、聖女の手らしくないでしょう」


「私の手も薬草の灰汁で茶色いです」


「では、お互い様ね」


 私は頷いた。


 クラリッサ様とは友達ではない。たぶん、すぐに友達になることもない。


 でも彼女の指先があかぎれたままなら王都で寝台を待つ人は少し減るかもしれない。それはそれでいい。


 けれど、ましにならなくても私が背負う話ではない。


     


 故郷に戻るとカイルが村の入り口で待っていた。


「早かったな」


「三日って言った」


「王都だから伸びるかと思った」


「伸びたら馬が作業場に入りそうな気がして」


「もう入った」


「何で?」


「村長が一頭預けていった」


「帰って最初に聞く話じゃない」


「俺もそう思う」


 カイルは私の鞄を受け取った。


 中に入っていた洗濯物の重さで少し眉を動かした。


「疲れたか」


「疲れた」


「飯は?」


「食べたい」


「焦げてない」


「それは助かる」


 村の道を歩くと薬草園の方から母の声がした。馬をなだめる声だった。元気そうで何より。いや、馬の世話は何とかしなければならない。


 家の前には新しい看板が立っていた。


『ローデン治療所』


 その下に小さく文字が追加されている。


『馬の脚は診ます。蹄鉄は鍛冶屋へ』


「何これ」


「村長が作った」


「止めてよ」


「聖女様って入れようとしてたから止めた」


「なら許す」


 私は看板の文字を指でなぞった。


 そこへ母が馬の手綱を引きながら戻ってきた。


「ミア、帰ったね。ちょうどよかった」


「ただいま。何?」


「カイルが夕飯を作ったんだけどね」


「焦げてないって聞いた」


「焦げてはいないよ」


 母は台所を指差した。


「塩が多い」


 カイルが目をそらした。


「鍛冶屋、料理はまだ修行中です」


「わかりました」


 私は袖をまくった。


「聖女になれなかった私はまず夕飯の塩抜きから始めます」


「それ、治せるのか?」


 カイルが聞く。


「水を足します」


「魔法は?」


「鍋には普通の方法が一番効く」


 母が笑い、カイルが鍋を取りに走り、馬が看板の横で草を食べ始めた。


 私はその馬を見た。


「蹄鉄は鍛冶屋へって書いてあるでしょ」


「馬は読めないぞ」


 カイルが台所から言った。


「知ってる」


 王都からの手紙はたぶんまた来る。


 大聖堂は困るだろうし王家も面子を保つために何か言ってくるかもしれない。


 国がどうなろうが知ったことではない。


 私を落とした試験も、私を呼び戻したい大聖堂も、勝手に困ればいい。


 病人がいるなら病人の名前で依頼を出せばいい。私はその時だけ馬車に乗る。


 夕飯の塩抜きはあまりうまくいかなかった。

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― 新着の感想 ―
真面目なだけにクラリッサが可哀想だよなー 神殿と王家がクソなのは間違いない バチが当たれ
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