主語のちいさな私たち
「私たちは、常に前進しなければならない」
街の中央広場に設置された巨大なホログラム・スクリーンの中で、大統領が力強く拳を握りしめていた。その輝かしい言葉の波は、広場を行き交う群衆の頭上に降り注ぎ、人々の背筋をほんの少しだけ伸ばさせる。
彼らの言う「私たち」には、もちろん、広場の隅で古びた移動式キッチンのコンロに火をつけている男、ヨシュアの姿も含まれている――はずだった。
ヨシュアはこの街でスープ屋を営んでいる。
彼の仕事は、大統領の演説に出てくるような「人類の偉大な躍進」や「我が国の経済的繁栄」とはおよそ無縁の場所にあった。ただ、クタクタに煮込んだタマネギと、少しの塩、それから手に入った端切れの肉を煮込んで、温かい一杯を作る。それがすべてだ。
「なぁ、ヨシュア」
馴染みの客である靴職人の老人が、スープの湯気で眼鏡を曇らせながら言った。
「さっきの演説、聞いたか? 『我が市民は一丸となって、この歴史的転換期を乗り越える』だってよ。主語が大きすぎて、どうにも俺の足元まで届いてこねぇんだ」
ヨシュアは苦笑しながら、おたまを動かした。
「大きすぎる服を着せられているみたいで、落ち着かないですよね」
「そうそう、それだ。俺たちはただ、明日の靴底をどう張り替えるかって話をしてるのにな」
この街ではいつからか、誰もが大きな主語で語るようになっていた。
SNSを開けば「現代人は」「この国は」「若者は」という言葉が飛び交い、主語の大きさに比例して、人々の声は尖り、荒れていった。主語が大きくなればなるほど、その中にいるはずの一人ひとりの顔は見えなくなる。まるで、巨大なモザイク画の一片にされてしまったかのように。
ある日の夕暮れのことだった──
いつもよりひどく冷え込む風が街を吹き抜けていた。
ヨシュアの店の前に、一人の少女が立ち止まった。制服を着た、まだ高校生くらいの子だ。彼女はしばらくメニューボードを眺めていたが、やがて小さく財布を開き、中身を確認して、ため息をついた。
ヨシュアは何も言わず、いつもより少し多めにスープをよそって、彼女の前に差し出した。
「これ、試作品なんだ。感想を聞かせてくれないかい?」
少女は驚いたように顔を上げ、それから恐る恐るスプーンを取った。一口すすると、凍えていた身体が内側からほどけていくように、彼女の表情が柔らかくなった。
「……おいしいです」
「それはよかった」
ヨシュアが微笑むと、少女はスープの器を見つめたまま、何か話したそうな顔をした。
気になって、ヨシュアが「どうしたの? 学校で何かあった?」と聞くと、少女がぽつりぽつりと話し始める。
「学校で、先生が言うんです。『私たちの世代は、未来の地球を背負っている』って。ネットを見ると、『今の学生は自覚が足りない』って書かれてる。……なんだか、すごく息が苦しくて。私はただ、来週の数学のテストが怖くて、友達と喧嘩しちゃったのが悲しいだけなのに。私って、その『私たちの世代』にちゃんと入れているんでしょうか」
彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれそうになっていた。
何があったのかはよくわからない。だがヨシュアはカウンターに身を乗り出し、彼女の目を見て静かに言った。
「君は、地球を背負わなくていいよ」
「え?」
「大統領も、先生も、ネットの人たちも、みんな『大きな主語』の物語を話すのが好きなんだ。そのほうが、自分が何か偉大なことに関わっている気がするからね。でもね、その大きな物語の中には、君のテストの不安も、友達と仲直りしたいっていう気持ちも、入る隙間がないんだよ。あまりに大雑把だから」
ヨシュアは彼女のスープの器を指さした。
「このスープはね、君のために作ったんだ。『私たちの世代』のためじゃない。今、目の前でお腹を空かせて、悲しい顔をしている『君』のために作った。だから、君はただの『私』として、このスープを飲んで、あったまって、それから友達に『ごめんね』って言えばいいんだよ。主語なんて、それで十分さ」
少女は一瞬きょとんとした後、今度は本当に嬉しそうに笑った。
「……はい」と小さく頷き、残りのスープを最後の一滴まで飲み干した。
夜が更け、街の喧騒が静まり返る頃、中央広場のホログラムは消灯した。
大統領の「私たち」は、夜の闇に溶けて消えてしまった。
ヨシュアはキッチンの片付けをしながら、夜空を見上げる。
世界を動かすような、大きくて立派な主語の物語は、きっとこれからも溢れ続けるのだろう。けれど、ヨシュアはそれでいいと思った。
誰かが置いてけぼりにした、小さな「私」の物語。
それを拾い上げ、温めるために、彼は明日もまた、この小さなコンロに火を灯すのだ。




